井土ヶ谷花街の歴史を周辺住民と共に紐解いた!

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屠殺場が多かった井土ヶ谷の歴史

ページが変わったところで、まだまだ現場取材は続きますがここで一旦井土ヶ谷の街の歴史を掘り返してみることにしましょう。

明治時代の井土ヶ谷周辺

明治時代にまでさかのぼると、井土ヶ谷というのはタイトルの通り屠殺場(とさつば)が多かったそうです。おそらく、豚や牛などを捌いてそれが近くにある関内とか横浜の中心部に卸されていたんじゃないですかね。

長崎敏夫さんという方が描かれた記憶を基にした地図で、住吉神社が発端となって昭和50年代に作成されて色々な人に配られた地図なんだそうです。ここにも屠殺場が書かれていますね。そんなわけで、昔は井土ヶ谷というといいイメージの場所ではなかったという。

関東大震災によって崩壊した街

そんな井土ヶ谷の街が今のように発展するきっかけになったのは、1923年に発生した関東大震災でした。この大地震で横浜の中心部は火災などにより大きな被害を出しましたが、井土ヶ谷周辺では被害が家屋の倒壊にとどまったため、市内中心部からたくさんの人々が移住してきたのです。

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※「今昔マップ on the web」を元に作成

関東大震災後の1924(大正13)年、震災で家を失った人々のために、現在の商店街と京浜急行との間の田畑が埋め立てられ、約450世帯の住宅が建築されました。

上の地図には井土ヶ谷駅の近くに同潤會住宅と書かれていますが、この同潤会住宅は関東大震災以降に財団法人同潤会が東京や横浜各地に建設した鉄筋コンクリート造りの集合住宅。こうやって井土ヶ谷に人が集まってきたわけです。

その後の1930(昭和5)年に現在の京浜急行の前身である湘南電気鉄道の浦賀~黄金町間が開通し、さらに1933(昭和8)年には品川まで直通したため、東京方面への交通が便利になり市街化が進んでいったのです。

この鉄道の発達で、井土ヶ谷だけでなく、近くの弘明寺や上大岡の街に多くの人が流れてくるようになったそうです。

井土ヶ谷花街は、厳密には不明ですが大正の終わりか昭和の始めに誕生し、戦後の1960年頃には寂れてしまったようです。関東大震災後に人が増え、さらに鉄道も敷かれたことが花街誕生の要因だったんですかね~~?

井土ヶ谷の歴史を簡単に振り返るとこんな感じですかね?

ではでは、再び現地取材の報告といきましょう!

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貸席があった銭湯「草津湯」

続いて訪問したのは、草津湯という銭湯屋さん。ここも結構昔から続いていて、歴史があるようなのですが、1960年頃の住宅地図を見るとこの銭湯の二階が貸席になっているんですね。

1971年の地図に載っている草津湯

地図を見るとこんな感じ。「二階 貸席」と書かれていますね!

ということで、もしかしたらここの先代の方がご存命だったら何か聞けるのではないかとお風呂に入るわけでもなく特攻したわけです!

せっかくだから銭湯入ればよかった・・

早速受付で背景を伝えたものの、受付のお姉さんたちはさすがにわからないとのこと。。だが、わざわざ社長さんを呼んでいただき話を聞くことができました。

が、社長さんも花街に関しての詳しい話はわからないとのこと。でも、ここの二階の貸席というのは、お風呂上がりのお客さんにゆったりしていただけるための開放スペースだったり、芸者さんが踊りの稽古をするような用途で使っていたとのこと。

そのため、ここで芸者さんがお客さんにお酌をしたりだとかそういうことはなかったそうです。社長さんには、「あの人だったらもっと詳しく知っているかもしれないよ!」と、別の地元の古老を紹介していただき、草津湯の訪問は終了。

古老たちの声を聞きまくった!

野間さんが所有しているビル

続いては、元商店会長だったという野間さんのお宅へ。野間さんは上の写真のビルを持っている地主さんでもあるので、結構詳しく知っているのではとちょっと期待。

だが、取材は出来たものの昔のこと過ぎて花街だったころの記憶はないとのこと。。で、その野間さんから別の古老を紹介してもらうも同じくわからないとのこと。。そんな感じで芋づる式に色々な方を訪ねるがやっぱり時代が古すぎて当事者の方はもうここには住んでいないんじゃないかとちょっとあきらめムードに。。

しかし、わずかな希望をもって次の古老宅へと向かう。。

元商店会の会長さん宅にも突撃

続いては、元商店会の会長さん宅に突撃。もう証言となると90歳近い方でないと難しいと思ったので、商店会の会長をしていたのであれば何か資料や写真でも持っているのではないかという期待を込めての訪問!

が、お父さんはとうに資料を持っていないとのこと。昔撮った写真はいくらか箱にブチ込んではあるそうですが、「ん~昔の写真はあるっちゃあるけどね、料亭とかあの辺の写真は当時は撮ろうとも思わなかったからね~」とのこと。

まっ、そりゃそうだわな。最後に一応私の電話番号を教えて何か面白いものが出てきたら連絡していただけることになりました。で、帰ろうとしたら「そういえば、××さんの所行きました?あの方だったらこの辺長いから何か知ってるかもしれないよ!」とのこと!!

よっしゃ、もうこうなったら聞けるだけ聞きまくってやるぜ、ということで教えてもらった方の家へと突撃することに!

元料亭「登り芳」の塀

で、商店会長さんから教えていただいたお宅に到着。

「ん?なんだか怪しいなこの外観。もしやここ料亭だった建物じゃ?」と思ってピンポンを鳴らしたら、ここに住んでいたお母さんが出てきて色々と教えてくれました。

で、やっぱりここは料亭「登り芳(とりよし)」というお店だったようです。さらにこの塀は、関東大震災以降に造られたもの。登り芳は営業自体は戦前までであり、現在の邸宅は二度ほど立て直して入はいるものの、塀は昔からそのままなんですって!

もう100年近くそのままということで、横浜市内ではこれほど古い遺構はほぼ残ってないんじゃないですかね。

昔から井土ヶ谷で暮らすお母さん

で、お母さんは近くに親戚が住んでいるからその方だったらもっと知っているかもということで案内してくれることに。今日だけで何人取材したのか、もうわからなくなってきた( ;∀;)

親戚のお父さんから話を聞く

お母さんが電話をしてくれて親戚の方が話をしてくれることになりました。図書館でコピーしてきた資料を基に、お父さんから話を聞いたものの、やはり花街だった記憶はほとんどないとのこと。

しかし、お父さんが住んでいた場所は元芸者さんが待機していた置屋があり、「はるよし」という芸者さんがここを拠点としていたとか。

置屋が立ち並んでいたらしい

そこだけではなく、お父さんが暮らしている通りの道には他にもポツポツと置屋さんがあったそうですよ!

ということで、花街跡周辺を取材しまくりましたがこんなところですかね。できれば当時の記憶がある方からのリアルな話を聞きたかったですが、ちょっと時代が経ち過ぎましたかね。。

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なぜ、井土ヶ谷に花街があったのか?

現地取材を終えたところでこのテーマを扱ってみましょう。そう、なんで井土ヶ谷というそこまで栄えているとは言えない微妙な場所に花街があったのか?

現地では知ってる人に出会えませんでしたが、その詳細は『昭和むかし話 横濱南区』という文献に記載されていました。

※「今昔マップ on the web」を元に作成

その文献によると、お客さんとしては井土ヶ谷は横浜の町場(市街地)と戸塚や相模方面の農村を結ぶ接点に位置し、農村地帯に隣接していたことから、戦前は地主たちが、また戦後は、農家の人たちが宅地開発などで土地を売った収入で遊びに来ることも少なくなかったようです。

あとは、鉄道の影響も強いのではと。井土ヶ谷駅が誕生したのは1930(昭和5)年。先ほども書いたように、京浜急行の前身である湘南電気鉄道が開通したことで横浜の中心部から井土ヶ谷へのアクセスが容易になったことも一つの要因な気がします。

弘明寺花柳界の芸者さん

で、これはおそらく弘明寺花柳界や、上大岡にあった大久保花街にも共通する話なのではと思っています。上大岡にあった大久保花街が誕生したのは大正後期から昭和の始めにかけてだったそうですし、弘明寺花柳界も湘南電気鉄道が開通して賑わいをみせていたようです。

あと、実は横浜にあった遊郭である真金町郭(永真遊郭)の移転の話もあったんですね。真金町の遊郭は、横浜の中心部にあるということで、弘明寺や上大岡に移転する話が大正末期頃に浮上していたそうです。

これは完全に推測ですが、井土ヶ谷もその候補に上がっていたかもしれません。。でも結局誘致することができず、花街を作ることになったのだろうか。。

花柳界は音頭を作るのが主流?

最後に、後日に横浜市史資料室を訪れたときのこと。たまたま、ここにいた方が花柳界のことに関して少し詳しく、『郷土の民謡小唄集』という資料に花柳界が作った地元の歌がたくさん載っているということを教えていただいたんですね!

で、早速その資料を漁ってみるとビンゴ!!

鶴見の花柳界が作った『鶴見音頭』、磯子の花柳界が作った『磯子小唄』などがあるなか、なんと井土ヶ谷にも『井土ヶ谷音頭』があるではないか!

下の広告には、井土ヶ谷花柳界の広告が貼ってありますね。そこで気になったのが、右側に書かれている「箱根気分の・・濱の井土ヶ谷花街」という文字。というのも、上大岡にあった大久保花街も『浜の箱根』として売り出していた街でしてね・・。

『浜の箱根』といわれた大久保花街

上大岡にあった大久保花街は、誕生した当時から「浜の箱根」をキャッチフレーズにしてお客を呼んでいた背景があるわけです。上大岡駅から大久保花街の間には「箱根通り」という名前まで付いていたそうで。。

なので、井土ヶ谷花街はこの大久保花街のキャッチフレーズをパクって「箱根気分の・・」と書いたか、または実は井土ヶ谷の方が先に考えていて大久保花街がそれをパクったか、まっその辺の背景は当事者はもう生きてないと思うのでわかりませんが、そんな背景があって「箱根気分の・・」と書かれたんだと思いますよ!

今でも歌い継がれる『田名音頭』

井土ヶ谷音頭以外にも、弘明寺音頭、鶴見音頭などなど、花柳界が率先して音頭を作っていたそうです。場合によっては有名な作詞家に頼んだりしてレコード化した音頭もあるほか、厚木にある水郷田名で誕生した田名音頭のように今でも歌い続けられているものもあったり。

関東大震災以降は、映画などでも歌を先行で流行らせて注目を集めてから映画を作るという流れがあったそうです。なので、井土ヶ谷花街の芸者さんたちは料亭などでこの井土ヶ谷音頭にのって踊りを踊っていたんでしょうね。

でも、もうそんな歴史はもう完全に埋もれてしまったようです。現地に住んでいる古老の方々もこの辺はご存知ないようなので。。

おわりに

花街だった歴史は消えていく・・

今回は二度ほど井土ヶ谷を訪問して結構な方々に取材を行いましたが、やはり昔このと過ぎて花街だったことを詳しく知っているという方は皆無でした。。この記事に限らず、私の一番の目的は資料にも残らない現地の方の声を後世に残すこと。

ただ、ここが賑やかだった戦後までのころを知っているとなると100歳近くになるもんな。。

ということで、図書館も結構時間かけて調べましたがこれが私の限界ですね。もしかしたら、神がかって詳しい人が現れるか、横浜貿易新法のアーカイブとかをあさりまくれば何か出てくるかもしれないですけどね。

ということで、今回はこのくらいに。以上、井土ヶ谷花街の調査でした!

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市南区井土ケ谷上町35−23
駐車場 なし
アクセス 京浜急行線井土ヶ谷駅から徒歩8分ほど

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コメント

  1. あまの まさる より:

    拝読しました。この町の事を調べられた方がいたのは驚きです。

    記憶にあることを捕捉します、1949年ころすでに警察の寮として二階の大広間が使われていたので検番として使われていたのはその少し前までと思います。そしてそのころに旅回りの芝居一座が数日滞在して股旅物をやったことも思い出です。
    亡き母が管理人的なことをしていて玄関を入ったすぐ左の部屋に住んでいました。

    • 丹治 俊樹 より:

      コメントありがとうございます!
      井土ヶ谷は、私が小さい頃に暮らしていた場所ということもあって結構頑張って調べました。

      >少し前までと思います。そしてそのころに旅回りの芝居一座が数日滞在して股旅物をやったことも思い出です。
      そうなんですね!こういうリアルな話はとても貴重です、そしてお母さんもあの検番の建物の管理人をしていたんですね!
      あの建物が残っているだけでも、あの場所に花街があった歴史を語り継いでくれると思っています!

  2. あまの まさる より:

    井土ヶ谷上町の検番あたりのことを改めて、本題に入る前に
    イ.丘の上のお寺さんは子供たちの間では”尼将軍”と呼び子供だけで行くのはタブーで した。
    ロ.道路から検番の玄関のほうに向かい右隣のお宅の奥に野師(縁日などに露店を出す  方)の親分さんがいて、父が頼まれたのか黄金町の酉の市の露店の店番についていった
    ことがありました。
    ハ.京急線の井土ヶ谷と弘明寺の中間あたりにあるトンネルの井土ヶ谷よりが水源の小さ  な水路がありザリガニ取り行きました。
    この水路がバス通りと交差するところに木造の小さな橋ありました。

    ここからが本題です。
    1.この橋の付近に製材所(多分 だじま組の作業場)と作業員小屋があり、この作業小屋に住んでいたのが井土ヶ谷の一番古い記憶で道路はさんだお向かいさんは豆腐屋さんでした。
    2.その後移り住んだのが検番です。
    3.次に移り住んだのは先ほどの製材所の二階、ここに住んでいたときに井土ヶ谷小学校に”新一年生”として入学しましたので、検番が警察官の宿舎として使われ始めたのは入学より前のことです。ですから1949年には警察の寮として使われていました。

    サラリーマンを卒業して間もなく ”自分の記憶に残る井土ヶ谷”を訪ねるをした時に、ハの項の水源に行ったところ水路などが見つからなかったのでご近所の方に伺ったところ今は”暗渠”でコンビニへの通路とのことでした。

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