風光明媚な根岸湾沿いにあった「磯子花街」の痕跡を探るべく、現地調査を試みた!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

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磯子花街の痕跡を探るべく周辺調査へ!

前ページでは、磯子花街の現地調査を行いましたが、残念ながら開発が進んでいて料亭の遺構は残っておらず。。ただ、事前調査にて花街があった痕跡やゆかりのある場所は幾つかあるようなので、その辺を訪問して話を聞きに行こうという作戦に出ました!!

まずは、芸者さんがよくお参りに行っていたという岡村天満宮へと足を運ぶことに!

色天神という異名をもつ岡村天満宮

岡村天満宮の境内

磯子花街からは割と距離がある場所にある岡村天満宮。

天満宮というと、学問の神様である菅原道真を祀っている福岡県の太宰府天満宮が思い浮かぶかと思います。ところが、この岡村天満宮は学問の神様を祀っているだけでなく『色天神』という異名をも持っていたとのこと。

昭和53年に区制施行50周年を記念して刊行された『磯子のれきし』には、文中の「色天神」という見出しに以下のような記述がみられます。


明治三十五年に中村町の小嶋萬吉、魚河岸の平林藤吉ほか数名が世話人となり、毎月二十五日の天神まつりを華やかに彩ろうと花柳界を中心に天神講をつくって参拝人を集めた。それからはあでやかな着物姿が目につくようになった。

磯子のれきし

このように、岡村天満宮は学問の神様を祀る側面がありつつも、花柳界の方々も縁日に訪れる一面ももっていたようです。

ここはゆずファンの聖地でもある

この神社には、境内に岡村幼稚園があり、今では超有名アーティストであるゆずの岩沢さんはこの幼稚園出身。今でもゆずファンの聖地ということで、この辺でコンサートがあるとたくさんのゆずファンが訪れるとか。

上の写真に写っているは、伊勢佐木町にあった松坂屋の屋上に飾られていた壁画で、松坂屋を閉店するとなった時に、彼らの地元へ寄贈した方が・・ということでこの神社の境内に展示されているとのこと。

そんな岡村天満宮と磯子花街の関係を調べるべく、社務所へ突撃して宮司さんに話を伺うことにしました(*’▽’)

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神社の宮司さんに話を聞いた

今では閑静な神社であるものの、大正時代には成田山別院、増徳院元町薬師、岡村天満宮の三つの神社が横浜の三代縁日として大変賑わっていたようです。

今の掘割川にかかっている天神橋という橋が昔は参道の入口であり、そこから岡村天満宮までの参道にはお茶屋さんだったりと色々なお店が並んでいたそうです。そして岡村天満宮は25日が縁日ということもあり、その時には多くの芸者さんが着物を着てお参りに来ていたという話は聞いているとのこと。

そんで昭和のはじめごろが一番賑わっていたとか。

宮司さんが知っていた磯子花街に関する話としてはそのくらいとのこと。お参りには来ていたようですが、それ以外にはこの天満宮とのかかわりはなかったんですかね~。

料亭の名が刻まれた石板

そんな岡村天満宮、境内を捜索してみるとこんな石板が残されていることを発見。料亭の屋号以外には「料理業組合」とだけ書かれていて、具体的にどこの料亭に関してかは書かれていなかったですけどね。。

この石板については宮司さんも詳しいことはわからないとのこと。。最初は磯子花街にあった料亭の名が刻まれていると思っていたのですが、持っている資料と照らし合わせても一軒も屋号が一致しないんですよね。。( ;∀;)

屋号の解読が難すぎる。。

さらには、料亭の屋号が書かれているはずなのですがその字体があまりに変化球過ぎてほっとんど何て書いてるかわからないっていうね( ;∀;)

頭が悪く応用力がない私は、Twitterにもヘルプを出すなどして徐々に解読を試みております(現在進行形ですww)。

で、この中では「千とせ」「八百政」の二つが解読できたわけですが、この二つの料亭は関内、関外、神奈川といった三場所とかつては言われていた花柳界を牛耳っていた料亭だったそうです。

なので、この岡村天満宮が色天神という異名をもっているように、磯子花街の芸者さんだけでなく関内方面の市の中心部からも、芸者さんが参拝に来ていたのではないですかね!

といったところで岡村天満宮の訪問は終了!続いては、金蔵院という花街跡の近くにあるお寺へと足を運ぶことに!

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慰霊碑を探しに近くのお寺へ!

慰霊碑が残る「金蔵院」

続いて訪れたのが、磯子花街のすぐ近くにある金蔵院というお寺。ここには磯子花街に関するとある慰霊碑が残っているとのことなんです。

その原因になったのが1923(大正12)年に発生した関東大震災であり、その天災によって16号線まで張り出していた山が崩れ、磯子最大の料亭だった偕楽園の従業員11名が亡くなるという大惨事が起きたとのこと。

慰霊碑を案内してくれた住職さん

そしてこの時に亡くなった方々を弔うための慰霊碑が金蔵院に残っているんだそうです。お寺を訪問してピンポンを押して住職さんを訪問。慰霊碑を探しているという旨を伝えると、住職さんがその場所へ案内してくれました!

以前は表に出していたそうですが、今はお寺の裏に移動しているとのことで細い通路を通って裏へと進む。

それがこの碑。ちょっと刻まれている字が読み辛くはなってはいますが「大正十二年 大震災横死者碑 偕楽園」と書かれていますね。

裏には亡くなった方々の名が刻まれている

この碑の裏には、亡くなった11名の名前と「昭和四年九月一日 偕楽園主建」と書かれているため、関東大震災からちょうど6年後に偕楽園の方々が亡くなった方を弔うためにこの碑を建てたのかなと!

先ほども偕楽園があった場所の写真を載せましたが、もうその痕跡は全くなく、偕楽園があった痕跡としてはこの碑のみでした。。

住職さんが言うには、大正から昭和にかけての頃にはこお寺で節分の催しがあり、そのときは黒い服をまとった芸者さんが参加されていたそうです。磯子花街の中で一番最後まで残っていた料亭が中志満(なかじま)であり、それも20年くらい前とのこと。

慰霊碑の前で手を合わせ、住職さんと少しばかり花街以外の磯子周辺の歴史に関しても少しばかり教えていただき、金蔵院を後にすることに。

住職さん、ありがとうございましたm(_ _)m

八幡八幡宮にある二業組合の碑

磯子花街の近くにある八幡橋八幡神社

続いてやってきたのは八幡橋八幡神社。実はここは以前一度別用で訪問したことがあるので二度目の訪問。ここには『磯子二業組合』と刻まれた碑があるということでやってきました!

昭和天皇の即位記念碑

それがこの碑。

なかなかイカツい作りになっていて、テッペンには何か球体のようなものが乗っかっていますね。

この碑がなんのために建てられたのかが不明だったこともありその辺を神社の方に聞くと、この碑は「御大典記念」と書かれているように、1930(昭和5)年に昭和天皇が即位されたことを記念して作られたものとのこと。その際に、碑を作るために寄贈された方々の名がここに刻まれているそうです。

そのため、この碑には磯子二業組合・磯子芸妓組合以外に周辺のお店の店名も刻まれていました。

こちらには二業組合だとか見番に関わる方々の名前が刻まれていますね。ただちょっと高い場所にあるのと字が薄れていて非常に見づらいですけども。。

あとは「深川」という料亭の屋号も刻まれていますな。この料亭も磯子二業組合の料亭であり、この料亭は葦名金之助が開いたらしい。。

この神社にある花街の痕跡としてはこんなとこですかね。以上のような背景のため、この神社がそこまで磯子の花街と関係があったというか芸者の方々がここで手を合わせに来ていたというわけでもないそうです。

ってな感じで、磯子花街周辺の痕跡があったりゆかりがある場所をいろいろ取材して回りましたが、こんくらいですかね。

料亭の以降とかが残っていないのは残念ですが、まだ芸者の方々がいた当時の記憶がある方がいてその声を聞けただけでもよかったな〜なんて思いました!

おわりに

昔はさぞ賑やかだったんだろな・・

今回の記事を書くために、三回くらい磯子に訪問し磯子の図書館や横浜市中央図書館を訪問したりと結構時間がかかってしまいましたが、私が出来るのはこのくらいですかね。。

今回の磯子花街以外にも、今回の記事でも触れた海苔の養殖や海水浴場だった歴史、さらには先日記事にした浜マーケットや旧柳下邸、三渓園などまだまだ見所や調べがいがあることがたっくさんあるので、まだまだこの辺の歴史はこれからも研究・調査をしていくつもりですよん(*’▽’)

ちょっと一記事に時間をかけすぎているので、この辺考えないと全然記事政策が追い付かないという悩みがあったりするわけですが、これからも引き続き頑張っていきますね~!

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市磯子区磯子2丁目付近
アクセス JR磯子駅から徒歩15分ほど

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