第五福竜丸事件を忘れないために、夢の島の「第五福竜丸展示館」を訪ねた!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
1945年に広島と長崎に原爆が落とされてから、約70年。
学校で日本の歴史を学ぶ中でも、原爆の恐ろしさは日本人の誰もが教わったはず。
そんな中、1954年におこった「第五福竜丸事件」に関してはあまり取り上げられることが少ないように思います。
ハワイのビキニ沖で行われていた水爆実験。
その実験で生じた「死の灰」と言われる灰を浴びてしまった第五福竜丸の乗組員達。
現在、その第五福竜丸は東京の江東区にある夢の島に保存されています。
あの事件を忘れないよう、再認識するために、その展示館に行ってきました!!

東京の新木場駅から10分近くと、その展示館である「第五福竜丸展示館」は現れます。
はたから見ると、異様な建物だ!!

ここが入口だ!!

どでーーん!
入ると、いきなり第五福竜丸が姿を現した!!
そして、この船は当時の物そのまま、つまり本物が展示してあるのです。
この第五福竜丸は1947年に和歌山県で建造されました。
当初は、かつお漁船として活躍をして、その後マグロ漁船用に改造されました。
遠洋まで出れるように、ということのようです。
そして、時は1954年3月1日。
第五福竜丸が太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁で、アメリカが行った水爆実験によって被害を受けました。

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入ってすぐ右側には、多数の千羽鶴が!!

小学生や中学生がおった多数の折り鶴。
その学校名を見ると、山梨県、三重県と日本全国から寄せられたもの!

第五福竜丸の脇では、パネルが展示してあって、第五福竜丸事件を学ぶことが出来ます。

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入口の反対側には、先端部分の勇ましい姿が見られます。

2Fに上がって船上を見ることもできます。
しかし、木造の船は本当に珍しい。
船の素材としては、主に4種類あるそうです。
それは、「鋼船」「軽合金(アルミニウム)船」「FRP(繊維強化プラスチック)船」「木船」です。
それぞれ特徴がありますが、木船はほとんど作られていないそうです。

モールス信号も展示してありました。
モースル符号は、1835年にS.モールスによって考案され、短点(・)と長音(-)で構成されます。
日本では1901年に海上の無線通信に実用化され、船舶航行の通信手段として20世紀末まで活用されました。
1912年のタイタニック号遭難事件を契機にモールス通信を主体とした国際的な海上遭難、安全通信制度が出来、海上の航行の安全に大きく貢献しました。
漁業通信は、漁労の効率化のため大きな役割を果たしました。
特に遠洋マグロ漁の場合、当番船を中心に同一漁場で操業中の船が「自船の位置、投縄数、コース、水温、漁獲の種類、量」の位置を報告しあい、漁場における秩序と漁獲量の増加を計りました。

1954年3月1日午前6時45分。
マグロ漁船である第五福竜丸の乗組員は、西の空が突然明るくなり、火の塊を見ました。
数分後大きな爆発音がとどろきました。
3,4時間が経つと、空良から白い灰が雪のように降り注ぎ、看板に足跡がつくほどに積もったそうです。

その場所は、マーシャル諸島ビキニ環礁から東へ160km離れた場所でした。
乗組員が見た火の塊は、アメリカがビキニ環礁で行った世界で最初の実用可能な水爆(水素爆弾)「ブラボー」の実験でした。
当時、アメリカはビキニ環礁とエニウエトク環礁で核実験をしていました。
しかし、第五福竜丸が操業していた所は、自由に通行・操業できる公海上で、アメリカが定めた危険区域の外側(東へ30km)でした。

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第五福竜丸に降り注いだ白い灰は、放射能を大量に含んだ珊瑚礁の細かいちりでした。
これが、「死の灰」と呼ばれているものです。
「死の灰」は、23人の乗組員の顔、手、足、髪の毛、お腹に付着しました。
鼻や体内に吸い込まれたり、この灰がついた箇所は火傷の状態になりました。
皆が頭痛、吐き気、目の痛みを感じ、歯茎から出血、髪の毛を引っ張ると、根元から抜けてしまったそうです。
上記の写真は、死の灰の実物!!
これも、この展示館に展示してありました。
この灰は、東京大学、静岡大学、金沢大学、大阪市立大学などの研究室で科学者が総力を挙げて取り組んだそうです。
なんせ、アメリカ側が必要な資料の問い合わせに応じないため、日本で調べるしかなかったのです。

第五福竜丸は、マグロを取る延縄(はえなわ)を引き揚げて全速力で日本に向かい、2週間後に焼津港に帰り着きました。
その最初の報道は3月16日の読売新聞の記事。
この記事により、日本中に衝撃が走りました。
上の写真は、乗組員の方が病院にいるときの写真。
乗組員は3月下旬、地元の病院から全員東京に移され、東大病院と国立第一病院に入院しました。
そして、1年2ヶ月にわたり治療が行われました。

治療のためには水爆「ブラボー」の資料が必要でしたが、アメリカ政府はその問い合わせに回答しませんでした。
そこで東大などの大学が総力を挙げて「死の灰」を分析し、医師団による熱心な治療が行われました。
しかし、懸命な治療にもかかわらず、第五福竜丸の無線長であった「久保山愛吉」さんが9月23日に亡くなりました。
久保山さんは、亡くなる前にある言葉を発したそうです。
「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」と。

その久保山さんの碑が、展示館の外にありました。
この碑にも、先ほどの言葉が刻まれていました。
この言葉は、非常に重い!
この言葉が事実になってほしいものです。
これ以上、被害が出ないことを願っております。

そして、被害は魚の汚染へと広がっていきます。
第五福竜丸が捕ってきた魚をガイガー・カウンターで検査すると、汚染がひどくなっていることに。
そして、これらのマグロは東京の築地市場内の地中に埋められたのです。

築地の一角にはこのようなプレートが見られます。
水爆実験の被害は856隻の船舶に影響を与えました。
水揚げされたマグロは「原爆マグロ」といわれ485トンが捨てられました。
全国の漁業関係者、魚屋さん、すし屋さんなどは商売にならず怒りの声を上げたそうです。

展示館の外には、「マグロ塚」がありました。

1Fには、写真の様に多数の第五福竜丸事件に関する書籍を見ることが出来ます。
スタッフの方もいらっしゃいました。

その棚の上には、「ゴジラ」の模型が!!
そう、実は第五福竜丸事件はゴジラと深い関わりがあるのです。
実はゴジラは水爆実験を題材にした作品だったのです。
ゴジラが初めて公開されたのは、久保山さんの死から2ヶ月後の1954年11月でした。
「ゴジラ」は、水爆実験の衝撃により長い眠りから覚めて、ビキニ環礁の海底から姿を現した太古の怪獣とされています。
放射能をまき散らしながら東京を破壊し尽くすその姿は、東京が水爆によって壊滅させられる様を表しているように感じます。
そう、原爆のようなものを人類が開発したことにより、街がこのように壊滅することも十分にありうるのだという象徴として、「ゴジラ」は現れたのです。
ゴジラにそんな背景があったとは、私も最近まで知りませんでした・・。

第五福竜丸事件から約60年。
この事件だけでなく、太平洋戦争、日本航空123便墜落事件、地下鉄サリン事件、東日本大震災などなど日本には忘れてはいけない出来事が多々存在する。
しかし、人は忘れていくもの。
あの千羽鶴を折っていた中学生たちは、どのような気持ちで折っていたのか。
風化されずに、語り継がれることを心から祈っています。
ここは、新木場駅から徒歩10分の場所にあるため、首都圏に住んでいればアクセスは容易です。
ぜひ足を運んで見てください!

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参考文献

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詳細・地図

住所 東京都江東区夢の島2丁目1−1
営業時間 9:30~16:00
休館日 月曜 ※月曜が祝日のときは開館し火曜休館
入館料 無料
駐車場 無料
電話番号 03-3521-8494
アクセス 東京メトロ有楽町線、JR京葉線、りんかい線、『新木場駅』下車、徒歩13分 都営バス「夢の島」バス停下車、徒歩5分
リンク http://d5f.org/
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