井土ヶ谷花街の歴史を周辺住民と共に紐解いた!

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今まで知の冒険ではいろいろな場所の遊郭や花街の歴史を取材してきましたが、今回は横浜市南区にあった井土ヶ谷花街に関してです。

ま〜井土ヶ谷となるとかなりマクアックというかローカルネタ感が強いですが、ここは私が小学校五年生まで住んでいた街なんですね。。

全国の歴史を調べているのに、自分が育った町の歴史を見逃すわけにはいかないということで今回は結構気合を入れて調べてまいりましたよ!と言っても、ここの花街の歴史は昔すぎて調査がかなり大変でしたけどね。。

ということで、そんな井土ヶ谷花街とはどのような背景・歴史があったのか、以下で紹介していきたいと思います!

本記事のポイント

・芸者さんがいたのは大正末期から1960年頃までと推測される
・10件ほどの料亭があり、その中でも井戸館は立派な建物だったらしい
・検番だった建物は横浜市歴史的建造物として保存されている

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横浜の中心部の外れにある井土ヶ谷

井土ヶ谷の場所

おそらく他県というか横浜市に縁がある方以外の方が見たら、「井土ヶ谷ってどこやねん!!」と怒り狂うと思うので、この町についてを簡単に!

井土ヶ谷は、横浜市南区に位置していて横浜駅からだと京浜急行で10分ちょいの場所であり、中心部からそこまで離れてはいないって感じですかね。

京急線の井土ヶ谷駅

井土ヶ谷は京浜急行の駅にもなっていて、昔は普通電車しか停まらなかったものの、最近は急行も停まるようになったというね。この辺、昔は田んぼが広がっていたりしていましたが、その辺はほぼ開発され尽くし、今ではほとんどが住宅地になっている感じです。

で、私は小学校五年生までこの井土ヶ谷という街で暮らしていたわけですが、なんとこんな場所にも大きな規模ではないものの芸者さんがいて幾つかの料亭もあったそうなんですよ!

こんな場所にもあったとは、、横浜にはどんだけ花街があったのよ( ;∀;)

井土ヶ谷花街があった場所

花街だった場所を地図で示すとこんな感じ。井土ヶ谷と言っても、井土ヶ谷と弘明寺の間ですけどね。こんな住宅地が花街だったとはな〜ということで、なんでこんな場所に花街があったのか、あとはそもそも井土ヶ谷という街にはどのような歴史があるのか。

何かそれらを調べているとリンクする部分があったりするんじゃないかと思いましてね。ということで、私はまずは横浜市にある図書館へ赴いてありったけの資料を収集し、早速現地取材をすべく故郷でもある井土ヶ谷へと向かったのでした!

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当時の面影はほぼナシ。。

京浜急行に乗って、井土ヶ谷駅へと到着した私。早速地図を元に花街があった場所へと向かうことに。

新しい家ばかりで面影はナシ・・

ただ、わかっていましたよ、、もう当時の面影がほとんどないことはね。。この辺り、昔は田んぼがあったり閑散としていたそうですが、今では住宅がぎっしり立ち並んでいてとても花街だったとは思えないっすね。

芸者さんがいたころは、この辺りを夜警でパトロールしていると、黒塀の店の木戸越しから「ちょっと兄さん、寄っていきなよ」と声がかかったとか。

井土ヶ谷花街の位置図

最初にいきなりですが、横浜中央図書館と神奈川県立図書館にあった昔の住宅地図を元に、昔の井土ヶ谷花街だった頃の町並みを復元しました。これ、のちに現地の古老を取材して判明したものも含んでいますが、花街だった当時はこんな感じだったそうです。

この地図は、1957(昭和32)年以降の地図を参考にしたもの。恐らくこの地図に載っている以外の料亭もかつてはあったんでしょうが、市内にある図書館をひっきりなしに漁って参考にしたので、これ以上の復元は難しかったです。。

この中でも、井土ヶ谷上町公園の場所には、「通称:井戸館」という正式名称不明のシンボル的な料亭があったそうです。木造二階建てで、かなり立派な建物だったそうですよ。今はもう公園になって無いけど。。

でも、実は井土ヶ谷花街跡には当時検番だった建物や料亭の面影をかろうじて残す建物がわずかに残っているんですね。検番だった建物は、横浜市の歴史的建築物にも指定されているんですね。ということで、まずはそこを訪問してみることに。

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検番本部だった上町町内会館

こちらが、現在は上町第一町内会館として利用されている建物。

この前身こそが、井土ヶ谷花街の検番本部でした。付近には戦前から軍需工場があり、中国との戦争が始まった当時は景気も良く、この界隈はひときわ華やかだったそうです。そんな1937(昭和12)年に、日本軍の敵地攻略を祝ってこの建物は建てられました。

上町第一町内会館が当時の面影を残しながらも、現在も維持されているのは、1976(昭和51)年に「この建物を町内会館にできないか」と町内会や商店街が中心になって、町の一人ひとりに寄付金を募ったのがきっかけなんだそうです。いろいろ話し合いがあって、現地の方の協力があってこの建物は残っているんですね!

ではでは、早速中に入ってみることにしましょう!!

館内を案内してくれたお父さん

ピンポンを鳴らして早速館内へ突撃取材をすることに!

中にいたのはこちらの古老の方。今は町内会館として利用されていますが、ここは当初は検番として使われていた建物でした。しかし、検番として使われたのは1955年頃までで、そこから数十年は大岡警察署の寮として利用されていたそうです。

ただ、花街だったころは1960年くらいまでと、60年近くも前の歴史であるためお父さんはその頃のことは全くわからないとのこと。そもそも、お父さんの故郷は福島県の南相馬市なんだとか。

検番の建築当初の写真

館内には、この建物の建設当初の写真もありました。上の写真に書いているようにこの建物は1937(昭和12)年12月12日から1955(昭和30)年まで検番として利用されていたそうですね。

写真を拡大すると「南京京陥落」という文字が見えますね。さっきも書いたように、この建物は日中戦争の日本軍敵地攻略を祝って建てられましたが、それはこの写真を見てもわかりますな~!

芸者さんが稽古をした大広間

一階を見終えたところで、見所の大広間がある二階へを上がることに。この二十八畳の大広間には、芸者さんが踊りや三味線などの芸を披露する舞台が置かれていたそうです。

現在舞台はないですが、おそらくこの奥にあったんじゃないかな。上には、歴代の町内会長の写真がずらりと並んでいました。

この検番辺りは花街の華やかさをさえる拠点だったようで、芸者たちはここから三味線を手に着物姿で人力車に乗って周辺の料亭へと派遣されていたそうです。

芸者さんのために造られた階段

さらにはお父さんからこちらも案内していただきました。この階段は私が上ってきた階段とは別の階段。なんで階段が二つあるのかというと、こちらは着物を着た芸者さんが上り下りする用の階段だったとか。

なので、ちょっと階段の幅が広くなっているんですって。

そんな感じで検番だった建物を案内していただいた私は、さらなる周辺取材へと向かうことに。

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住吉神社の神主さんと語り合う

花街近くにある住吉神社

続いて訪問したのは、井土ヶ谷花街跡のすぐ近くにある住吉神社。遊郭や花街取材だけではないですけども、このジャンルには神社とかかわりがあることが多いため、宮司さんが何か知っていればと思って突撃取材を試みることに!

親切に対応してくれた宮司さん

ピンポンを押すと宮司さんがいらっしゃって登場。井土ヶ谷花街の歴史を調べているという背景を伝えると、非常に親切な宮司さんでもあり、とても楽しくこの辺の街の歴史を語り合うことになりました。

で、いろいろと聞いてみたところ、宮司さんは結構若い方ということもあり花街のことに関してはほとんどわからないとのこと。ただし、いくつか資料を持っているとのことでそれを見せていただくことはできました。

1957年の地図に載っている稲荷神社

で、あと宮司さんに聞きたかったのがこれ。井土ヶ谷花街には稲荷神社という謎の神社が存在していたようです。ただこの神社、1950年代まで存在してなかったようで今では立体駐車場となり跡形は全く無し。

ただ、花街だったということもあり芸者さんたちがよく手を合わせいたりと何か花街と関係があるのではと思っていまして。。周辺の方々は古すぎて全然わからんとのことで、宮司さんだったら何か知ってるんじゃないかと思いましてね~。

ってなことで宮司さんに聞いてみたものの、結果としてはよくわからんとのこと。宮司さんの記憶にないとのことなので、もし貸方この神社は周辺の方々によって手作りによるなど簡易的に作られた神社ではないかということ。

もっと昔の明治前の話となると、稲荷神社自体は井土ヶ谷にたくさんあったものの、一村一社制によって全て住吉神社に合祀されたそうです。

ちなみに、住吉神社の総研は不明。お隣の乗蓮寺が鎌倉時代に創建したため、住吉神社は乗蓮寺の境内にあったこともあり、それと近しい時代だとは推測されているという。

秋葉神社は、井土ヶ谷村が明治末ごろまで田んぼで70軒ほどの農家があり、火災の多い地域でした。それで火災防止のため静岡の秋葉大権現を勧請したという。

『旅館 寿々め』と刻まれた玉垣

最後に、宮司さんに神社の境内にある玉垣を案内していただきました。住吉神社は昭和40年代に新しくなったこともあり、その際に玉垣も刷新して新たに名前を入れるということになり、花街関係でいえば近くの舞踊の先生の氏名や、髪結いの理髪店、さらには旅館の名前が刻まれているとのこと。

んで、最初に案内していただいたのがこれ。今は無き「旅館 寿々め」の名が刻まれていますね。ここはもともと料亭だったそうな。ただ、料亭に関して刻まれているのはこれだけ。

『黒川美容院』と刻まれた玉垣

あとはこちらの「黒川美容院」。

この美容院は検番の隣にあったお店で、「黒川」という有名な日本髪の髪結いさんがいたそうです。そして、その確かな仕事ぶりに同じ横浜市内の吉野町や伊勢佐木町から芸者さんや仲居さんなどが髪を結いにやってきたそうですよ!

残念ながら、この美容院はもう無くなっていますけどね。。

以上で住吉神社の取材は終了。最後に宮司さんと名刺交換をしてまた近くに来たら訪問する旨を伝えて、私は引き続き井土ヶ谷花街の取材へと繰り出すのでした!!

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コメント

  1. あまの まさる より:

    拝読しました。この町の事を調べられた方がいたのは驚きです。

    記憶にあることを捕捉します、1949年ころすでに警察の寮として二階の大広間が使われていたので検番として使われていたのはその少し前までと思います。そしてそのころに旅回りの芝居一座が数日滞在して股旅物をやったことも思い出です。
    亡き母が管理人的なことをしていて玄関を入ったすぐ左の部屋に住んでいました。

    • 丹治 俊樹 より:

      コメントありがとうございます!
      井土ヶ谷は、私が小さい頃に暮らしていた場所ということもあって結構頑張って調べました。

      >少し前までと思います。そしてそのころに旅回りの芝居一座が数日滞在して股旅物をやったことも思い出です。
      そうなんですね!こういうリアルな話はとても貴重です、そしてお母さんもあの検番の建物の管理人をしていたんですね!
      あの建物が残っているだけでも、あの場所に花街があった歴史を語り継いでくれると思っています!

  2. あまの まさる より:

    井土ヶ谷上町の検番あたりのことを改めて、本題に入る前に
    イ.丘の上のお寺さんは子供たちの間では”尼将軍”と呼び子供だけで行くのはタブーで した。
    ロ.道路から検番の玄関のほうに向かい右隣のお宅の奥に野師(縁日などに露店を出す  方)の親分さんがいて、父が頼まれたのか黄金町の酉の市の露店の店番についていった
    ことがありました。
    ハ.京急線の井土ヶ谷と弘明寺の中間あたりにあるトンネルの井土ヶ谷よりが水源の小さ  な水路がありザリガニ取り行きました。
    この水路がバス通りと交差するところに木造の小さな橋ありました。

    ここからが本題です。
    1.この橋の付近に製材所(多分 だじま組の作業場)と作業員小屋があり、この作業小屋に住んでいたのが井土ヶ谷の一番古い記憶で道路はさんだお向かいさんは豆腐屋さんでした。
    2.その後移り住んだのが検番です。
    3.次に移り住んだのは先ほどの製材所の二階、ここに住んでいたときに井土ヶ谷小学校に”新一年生”として入学しましたので、検番が警察官の宿舎として使われ始めたのは入学より前のことです。ですから1949年には警察の寮として使われていました。

    サラリーマンを卒業して間もなく ”自分の記憶に残る井土ヶ谷”を訪ねるをした時に、ハの項の水源に行ったところ水路などが見つからなかったのでご近所の方に伺ったところ今は”暗渠”でコンビニへの通路とのことでした。

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