遊廓、RAA、小鳥の街で賑わった藤沢新地の栄枯盛衰!

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藤沢にあったト○コ風呂

藤沢市明細地図南部版(昭和50年)

そんな藤沢新地には風俗店も存在していました。東京の吉原とか川崎の堀之内のように、昔の遊廓・赤線跡には風俗店が営業を続けている場所が多いですが、藤沢もかつてはト○コ風呂(今のソー〇ランド)があったようです。

上の地図は1975年の藤沢新地の明細地図ですが、ブロックの角に二店舗トルコ風呂のお店が載ってますよね。

「トルコ 都」と「トルコ ふじさわ」。

角っこにあった「トルコ 都」という店は、地元の古老に聞いたところ火事で焼失して無くなり、その後、経営者は神戸の方に移って再びトルコの営業を始めたそうです。神戸っていうことは福原かな??

湯房 ふじさわ

一方、もう一店舗の「トルコ ふじさわ」はトルコ人留学生の訴えでトルコ風呂という名称が全国的に使用できなくなったため、その後に「湯房 ふじさわ」と名称を変えたようですが。。

しかし、店名そのまま過ぎない??

もうちょっとインパクトある名前つけようよ(笑)

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ファッションへ○スもあった

この「姫ごと」というファッションヘ〇スは、閉店したのは2016年とかその辺らしく、経営者が亡くなって店を閉じることになったそうです。店舗型の性風俗店は条例で神奈川県全域における新規開業は出来なく、経営の譲渡もこの店はできなかったってことなんかな??

ト〇コ風呂があった一画

ちなみに、「湯房 ふじさわ」も「姫ごと」も店は消え失せてマンションに変わっております。

そう、もう藤沢新地と言われたエリアはマンションだらけになってるんですよ。。

とはいうものの、色街の名残はまだこのエリアには残されており、2020年3月時点では藤沢新地のエリアに二店舗ほどピンク〇ロンが営業を続けています。

しかし藤沢にト〇コ風呂があったとはな〜。2020年現在では神奈川県にソープランドがあるのは川崎(堀之内、南町)、横浜(曙町、福富町、野毛)、鶴見くらいなんですよね。それほど、ここが賑やかだったってことなんですかね。

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崩壊寸前の飲み屋街・・

ここは小鳥の街ではない

そして最後はこの一画。

ここは結構写真に映えることもあってか、ネットで検索すると写真はたくさん出てくる場所。藤沢新地は「小鳥の街」という名前が有名ということもあり、ここが小鳥の街と思っている方もいるようですが、上で説明した通りここではないんですね!

とはいえ、ここの一画に関してはあんまり詳しいことはわかっていないんです。。

藤沢市明細地図(昭和37年)

私が持っている一番古い住宅地図である1962(昭和37)年の藤沢市明細地図には既にこの一画は出来上がっているようでした。

上の地図で赤く塗ったエリアなんですが、「ひとみ」「ともえ」「ちぐさ」「やなぎ」って屋号があるのが分かりますね。

この時点で存在しているということはわかりましたが、果たしていつからここは存在していたのか、、戦後からあったのか、赤線廃止以後に誕生したのか。。

二階も丸見え状態

今ではどの店舗も営業していないどころか、建物はボッロボロ(笑)

一階も二階も窓はなくなって中が丸見え状態。ここは一階が飲み屋で二階が飲み屋のママの住まいだったそうですが、一階で飲んだ後に二階に上がってことを済ましていた場所だったそうです。

とはいえ、それはここに限らず、昔は飲み屋だけでなくうどん屋や蕎麦屋などのお店に二階があればそういった色事の空間に使われていたことが多く、中にはランクの低い芸者であれば料亭ではなくうどん屋の二階にすら呼ぶことが出来た過去もあったそうですからね。

イスはそのまま・・

しかし凄い状態だ。。一階なんてこんな感じです。ほこりをかぶって入るものの、椅子が綺麗に並べられたままというのが何だかリアル。賑やかだった当時のまま時間だけが過ぎていったような感じです。

廃墟の美学ってやつでしょうか。。

火事にならなければいいが・・

こういった看板も味がありますね。

一体ここはいつまで残り続けるのやら。。ここは土地の持ち主から取り壊しの許可がとれないのか、そもそも誰が持ち主なのかわからないのか、持ち主がどこに行ったのかわからないのか。。

いかんせん、最終的には強制的に壊す感じになりそうな気がしますね。。

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駐車場の隅に鎮座する祠

駐車場の隅にある祠

遊廓の頃の名残はほぼ皆無な藤沢新地ですが、当時からあったと思われる祠(ほこら)が今でも駐車場の隅っこに鎮座しておりましてですね、

この祠、写真を撮っていたらこの駐車場を利用している方に一瞬話しかけられて「これね、ここの持ち主の方も何だか分かんなんだって」って言ってました。

祠があった場所

昔からある居酒屋「大門屋」の御主人に聞くと、この祠は丸屋の裏側、地図で示すと上の赤矢印の辺りにあったとのこと。

この辺りには遊廓の検番があり、土手川には矢場があって貸座敷の主人やその他同好者の弓の稽古に使われていたそうです。その他には御酉様の仮小屋や貸座敷組合の記念碑なんかもあったそうです。

誰かが花を添えているようだ

この祠、ここが遊郭だった時代には女郎さんが手を合わせたと言われているそうです。何でここにこうして残っているか。。

私が訪問した時には綺麗な花も添えてあり、近所のどなたかが今でも気にかけているそうですね。今でもこうして気にかけている方がいるというのは。何だかほっこりした気分になりますな。

現在は閑静な住宅街に・・

以上のように、赤線廃止後は小鳥の街などの飲み屋が連なり、旅館も数軒営業を続けていて風俗店もあった歓楽街は、宅地造成によってマンションが建ち並ぶ閑静な住宅街へと変貌しました。

昔の賑わいが本当に嘘のように閑静な街になった藤沢新地。

この場所は駅の北側ですが、今は南口に居酒屋のチェーン店やキャバクラなどが建ち並びその役目は南側へと移動しているようです。

昔を感じさせる飲み屋の建物

とはいうものの、かつて賑やかだった藤沢新地には今でもむか~しながらの古いスナックは数軒程度生き残っており、かつてここが賑やかだった名残は多少なりとも感じられるような気がします。

今ここに住んでる方はよそからの方が多く、このエリアが昔は遊廓街でありとても賑やかな一画だったことを御存じの方はどのくらいいるんですかね~?

今ある飲み屋も時間の問題だとは思いますが、忘れられることなく後世にもかつての街の歴史を伝えていきたいものです。。

おわりに

昔の地図を懐かしむご主人

という感じで、今回の記事では藤沢新地に関して再調査した内容のうち、昔の写真や資料を用いて色々説明をいたしました!

ただし、藤沢新地はたびたび訪問していてですね、この辺の昔のことを知る飲み屋の御主人や風俗店の店員さんなどいろんな方にも聞き込みしているので、次回は続編として、さらに深い藤沢新地に関する取材内容を放出したいと思います。

今の生き字引の方の声なので、時代的には1960年代以降のこの街の様子についてですかね!

ぜひぜひ、次の記事もご覧になってみてください!

↓↓こちらが、続編になりますm(__)m

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県藤沢市藤沢545−60付近
アクセス JR藤沢駅から徒歩5分ほど

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コメント

  1. 寺川 より:

    知の冒険
    大好きです。
    毎日忙しく過ごす中
    唯一自分の時間ができると
    覗いては
    ストレス発散
    といいますか
    自分の研究?笑
    に没頭する事ができる場所です。
    これからも
    頑張って下さい!

  2. 土鍋めし より:

    1970年代の少年時代近所に住んでいました。今もある、わかふじ幼稚園でした。子供だったため昼間しかしりませんが、昼間は静かな感じでしたね。ただ銀座通りから見えるくらいまでの歯医者さんや独楽の職人さんの家(湘南喧嘩独楽の職人さんが当時いた)くらいしか記憶にはありません。あまり奥には行かないように言われていたような気がします。

     初訪問で、藤沢の記事だけ抜粋して楽しく拝見致しました。高校生(今はない大清水高校)までいたんですが古すぎて記憶が曖昧です。

  3. 藤ヶ谷育ち より:

    懐かしい記事を読ませて頂きました。
    立花楼は昭和40年頃は建物そのままで貸し部屋になってましたよね。叔父が住んでいて子供の頃遊びに行きました。入って正面に階段落ちやるようなでっかい階段があって2階の回廊の脇に部屋がある遊郭そのものの作りでした。
    その向かいの森乃家も叔母の家で、地図に書いてる下の4件は一階の店子でした。
    夕方、忙しくなる前、アッパッパーを着たトルコのお姉さんに良く遊んでもらってましたよ。

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