シベリア抑留の歴史を学ぶべく京都の「舞鶴引揚記念館」を訪れた!

スポンサーリンク
日本の歴史において、引揚という歴史を忘れてはいけない。戦争によって原爆投下、GHQによる占領、慰安婦問題などまあ色々な問題があるわけですが、今回取り上げる引揚も我々日本人には忘れ去るわけにはいかない事柄なのだ!
と言っている私であるが、そんな引揚に関して知ったのは本当に最近のこと。知の冒険を始め色々視野を広げて情報収集はしているもののまだまだ知らない多くのことがあると実感したので、その引揚の博物館である舞鶴引揚記念館に行ってまいりました!
では、以下で説明いたしやすぜ!

舞鶴市はどんな街か?

舞鶴ってどこやねんという話なのですが、京都府の北側にある都市になります。舞鶴港などの港があるため日本海というか若狭湾に接している都市です。敦賀・大飯・美浜原発がずらっとあるあの湾ですわ!

舞鶴はアクセスが悪い!

舞鶴引揚記念館があるのは京都府の舞鶴市。京都とはいっても京都駅からはかなり離れており、遠方から舞鶴へ行くにはちょっと交通の便は悪い感じです。私は車をぶっ飛ばして行きましたけど・・。舞鶴引揚記念館に関しては最寄りの東舞鶴駅からも数km離れているためはっきり言ってアクセスはめちゃくちゃ悪い。。。
東京などに住んでいる方であれば土日休みで行くのはちょっと厳しいんじゃないかと思うそんな場所にあるわけです。でも、ここは本当に1度は行った方がいい博物館ですよ!

赤れんがパークでも有名!

しかし、そこは軍港であったり舞鶴赤れんがパークという赤れんがの建物が立ち並ぶ光景もある他、肉じゃが発祥という事実もある街でもあるのだ!私は、一度舞鶴には来ていてまだ記事にまとめてはないですけど赤れんがパークはその時訪れていたんですよ!
そんで、以前訪れた時のことで、今でも「もったいないな〜」と思っていることがありまして。以前訪れた時に赤れんがパークに行ったわけですが、赤れんがパークと引揚記念館はセットでチケットを買うと値引きされるんですよ!そんで、まぁ一応セットで買っとくかと思ってその時に引揚記念館のチケットも買っていたわけなんですが、結構閉館の時間が迫っていたこととその時は引揚記念館っていっても、どんな博物館か事前知識がなかったため「ま、いっか!」と思って赤れんがパークを見た後に、ここを去ってしまったのです・・。
いや〜今考えると何ともったいないことをというか、シベリアの地で亡くなった先人の方に申し訳ないというか・・。事前調査は本当に大事だと思い知らされましたわ・・。

舞鶴引揚記念館とは

そんな舞鶴で有名な赤れんがパークをさらに北に進んでいくと、舞鶴引揚記念館に到着する。この記念館が出来たのは1988年4月のこと。引揚を終えたのが1958年であり、それから30年経ったという節目でもあることから、引揚記念公園内にこの記念館は建てられた。

実際に引揚記念館を訪問した!

上でも書きましたが、恥ずかしながらこの引揚という事実を知ったのは本当に最近のこと。私が尊敬するジャーナリストの青山繁晴氏が、とある番組で「ぜひ、一度は引揚記念館に行って欲しい」ということを言っていたことからこの記念館の重要性を知ったのです。

私が訪れたのは2017年が明けたばかりの年始の時期。まだ午前中ということもあってかお客さんはほとんどいなかった。

ユネスコ世界記憶遺産に登録

中に入るとまず目に飛び込んでくるのがこれらの千羽鶴。広島の「原爆記念館」、東京の夢の島にある「第五福竜丸展示館」など多くの施設で千羽鶴を見てきたがここにもあったか。「平和」や「祈」という文字を表す千羽鶴は非常に見事。
千羽鶴は平和の象徴とされ、私も昨年亡くなった祖母に小学校の時は祖母が入院するということで姉と一緒に千羽鶴を折った記憶があります。その折り鶴が平和の象徴になったのは広島の原爆が関係しています。原爆に2歳の時に被爆した佐々木禎子さんです。
禎子さんは白血病にかかり、自身の体調が回復することを願って鶴を折り続けました。しかし残念ながら亡くなってしまったが、その後に原爆で亡くなった子供たちの霊をなぐさめる意味を込めて平和記念公園内に多くの折り鶴が寄せられたのだ。
少し雑談にはなるが、私が大好きなプロレスの世界でも折り鶴に関する物語があったな。今は亡き橋本真也が宿敵小川直也に引退をかけて東京ドームで戦ったが負けてしまって引退した後、復帰を願ったとある兄弟が橋本に折り鶴を折ろうという運動を起こした。結局集まった折り鶴は百万羽。橋本は復帰したものの、結局新日本から解雇されZERO-ONEを立ち上げるなどまぁ色々あったカオスな時代だったな。。

話を引揚に戻します。。
引揚の歴史はユネスコの世界記憶遺産に登録されてもいるのです。世界の重要な記憶遺産の保護と新興を目的に1992年に設立されました。この記憶遺産には、手書き原稿、書籍、ポスター、図画、地図、音楽、写真、映画等が対象であり、日本の中では炭坑記録画・記録文書である山本作兵衛コレクション、御堂関白記、慶長遣欧使節関係資料などが他にあります。
ちなみに、最近では世界記憶遺産は「世界の記憶」と名称を変えているようです。

そもそも引揚とは!?

太平洋戦争は1941年12月8日に始まり1945年8月15日に終戦しました。しかし、戦争は終わったものの、ソ連は現地にいる日本人を祖国へ返すことはせず、いい労働力だということで現地で鉄道敷設、森林伐採などの重労働を課していたのです。そのような方々を乗せて祖国へ返すことを引揚というのです。終戦後の1945年9月から1956年までの11年間の間、ここ舞鶴港では引揚者を受け入れ続けたのです。

戦後1945年9月の時点では舞鶴を含めた上の地図の10の港が引揚港として指定され、引揚者を受け入れ続けました。引揚はインドネシアやフィリピンなどの東南アジアの国や、満州やシベリアなどの場所からも行われました。

舞鶴港では全部で約66万人もの方々を引き揚げ、また11年間もの間引揚を行い続けました。舞鶴港は日本海側に面していたこともあり、多くがソ連や中国からの方を引き揚げたのです。

引揚の歴史を語る数々の展示物

招集される兵士には臨時召集令状(通称:赤紙)が役場の兵事係りの職員によって届けられる仕組みになっていた。この召集令状が届くと、戦時中は3日〜1週間以内には指定された場所に集合する必要があった。家族らは招集された我が子の名前を書いた上の写真に写っているような幟(のぼり)を作成し、駅や港へ送っていたという。我が子を戦地に送る家族の気持ちは想像もつかない。。。

これは戦陣訓(せんじんぐん)。当時の首相でもあり、東京裁判で裁かれた東条英機が作ったとも言われているこの内容は、ここの説明にも書かれているように命を捨ててでも戦うことを美徳とする考えですね。今考えると、神風特攻隊のような戦法は本当に悲しいことですし、あれは色々賛否両論はありますが少なくともこのような戦いで命を失った方々にはやはり頭が上がらないかな。。。時代が違いすぎて、本当にこの日本でそんなことが行われたのかと今だに私は想像ができない。

いくつかこのようなメモも展示されています。引揚の方々は当時の生活の様子などをメモとして残していたのである。写真の下に写っているMeMoは、セメントの袋を切って作られたもので、靴の中に忍ばしていて所持品検査をうまくくぐり抜けて没収されずに済んだのである。

こちらも検査を奇跡的にくぐり抜けて世界記憶遺産の資料となった白樺日記という日記。何で白樺なのかというと、文字が書かれているのはいわゆる紙ではなく白樺の木の皮に書かれたものだからなのだ。書かれた文字は煤(すす)を水に溶かしてインクとしていたようだ。家族や故郷への日々の思いを和歌にしたもので、度々訪れた所持品検査をくぐり抜けてきた貴重な物なのである。

シベリア抑留の方の暮らし

シベリア抑留は戦後の復興を行うソ連の労働力として行われました。それは、日本だけではなく同じ敗戦国であったドイツでもでした。上の写真は、実際にシベリア抑留が行われていた時の日本人の生活風景を再現したもの。
生活は、ラーゲリというロシア語で収容所を意味する場所で行われていた。右側に立っているのは日本人を監視するソ連兵。上で横になっているのは体が弱っている方で比較的暖かい場所にということで上にいる。

5人の方たちは残っている貴重な食料である黒パンを均等に配分している様子。配分する際には手作りの秤(はかり)で均等にしているのですが、これは極限状態であるため本当に均等にしないと喧嘩が起こるためなのだという。
抑留中の食事事情はとても悲惨なものでした。十分な食事は与えられず、スプーンなどの食器も自分で作らなくてはいけなかったという。主に黒パンやスープが与えられたようであるが、栄養失調や寒さによって亡くなる方も少なくなかったという。
また赤痢やコレラなどの伝染病にかかった方もいて衛生面もかなり悪かったようだ。しかし、全てがこのような状況ではなかったという。中には重労働ではない環境もあったようで、そのような場所ではソ連国民との交流もあったようだ。

今でも街にはたくさんの雀荘があり、ゲーセンに行けば麻雀格闘倶楽部、ネットでは天鳳など今の人々の娯楽となっている麻雀ですが、シベリア抑留の時にも娯楽となっていたようだ。木材の破片を使い自作したもののようだ。
ここまではシベリア抑留の過酷な状況などを記載していましたが、その中でも心温まる話など引揚に関する物語を3つばかり紹介します!

ナヴォイ・バレエ劇場の建設

シベリア抑留でソ連だけでなくウズベキスタンやウクライナにまで強制連行されていた日本人。しかし、そんな状況であっても我々の先人は凄かったのです。そんなことを思わせてくれるのがナヴォイ劇場の建設。ウズベキスタンには約25,000人もの日本人が連行され、そこで建設工事などに従事していました。その中で、約300人近い方がナヴォイ劇場という劇場の建設を行っていたのです。多くのシベリア抑留の方は森林伐採、道路・鉄道建設に従事していたようで、この劇場建設というのは少し特殊な内容だったのかも。
その後、引揚が終わった後の1966年4月26日にウズベキスタンでタシケント大地震が起こりました。約78,000戸もの家屋が崩壊し、30万人近くの方が家を失ったのです。街がほぼ全壊状態だったにも関わらず、このナヴォイ劇場はビクともしなかったため避難所として機能したのです。その噂は瞬く間に広がり、過酷な労働状態であってもこんだけの立派な建物を立てた日本人に対して尊敬と経緯を持つことに。現在もこの劇場には当時の日本人をたたえたプレートが建つ他、日本人抑留者記念館という記念館も建てられた。我々の先人はそんなところでも勤勉に働いていたのです。

岸壁の母

岸壁の母と言われる方がいました。その方の名前は端野いせ(はしのいせ)。1954年にヒットした歌謡曲のモデルになった方で、戦争が終わっても帰らぬ息子を心配し、ずっと岸壁で息子を待ち続けていたのです。息子が帰ってきても自分の家がわかるように息子の名前(端野新二)が刻まれた表札を玄関前にも置くなど、息子を思う母の姿に少し涙ぐんでしまった。。。
しかし、1956年に端野新二の死亡告知書が東京都から送られてきた。息子は帰ってこなかったのです。いせは1981年に81歳でこの世を去ることになりました。
いせだけでなく、戦地から帰らぬ夫を港の岸壁で待ち続ける妻たちも岸壁の母と言われていました。子供を連れて舞鶴へ訪れる方も少なくなく、帰りを待ち続けるため舞鶴へ移り住む方もいたという。今の時代はSNSで容易に連絡ができる時代になりましたが、安否もわからず何日も待ち続けるのは至極辛かったのではないでしょうか。。

感動のクロ物語

引揚を語る際にはクロ物語も欠かすことはできない。シベリア抑留中、とある日本人が生後間もないメスの子犬を見つけた。そもまま外に放置していると凍え死んでしまうと思い、子犬を宿舎に持ち帰ることに。しかし、子犬を宿舎に持ち帰ることはソ連兵から禁じられていたのだ。
そのため、定期的な検査の際にクロが見つかってしまったりしたのではあるが、拾った場所にクロを置いてきたりしてもクロは5kmも離れた宿舎に自力で帰ってきた。。返すよう命じても何度もクロが宿舎に戻ってくるため、ソ連兵ももう黙認するようになった。彼らはクロをかわいがり、シベリア抑留中の心の支えとなっていたのだ。時には吠えて火事を知らせ、邦人やソ連兵を救ったこともあった。
そして、1956年に日ソ共同宣言によってシベリア抑留されていた邦人が祖国へ帰れることになった。嬉しい話ではあるものの、ソ連側から犬は船に載せられないと断固拒否されてしまい、クロを一緒に日本へ連れて行くことができない状態に。結局引揚船の興安丸船長である玉有勇(たまありいさむ)に頼んでも断られてしまい、クロを置いて船で帰ることに。。。しかし、船が出発するとなんとクロが船を追いかけて走ってきたのである。そして凍え死ぬ事を覚悟で氷海に飛び込んだ!!それを聞いた船長の玉有は、ソ連の許可なく止めてはいけない船を止め、クロを救出したのである。
そして無事に邦人たちと日本にたどり着き、新聞でも取り上げられ、クロの物語は日本中の方に知られることとなった。最終的にはクロは結婚して子供も出産。シベリア抑留という悲しい物語が多い中、とても心温まる感動秘話となったのだ。

引揚記念館がある引揚記念公園

シベリア抑留の方々は、1956年の日ソ共同宣言によってソ連との国交が回復した事から皆が引揚されることとなった。引揚記念館は引揚記念公園という公園の中にあるのですが、少し公園を登ると桜の木が植えてあった。テレビとかでシベリア抑留中に亡くなる方が、祖国である日本を思う時に「桜が見たい・・」と言っていたシーンを何度か見た気がするのですが、それに起因しているんでしょうか??靖国神社にも桜の木が植えてありますよね。

そして、公園の高台からは舞鶴湾を眺められるのです。上の写真の左下に突き出ている桟橋は平引揚桟橋といって、実際に引揚された方々が帰ってきて祖国の第一歩を踏んだ場所なのである。この桟橋で多くの遺族が帰りを待っていたのだ。。当時の光景は想像するしかないわけですが、感慨深いですな。。。

約66万人を引き揚げた平引揚桟橋

記念館を後にして、最後に先ほど記念公園の上から見ていた平引揚桟橋を訪れた。引揚記念館から車でちょっと行けばすぐこれるこの橋。長さ15m、幅4mであるこの橋は1994年に復元されました。
出迎えの家族と引揚された方がここで再開し、肉親のノボリが立ち並び引揚船がやってきて再開した度に悲鳴や喜びの声が鳴り響く光景があったという。

橋のふもとには招霊の碑が置いてありました。この碑は、 シベリア抑留や満州における一般邦人の死没者を鎮魂するため、収容所後、墓地、自決地の付近の小石を集めて碑を建立したそうです。

おわりに

太平洋戦争は1945年に終戦し、当時を知る方は少なくなってきている。まだまだ私も知らない日本の歴史がたくさんあると思うと勉強を続けていかなくてはと思い知らされる。
引揚の歴史はユネスコ文化遺産に認定はされたものの、この事実はどの程度広まっているのだろう。恥ずかしい話、私は学校で習ってはいない(習ったかもしれないがそうなら忘れていた)し、何人かに話すと引揚のことは知らないとも言っていた。
あの太平洋戦争から学ぶことは本当に多い。おそらくまだまだ私が知らない物語はたくさん眠っているんでしょうね。。ということで、まだまだ私の戦争に関する勉強はころからも続くのである。。

参考文献

↓よければクリックをお願いします

詳細・地図

住所 京都府舞鶴市平1584番地
営業時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
入館料/span> 大人300円、学生(小学-大学)150円※ただし、市内在住か在学の学生は無料
定休日 12月29日~1月1日、毎月第3木曜日(8月と祝日を除く)
駐車場 無料
電話番号 0773-68-0836
アクセス 舞鶴若狭自動車道 舞鶴東I.C より約15分
リンク http://m-hikiage-museum.jp/

スポンサーリンク
スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク