神奈川県真金町に存在していた「永真遊郭跡」を再度再び調査してみた!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
今まで知の冒険の記事を書くにあたり色々な遊郭跡を巡りに巡りまくっては調査をしているわけですが、今回の遊郭はまたまた永真遊郭です。以前、永真遊郭に関して跡地を歩いて記事を書いたわけですが、長い歴史を持つこの遊郭にはまだまだ書くべきことがあるということで、再度色々な調査を重ねて記事を書くことにしました!
↓↓ちなみに以前の記事はこちらです!
本記事のポイント

・永真遊郭跡は、現在住宅地となっており痕跡はほぼない
・歌丸さんのおばあさんは、永真遊郭で遊郭を経営していた
・現在は韓国系などの外国人が多く住み、遊郭時代を知っている方はほぼいない

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永真遊郭誕生の経緯

▲横浜最初の遊郭があった横浜公園
まずは、永真遊郭誕生の経緯から!今現在の真金町・永楽町にある永真遊郭はどのような経緯で出来たのでしょうか?
元々横浜遊郭は港崎遊郭という今の横浜スタジアムがあった場所に遊郭がありました。その後、豚屋火事によって焼失した後に吉原町郭、高島町郭という経緯を経て今回紹介する永真遊郭になります。
港崎遊郭が火事にあった後は、関外にも人が多くなってきたことから移転を余儀なくされて、吉田新田の沼地を埋め立てて出来た吉原町郭を完成させます。しかし、吉原町郭の焼失後は、関内にも人が多くなってきたことから、高島嘉右衛門が鉄道用に埋め立てた土地に移転。
しかし、高島町は東京への入り口でもあるということで、移転先を用意する必要が出てきたのです。そして、その候補に挙がったのが関外にあった郊外な土地でした。
吉原遊郭も、入り口をくの字に曲げて外界から見えないように工夫したり、藤沢遊郭でも二丁町遊郭でもどこでも遊郭というのは栄えた町の隅っこに追いやられるものなのです。横浜遊郭も高島町郭の後にどこに移転するかという話になり、結局は山吹町、千歳町、山田町、富士見町の4つの町に決定されることになります。
そして、これら4つの町は明治15年1月に遊郭に伴う区画整理のために町名改正が行われ、真金町(眞金町)と永楽町になりました。

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永真遊郭の街はどう変わってきたのか?

上の図は1945年頃の永真遊郭の様子。この当時はエリアの北側(上図の左側)に遊郭が多く点在している形になっています。この頃には、港崎遊郭の頃から横浜遊郭を代表する岩亀楼や、外国人専用の遊郭であった神風楼の姿はなくなっています。岩亀楼の楼主は横浜遊郭の創設に携わった佐藤佐吉でした。明治17年9月15日の大暴風がきっかけで消滅していったようです。
外国人専用の遊郭であった神風楼は長崎の遊郭をも付したもののようで、結構な外観だったそうです。建物の中には舞踏室、食堂、喫煙室まで設けられていたすです。この遊郭に訪れるお客さんは、外国の水兵、仲士など多くの人種が集まり、割り込みなどによってお客さん同士の喧嘩が絶えない街だったそうです。
上図の右下には真金町病院という病院がありますが、この病院では永真遊郭に連れてこられた女性たちが健康診断を受けていた病院でもあります。女性が娼妓(しょうぎ)になるためには、満18歳以上、本人の戸籍、親の承認印、連帯保証人印を満たして、娼妓鑑札登録証を発行してもらう必要があります。また、遊郭内の真金町病院で健康診断を受けて、性病の有無や体の欠陥等を診断されて女性としての価値を判断されるのです。
遊郭時代の情報をあげるときりがないですが、そんなこんなで売春防止法が施行されるまで遊郭としての歴史を刻んでいくのです。
▲売春防止法が施行された真金町・永楽町
1956年5月21日に売春防止法が成立し、1958年4月1日に売春防止法が施行されました。それによって、長きにわたって続いていた永真遊郭の歴史が終わりを告げたわけです。施行が間近に迫った1958年2月には売春防止法後に転業旅館になるお店や、カフェー・バーに転業する店も非常に多かったようです。
上の地図で示したのは1958年当時にカフェーがあった場所を示した地図。自分の手元には店名まで書かれた資料があるのですが、店名まで書くときりがないのでそこは省略させていただきました。カフェーなどの屋号は「ライオン」「キューピー」などのカタカナ表記の店が多く、それは戦後の占領軍による英語の導入によるものなんだそうです。この時代が永真カフェー街という状態。

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▲1991年頃の真金町・永楽町
そして、カフェー街となった永楽町・真金町でありますが、当時の建物を残す旅館が点在する状態となったものの、遊郭の建物は老朽化の問題もあり、解体されて民家に新築されるケースが多発。それによって徐々に遊郭街の面影が消えていったようです。
上の図は1991年ごろの真金町・永楽町の様子です。この当時はソー〇ランドが建っていたほか、ラブ〇テルが建ち始めている感じです。特に目立つのが、駐車場や工事中のエリアが結構多いということ。
そのエリアが元々遊郭の跡地だったということもあり、妓楼を取り壊した跡地などがそうなったのではないかと推測してます。ラブ〇テルの周辺の工事中エリアは、今ではラブ〇テルが建っていることから、この辺のホテルはこの時期に建てられたのではないですかね??

改めて永真遊郭跡を歩く

今回の記事を書くにあたり、再度永真遊郭跡を歩きました。上では過去の街並みを紹介しましたが、今目立ってあるのはこんな感じですかね。ほとんど住宅になっていてちょこちょこラブ〇テルや飲み屋があるという感じです。
富士楼は桂歌丸さんのお婆さんが経営していた遊郭で、また大門跡は元々ここの遊郭の入り口であったわけですが、今は何もありません。。。
▲永真遊郭の入り口として大門があった場所
今回の記事を書くにあたり、実は3回近く永真遊郭跡を訪れました。ここは黄金町や曙町などの取材のついでにこれる場所でもあるので!結局なんだかんだ合計7回くらいは来てる気がします。まず紹介するのはココ!!ここはかつて大門があった場所、つまり永真遊郭の入り口だった場所です。今ではその門の跡すらないですけどね。。
▲眞金町病院があった真金町病院
真金町公園は、先ほども説明した通り元々は「眞金町病院」という病院でした。その後、カフェー街になった頃には横浜南税務署となり、その後公園となっています。この公園では、毎年行われる酉の市の際に、よく桂歌丸さんが太鼓をたたきに来たりしていたそうです。桂歌丸さんがここの地元というのは大変有名な話。
▲歌丸さんのおばあさんが経営していた「富士楼」跡
そんな歌丸さんは、お婆さんが遊郭を経営していたとのこと。その遊郭の名は「富士楼」という。歌丸さんの祖母は大変有名な方で、地元のヤクザもサッと道の側に寄るほどだという。そんな富士楼は、文献をあさると、上の写真の場所に建っていたようです。今では駐車場となっていますね。。。
そんな永真遊郭は、現在住人のうちでも外国人の割合が非常に高いようです。記事を書くにあたって聞き込みをした方が言っていただけでなく、実際に街を歩くだけでも中国語などの外国語が聞こえることからわかるのです。そんなこともあって、韓国系などの居酒屋も本当に多く見かけるんですわ!!
他には、遊郭跡だからなのかは不明ですが美容院の数もやたらと多く感じます。
韓国系など以外でも飲み屋がもぽつぽつ見られますが、建物がちょっとカフェーの建物跡っぽい感じがする場所も残っています。

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地元の方に話を聞けた!

今回の記事を書くにあたり、地元の方の声も聞きたいということで2人の方に話を聞くことが出来ました。結果として遊郭当時のリアルな話は聞けなかったものの色々な話を聞くことが出来たので以下で紹介します。

中華料理屋のお母さん

▲取材に応じてくれた中華料理屋「龍華」
今では当時の事を知る方はほとんどいないようです。なんせ、移住してきた方々や中国人や韓国人などの外国人が多く住んでいることからもわかる。そこで、地元の中華料理屋さんに直撃して話を聞いてみることにしましたよ!
こちらは長くから永真遊郭跡にお店を構えている中華料理屋さん。何かちょっと昭和の雰囲気を感じられるお店で、お客さんとしては地元の方が多いんでしょうかね?
お水はペッドボトルです!ということで、ご飯を食べた後にお店のお母さんに永真遊郭に関して何か知っているか聞いてみました。
しかし、結果としては当時の事はご存じないとのことでした。今現在永真遊郭に住んでいる方の中では、当時の方を知っている方は本当にごく僅かとのこと。「ここに住んでいる方は、昔ここが遊郭の街だったということは知っているみたいですけどね。。」ということでした。
今では息子さんとお母さんがお店をやっているよう。お母さんの母親もお元気のようで年齢は94歳。「うちの母ならもしかしたら知っているかもしれないんですがね。もう94歳で耳も遠くなっていますし。」とのこと。
遊郭のことに関しては、聞かれたことは初めてということもあり、「遊郭跡地を巡っているんですよ!」という事を伝えると、すごく新鮮だったようでした。遊郭に関しての情報を得ることはできなかったものの、20分くらい今の街の現状などの話を聞いて今回の聞き込みは終了となりました。

アパートに住むおっちゃん

▲永真遊郭跡に植えられている柳と桜
続いては永真遊郭の中にあるアパートに住むおっちゃんに話しかけてみました。おっちゃんは今から30年前位にここに移ってきた方。ということで、結果としては永真遊郭当時の事は何も知らないとのこと。
しかし、結局1時間位色々な話を聞くことができました。おっちゃんは仕事の関係で鳥取やら大阪やら色々な所に行っていたようで、遊郭跡を巡っているという話をすると、「俺は昔大阪の信太山新地とかはいったことがあるよ」といっていた。
昔いたとある芸人さんのお兄さんが信太山新地でオーナーをしていたなんて話も聞けたり。今おっちゃんが住んでいた隣のアパートでは、とある方が自殺をしたなんて話も最後に聞いておっちゃんと別れることに。
そんな話を聞いた後だからか、このエリアではパトカーもよくうろついているなんてことも多い。今現在もそんなに治安がいい場所とは言えないんでしょうかね?

おわりに

今回永真遊郭の記事を再度書いてみましたが、遊郭は掘り下げるとどんどん出て来るって感じです。最近は古書などの資料を読み漁るなどして情報を集めていますが、どこかで歯止めを利かせないと永遠と調査に時間がかかりそうな気が・・( ;∀;)
ということで、これからも永真遊郭を含む横浜遊郭の歴史調査は頑張って続けていこうと思います~~!

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市南区真金町
アクセス JR関内駅より徒歩10分くらい
リンク https://ja.wikipedia.org/wiki/真金町
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