遊廓、RAA、小鳥の街で賑わった藤沢新地の栄枯盛衰!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

こんにちわ!

今回は、神奈川県藤沢市にあった遊廓後「藤沢新地」に関する記事になります。

今まで、知の冒険では藤沢新地(藤沢遊廓跡)については二つ記事を書いてきましたが、今回はまた続編というか調べてたらネタができたので記事にしたって感じです。

多分もうこれ以上は出てこないと思うので、藤沢新地に関しては今回の記事がラストですかね!

本記事のポイント

・赤線後は旅館や飲み屋が建ち並ぶ歓楽街となった
・かつてはト〇コ風呂が二軒あったが、今はその名残りはない
・小鳥の街という飲み屋の一画があったが、現在はマンションに!

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遊廓があった藤沢新地

藤沢遊郭に関しては以前に二記事書いてはいるものの、改めてですが藤沢に遊郭が誕生した背景をざっとおさらいしてみましょう!

※「今昔マップ on the web」を元に作成

藤沢は、東海道沿いにあった藤沢宿。そこには、他の宿場町と同様に遊廓もありました。もともとは宿場に点々とあった旅籠屋、宿場女郎屋が明治13年に発生した藤沢の大火(大川屋火事)によって、一画に集められたのが藤沢遊郭の始まり。

江戸時代中期頃から江島詣に出かける方々にも、通過点として楽しまれた場所でした。

藤沢宿の中心部から、十二支でいう”辰”と”巳”の方角にあることなどから後に辰巳町と付けられた一画は、松と土手に囲まれ、所々には桜の木も植えられていたようです。

↓もうちょっと詳しくは以下の二記事をご確認いただければと思いますm(_ _)m

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戦後は占領軍相手のRAAに

遊廓時代のことは上記の過去記事に書いたので、時代を一気にすっ飛ばして戦後に関しての話へと移ります。

太平洋戦争が終戦を迎えた後、神奈川県には早急に米軍ための慰安施設をつくるため、横浜(山下町の互楽荘など)や横須賀(安浦ハウスなど)などにRAAが置かれましたが、それは藤沢新地にも置かれることになります。

第11空挺師団配下の各部隊の管轄範囲

終戦後、1945(昭和20)年8月28日以後に続々と厚木に降り立ったアメリカ第11空挺師団の第188連隊は、30日の14:00にマッカーサーの到着後、その護衛隊の任をもって日本側からの軍用トラック数十台を連ねて横浜に入ることに。

その後、9月2日に横浜港に上陸した二万人の第八軍と交代する形で、第188連隊は藤沢に進駐することになるのです。

辻堂海岸での米軍演習風景
(1951年6月、米国国立公文書館蔵)

ところが、藤沢と関わりをもった占領軍(アメリカ軍)部隊は進駐部隊だけではありませんでした。戦前日本海軍は藤沢、茅ケ崎にまたがる海岸地帯に辻堂演習場という演習場がありましたが、戦後まもなくアメリカ軍はここを接収して、極東有数の上陸演習場として使用したのです。

そのため、藤沢には多くのアメリカ軍将兵が訪れることになるんですね。

戦後は赤線となり、遊廓の建物をRAA(特殊慰安施設協会)に指定した藤沢新地。遊廓だった建物のうち、三浦屋や大和屋などいくつかは戦前に廃業しており、RAAだったのは戦時中も営業を続けていた立花楼や丸屋などだったと思われます。

ここには東京の某私娼系統の業者が焼け出されたことで、場所にも不自由し、藤沢新地に相互協力という形でこの緊急事態の打開を図ることで、商売を始めることになります。

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ここにはかつて大門があった

藤沢新地には遊廓時代に大門があり、関東大震災で倒壊するもここに再び門が作られ、MPの詰所もできました。当時のRAAの料金は遊びは百円で泊まりが三百円。

10:00の開門前には黒山の米兵で開門されると、各楼に殺到して長蛇の列をなしての順番待ちでした。

しかし、その後RAAでは恐ろしい勢いで性病が蔓延し、1946(昭和21)年3月には新地のど真ん中の電柱に英文で「立ち入り禁止」の札が貼られることになります。

戦後は大変賑やかだったそうだ

ところが、その後も藤沢新地は賑わいを見せ、占領軍兵士相手の特飲店、街娼の存在は社会風紀上、環境・衛生上、さらには教育上大きな問題となりました。深夜には酔っ払いの喚き声などがあちこちで聞こえ、蓄音機が爆音で鳴り響き、近所に暮らす方は静寂の時を持つことができませんでした。

それはよほどだったそうで、「新地で暮らしている方の中には睡眠不足によって神経症にまでなった」という記載も、私が持っている郷土資料に見られました。

湘南新聞(昭和33年2月15日)

そんな藤沢新地にも売春防止法によって売春街の歴史に終止符が打たれることになります。

上の湘南新聞の記事によると、藤沢新地にあった特殊飲食店は1958(昭和33)年2月28日に廃業したようで、中には旅館や割烹料理屋に転業した店もあったようです。

藤沢市明細地図 南部版(昭和50年)

赤線廃止後は、飲み屋や旅館が建ち並ぶ歓楽街となった藤沢新地。旅館に焦点を当ててみると、1975(昭和50)年のころには七軒の旅館があったようです。

これをちょっと妓楼の位置と照らし合わせてみると、、、

藤沢市明細地図 南部版(昭和50年)

こんな感じですかね!

戦後は昔の女郎屋がその家業を辞めたり、他人に貸すなどして新地の中もだいぶ変わっていったそうです。藤沢には11軒の妓楼があったようですが、上の地図の1975年までには各々がどんな経緯をたどったのか。

超簡単にではありますが、以下にまとめました。

藤沢遊廓のその後(1975年まで)
・松坂楼
戦後に住居となった後、跡地にはトルコ風呂が建ち並んだ。また、一部は「第二ゆたかセンター」というスナックが建ち並ぶ一角になった。
・三浦屋
戦前に商売を辞めて、百万佛センター(これが何かは不明・・)となった。
・大和屋
こちらも戦前に商売を辞めていて、小鳥の街という飲み屋が連なる長屋に変貌。
・月見楼
跡地には松竹旅館、仙成旅館、つむぎ荘旅館、ひばりビリヤードとなった。
・丸屋
富久さんが購入し、富士荘アパート、富士旅館、さらには一番街飲み屋街になった。
・中徳
妓楼は戦前に壊して、あけぼの旅館、さらには住宅になった。
・立花楼
かつては「日野清」という屋号。戦時中まで山下さんが住んで、土木請負と女郎屋を経営していたが、その後は高塚さんが買い取り、屋号は立花のまま営業が続いた。その後は駐車場と空き地に。
・蔦屋
赤線廃止後に木村小児科医院が開業(遊廓だっ建物を病院として開業したかもしれない・・)し、その後は津の国屋アパートに。
・辰巳屋
跡地に第一ゆたかセンターという飲み屋が連なる長屋に。
・岩月楼
人に貸して、駐車場に。

という感じで変貌していったわけですが、これらの跡地は今現在はほとんどがマンションになったり駐車場になったりという感じです。。

そんで、月見楼の跡地に建てられた松竹旅館、仙成旅館に関しては写真が残っておりましてですね。。

戦後に建てられた「旅館 松竹」

こちらは松竹旅館ですね。

ちなみに、この写真は私が撮影したものではなく、Twitterのフォロワーさんの写真で掲載許可をいただいたものを載せていますよん。 ただ、その方のアカウントがもう無くなってしまったようで、クレジットが付けられないというね。。

松竹の入り口はこんな感じだったわけですが、こりゃ~生唾ものですね。扉の両側にある円柱のタイル、そして入り口扉の取っ手が斜めになっているのもたまんないっすね。

この扉の中にはどんな光景が広がっていたんでしょうか。。

これら松竹旅館や仙成旅館は連れ込み旅館だったr、土方など工事関係者が宿泊する安宿だったと大門屋の御主人は話してくれました。まだ営業が続いていたら喜んで泊まりに行ったんですけどね、、

今では松竹も仙成も綺麗さっぱりなくなってマンションに変わっていますよん。

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近くには藤沢花柳界も!

藤沢市明細地図(昭和37年)

そんな遊郭があった藤沢には、実は花柳界も健在でした。

財閥や町村長と有志者の豪遊や商人が取引の際に料亭を利用したこと、東海道線の開通に伴う江ノ島見物の人々が激増したことで花柳界も賑わったようです。

稲毛屋と角若松という二大殿堂と言われた割烹旅館があり、藤沢駅北口の場所は多くの料亭や置屋、さらには見番もあって賑わったそうです。昭和37年の地図にも見番や割烹旅館が点在はしていたものの、芸者遊びの衰退や駅前開発によって徐々に姿を消していったと思われます。

引用元:『郷土の民謡小唄集』

藤沢の花柳界には『藤澤音頭』も作られ、芸者さんはこの曲を歌ったり踊ったりしたんですかね。。この曲の作曲は『カチューシャの唄』を作曲したことでも知られる中山晋平なんですね。

今回の記事は藤沢新地に焦点を当てているため花街に関してはさらっと紹介する程度にしますが、この藤沢花柳界に関しては多少なりとも資料があるので、今後に別記事として詳細をまとめようかと思います!

「小鳥の街」と言われた一画

入り口に掲げられていたネオン

藤沢新地には今でもその名が言い伝えられる戦後に誕生した飲み屋の一帯がありました。お店の店名に鳥の名が付けられ「小鳥の街」と言われていた一帯なんですね!

入り口にはこんな時代を感じるネオンがお出迎えしていたようですよ(*’▽’)

赤線の時代にまだ誕生していなかったようで、住宅地図を年代別に見てみると1970年代頃に誕生したと思われるんですね。地図に載っている店名を見てみると、、

藤沢市明細地図 南部版(昭和50年)

どうです??多くの店舗が鳥の名前でしょ!!

小鳥、しらさぎ、スワン、コンドル、隼(はやぶさ)などなど。二棟の長屋にスナックが軒を連ねており、その数は24軒ほど。地図を見ると、藤沢新地のエリアには小鳥の街以外にも多くの飲み屋が軒を連ねていることがわかりますよね。

昭和のこの頃は経済成長していた時代ですし、それはそれは賑やかだったんだろうな~。

小鳥の街があった一画

その小鳥の街があった一画は、今となってはだいぶご立派なマンションが建っていてその面影は全く残っていませんけどね。。

でも、今から20年ほど前でしょうかね、その時には、、、

こ~んな長屋があって、スナックが軒を連ねていたんですね。

かつての小鳥の街

ちなみに、小鳥の街にあったお店のうち、「せきれい」と「ひよ子」は移転して今でも営業を続けています。

子の写真では二棟のうち一棟はぶっ壊されて更地になっていますが、、

縦写真にはなりますが、二棟あった頃はこんな感じだったようです。こんな細い通りの両側に24軒ほどのスナックが連なっていたんですな~。

いや~この写真も先ほどの旅館松竹とどうようにフォロワーさんから頂いたものなので私は自分の目で見てないんですよね。。ちなみに、藤沢新地は私の実家から一番近い遊郭跡。小学生くらいから遊郭に関心を持っていたらこの光景も目に焼き付けたことが出来たでしょうが、まっ、それはしょうがないっすわな。。

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コメント

  1. 寺川 より:

    知の冒険
    大好きです。
    毎日忙しく過ごす中
    唯一自分の時間ができると
    覗いては
    ストレス発散
    といいますか
    自分の研究?笑
    に没頭する事ができる場所です。
    これからも
    頑張って下さい!

  2. 土鍋めし より:

    1970年代の少年時代近所に住んでいました。今もある、わかふじ幼稚園でした。子供だったため昼間しかしりませんが、昼間は静かな感じでしたね。ただ銀座通りから見えるくらいまでの歯医者さんや独楽の職人さんの家(湘南喧嘩独楽の職人さんが当時いた)くらいしか記憶にはありません。あまり奥には行かないように言われていたような気がします。

     初訪問で、藤沢の記事だけ抜粋して楽しく拝見致しました。高校生(今はない大清水高校)までいたんですが古すぎて記憶が曖昧です。

  3. 藤ヶ谷育ち より:

    懐かしい記事を読ませて頂きました。
    立花楼は昭和40年頃は建物そのままで貸し部屋になってましたよね。叔父が住んでいて子供の頃遊びに行きました。入って正面に階段落ちやるようなでっかい階段があって2階の回廊の脇に部屋がある遊郭そのものの作りでした。
    その向かいの森乃家も叔母の家で、地図に書いてる下の4件は一階の店子でした。
    夕方、忙しくなる前、アッパッパーを着たトルコのお姉さんに良く遊んでもらってましたよ。

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