日本最大の遊廓街であった「吉原遊廓」の歴史を掘り下げたVol.1~遊廓時代

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日本最大の遊廓街であった吉原遊廓。そして、その場所は今現在も日本最大のソー〇街として現存しています。以前、私は吉原遊廓に関する記事を書き、それ以降しばらく吉原を訪れることはなかったのですが、色々な他の遊廓街を訪れ知識も増えてきたことで、再度吉原に関して堀さがてみようと思い、より吉原に踏み込んで記事を書こうと思いました。
では、いってみましょ~!!

吉原遊廓を簡単に!

まずは、吉原遊廓とは、どんな場所なのか?

日本にはかつて遊郭街と言われていた場所が各都道府県に存在していました。遊女たちがおり、男性たちが売春を行う妓楼(ぎろう)が立ち並ぶ街。そんな中、日本で一番の規模を誇っていたのが、現在の東京都台東区千束4丁目の場所にあった吉原遊廓という街です。今から400年近くも前から続く歴史があり、度重なる火事、関東大震災、売春防止法施行など多くの危機を乗り越えて、今では約140店舗が立ち並ぶソー〇がとなっています。

しかし、現在はその規模は縮小傾向であり、吉原遊廓だった場所にはコインパーキングや住宅が立ち並ぶようになり、街は変わりつつあります。すげー簡単に描くとそんな感じになるのですが、色々と掘り下げていくともうきりがないほど色々な歴史や物語が出てくるのです。そんな街に関してを、ひたすらと紹介していこうというわけなのです(*’▽’)

吉原誕生の背景

吉原遊廓が江戸に誕生したのは今から400年前の1617年のこと。誕生の背景にはどんな物語があるのかというと、どの原点は静岡県にあるのですよ!!徳川家康は、江戸幕府を開いた後に駿府城を築城し、城下町を形成しました。その際に出来た遊廓街が二丁町遊廓で、徳川家康の鷹匠が作ったと言われています。
上の写真は駿府城公園内に今もある、東御門・巽櫓(たつみやぐら)内にあった駿府城の城下町の地図。やはり遊郭というのは街の中心部からは人目を避けるべく離れた場所に作られるというのが定めのようで、駿府城からは少し離れた場所に位置していたようです。
そして家康が駿府から江戸に移り江戸幕府を開くことになり、その際に二丁町遊郭のうちの一部が東京に移り、元吉原と言われる吉原遊廓を開くことになります。

ちなみに、駿府城公園には今現在天守閣はありません。今現在は発掘調査が行われているようで、これから色々な歴史が解き明かされるという形なのでしょう!果たして天守閣が立つのは何年後になるのか?二丁町遊廓に関しては、また別記事でびっちり説明していきたいと思いマッス!

元吉原はどこにあったのか?

吉原遊廓は、初めから今の千束4丁目付近にあったわけではなく、元々は今の人形町2丁目付近にありました。江戸幕府が1600年に開かれるときは今の人形町にありましたが、日本橋周辺が栄えてきたことで、少し人里離れた田んぼが広がる今の千束4丁目に移りました。
先ほどの静岡の二丁町遊廓もそうですが、やっぱり遊廓は街が栄えてくると中心部から追いやられるという定めなのでしょうかね。。

ここで1617年に誕生し、1657年までの40年近くが吉原の遊廓街だったのです。さすがにそんなに昔なので、今ではその痕跡は形としては残っていません。その時に明暦の大火があったことと、場所的に街の中心地にあるということで、今現在の千束4丁目に移りました。現在は、元々ここが吉原遊廓街だったことを示す説明板があるくらい。

そして、現在でも大門通りという名称の通りがあり、おそらくここが元吉原のメイン通りだったのでしょうかね??吉原というと、移転後の方がはるかに歴史が長いため今の場所のことをさしますが、細かく言うと人形町にあった頃の吉原を「元吉原」といい、現在の千束4丁目の方を「新吉原」といいます。

吉原遊廓の歴史を掘り下げる

まずは吉原遊郭の歴史を紹介していきます。吉原は今の東京都台東区千束4丁目付近の場所に位置しています。縁起が悪いと言われていた「北枕」を避けて街の区画を斜め45度傾けて作られたという形をしている約2万坪の土地。GoogleMap上にかつて江戸時代だった頃の吉原を頑張って下手くそな絵ながら再現しました(笑)

吉原唯一の入り口である吉原大門

吉原の入り口は、吉原大門の1箇所のみ!この大門は引刻(24時)に閉じ、明朝(6時)に開いていました。入り口には四郎兵衛(しろべえ)会所という建物があり、ここは脱走遊女の監視を行っていました。ここの監視をしている方々は男装をした遊女(女之介)を見破ることで、捕まった遊女には厳しい罰が待っていたのです。
ちなみに、この吉原大門から先は吉原の遊びに来る格式高い方々しか入ることはできませんでした。が、毎年秋に行われる酉の市の際には、吉原の南側に位置する鷲(おおとり)神社に行くお客さんのために、一般開放されていたようです。

五十間通り

今の吉原大門の交差点から吉原のエリアに入ろうとすると、吉原大門があった場所までには五十間道という道を通ることになります。ここには茶屋が並んでいたわけですが、編笠を扱っていたことから編笠茶屋と呼ばれていました。
編笠は、元吉原時代の時が昼営業だったことと関係しています。元吉原では、新吉原とは違い門限のある武士がお客さんであり、彼らが元吉原に行く際に顔を隠すため編笠をかぶっていたことが起因しています。ただ、新吉原になって夜営業が行われたことから編笠自体は無くなったとか。

吉原の中心である仲の町通り

こちらは夜の吉原。そして、この通りは仲の町通りという吉原の中心をぶった切っている大通り。この通りには、先ほどの図のように、引手茶屋(ひきてぢゃや)というお茶屋さんが並んでいました。吉原で有名な花魁道中はこの仲の町通りで行われており、大見世にいる遊女は乗客を引手茶屋で迎えるために花魁道中をしていました。
高級な妓楼である大見世へはここ引手茶屋を通す必要があり、お客は引手茶屋で予算などに応じて大見世を紹介してもらう必要があります。いわゆる仲介役ですね。
現在の仲の町通りは、吉原大門の方(北側)にはソー〇店や無料案内所が並んでおり、吉原神社側(南側)にはコインパーキングやマンションが建っている感じです。あとは真ん中くらいの場所にサンクスがありますわ!

お歯黒溝にかかる跳ね橋

吉原へ遊びに行く際の入り口は吉原大門ただ一つでした。ただし、入口自体はそのほかにも幾つか存在していました。それがお歯黒溝(おはぐろどぶ)にかかっていた跳ね橋という橋です。これは、吉原の遊郭へ色々な生活用品などを卸す問屋などが吉原のエリアに入る際に利用していました。

その跳ね橋はこんな感じだったようです。こちらは、吉原の近くにある樋口一葉記念館に展示してあったものです。渡った後は、橋をあげて遊女たちが脱走しないようにしていました。そこまで遊女の脱走には気を使っていたのですね。
遊廓の中には、多くの商人や職人が出入りしていました。小間物売りという化粧品、洒落た小物を売る方、易者という手相や人相などで占いをする方、貸本屋、玉子売りなどがいたようです。

吉原名物である花魁道中

吉原と言うと花魁道中(おいらんどうちゅう)を思い浮かべる方が多いと思います。この花魁道中とはどのようなものなのか?
先ほどの紹介しましたが、吉原遊廓には仲の町通りを中心に、6つの通りがあります。一番大門に近い通りが「江戸町一丁目通り」「江戸町二丁目通り」となっており、一番奥にあるのが「京町一丁目通り」「京町二丁目通り」となっています。花魁道中とは、基本的には京町通りから、江戸町通りの引手茶屋にいるお客さんを迎えに行くこと。
つまり、京の町から江戸の町へと迎えに行くという意味が込められているのです。また、そんな花魁道中で迎えに来てくれる客は上客のみ。その人の身分が低かったりすると花魁に迎えに来てはくれないのです。

度重なる火災に見舞われた吉原

「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたくらい火事が多かったのです。吉原遊廓も火事には何度も苦しめられ、元吉原時代から数えると40回近くもあったそうです。ちょっと多すぎない・・??

こちらは、浅草の方にあったもの。火の用心と書かれていますが、これは仲の町通りなどに一定間隔で置かれていた用水桶なのです。ここには置いてありませんが、火の用心と書かれた所の上に、手桶が積まれていました。この用水桶の覆い板(三角形のやつ)には妓楼の名前が書かれ、妓楼は常に用水桶に水を満たしておく必要がありました。
これは吉原だけではなく、江戸の町全体にあったようなのですが、吉原はそれでも過去に40回近くもの火災が発生していました。。

そんな江戸時代は、火事の火を消す今の消防士的な方たちは、水をかけて火を消すのではなく周囲の建物をぶっ壊して火が燃え広がらないようにしていました。これは「破壊消火」と言われています。そして、火が燃え広がらないようにする工夫として、所々に「広小路(ひろこうじ)」という広い道路を作ったりもしていました。

遊女たちはどんな暮らしをしていたのか?

吉原遊廓という閉鎖された空間で暮らしていた遊女たち。はたして、彼女たちはここでどんな暮らしをしていたのでしょうか??
今現在のソー〇嬢は、学生の方や社会人の副業の方まで本当に様々な方が多く、彼女たちはお店とは直接的な関わりはない個人事業主として関わっているという感じ。タクシーでお店まで移動する方もいれば、自転車で来る人もいれば、最近では震災の影響によって福島から新幹線で通う方もいたという。
昔は、タクシーで通う嬢が多かったようですが、最近では地下鉄で三ノ輪橋まで来てから歩いてくる嬢が増えているという。
また、遊郭で働く遊女たちは高い教養を受ける必要もありました。というのも、江戸時代は吉原で遊ぶのはめちゃくちゃお金がかかるのです。そのため、ここに遊びに来るのはお金持ちの方が多いためそれだけの身分の高い方達と対等に話せるようにするためには、高い教養を備える必要があるわけです。

現在は浅草にある浅草神社の境内には、松葉屋の遊女である粧(よそおい)が筆をとった歌碑が残されています。彼女らは読み書き以外にも、茶道・和歌・俳句など多くのことを学んでいたようです。
あと有名な事としては、ありんす言葉ですかね。吉原には多くの地方からの女性が集まってきたため、女性によって方言もあり使う言葉が様々。そんなことで、遊郭での共通言語としてのありんす言葉という言葉が用いられていました。「~~でありんす!」みたいなやつです!!

おわりに

この記事では、遊郭時代の吉原に関してを紹介しました。といっても350年近い遊郭時代の歴史があるため、今回紹介した内容はもう全体の0.0001%くらいしかないと思います(笑)
今の吉原を歩くだけでは知り得ない本当に多くのもの物語が眠る街である吉原。次章では遊郭時代からソー〇街になった経緯を簡単に紹介したいと思います!

参考文献

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詳細・地図

住所 東京都台東区千束4丁目
アクセス 入谷駅、三ノ輪駅から徒歩10分、浅草駅から徒歩25分
リンク https://ja.wikipedia.org/wiki/吉原遊廓
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