【続編】軍港の街である横須賀の裏歴史が眠る「柏木田遊郭」の歴史を掘り起こしてみた!

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今回の記事は、横須賀にあった唯一の公認遊郭街であった柏木田遊郭に関する深堀り記事になります。以前に柏木田遊郭に関しては記事をまとめていたのですが、まだまだ内容が浅く調べきれていないことがたくさんあったので、その他の売春街だった安浦銘酒屋街、皆ヶ作銘酒屋街を調べると同時に、ここに関しても調べようと思ったわけです。
ということで、この柏木田遊郭がどのような経緯で誕生したか、そしてその後どのような物語があったのかを前回に比べパワーアップして記載していきたいと思います!!
↓↓ちなみに、前回記事はこちらですm(__)m
本記事のポイント

・柏木田遊郭では、大正時代頃までは女郎さんが逃亡や自殺など多くの悲しい物語が何度もあった
・山口瞳の小説である『血族』は、柏木田遊郭が舞台だった
・遊郭がなくなった後は、カフェーやトルコ風呂があったものの、今はその名残はないに等しい

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大瀧遊廓はどのようにして誕生した?

この辺は、安浦銘酒屋街の成り立ちを書いた記事と多少内容が被るのですが、柏木田遊郭の背景を調べるには、横須賀の街がどのように発展してきたかを理解する必要があるんですね!なので、発展のきっかけとなった横須賀製鉄所の設立からを辿ってみましょう!!

製鉄所の建設により発展した横須賀

▲港崎遊郭を作るために誕生した横浜公園
日本が大きく発展し成長した背景には、1859年の開港が大きく関係しています。同じ神奈川県にある横濱村(現:横浜市)では、開港によって多くの外国人らが移行して移り住むようになりました。開港に備えて、東海道から横濱村へアクセスする道路である横浜道を3ヶ月のウルトラスーパー突貫工事で作ったり、慰安所が必要だということで今の横浜スタジアムがある横浜公園に港崎遊郭を作ったりしたわけです。
▲製鉄所建設に誠意を尽くした小栗上野介忠須
そんな状態で日本が発展していくに従い、幕府は日本は近代化を図るべく製鉄所の設立を考えたのです。そこで立ち上がった日本人が小栗上野介忠須(ただまさ)というお方。実はこの時代、幕府の財政が逼迫しているということで製鉄所の設立は厳しいのではという反応もありました。しかし、小栗上野介は「横須賀製鉄所の建設は今後の日本の発展には必要不可欠な存在である」と主張し続けました。
そしてこの時、日本は本来アメリカから協力を得ようと考えていたようですが、南北戦争の途中ということでパス。そこで日本はフランスの手を借りて製鉄所設立に踏み切りました。この時、フランス人技師の中で貢献したのがフランソワ・レオンス・ヴェルニーという方でした。
▲横須賀製鉄所で使われていたスチームハンマー
この横須賀製鉄所は1865年11月15日に起工式が行われ船の修理や造船、それだけではなく世界文化遺産に認定された富岡製糸場の鉄水槽や、兵庫県の生野銀山で使われたボイラーなども作られることになります!
そんな製鉄所が作らることで、製鉄所雇いのフランス人外国人のために1867年3月に外国人遊参所設置(いわゆる外国人専用の遊郭)の伺書が幕府に提出され、1868年に大瀧遊廓が誕生しました。
↓↓横須賀製鉄所の詳細に関しては、以下に記事を参照してみて下さい(^ ^)
ではでは、大瀧遊郭はどのような遊郭だったのか?まずは場所から説明しましょう!

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大瀧遊廓の位置と配置図

大瀧遊郭の「大瀧」は町名から来ています。遊郭の街になった町名は改名されることがよくありますが、「大滝」の名は今現在も残されています。場所は横須賀中央駅の北側で、三笠通りという割と人が多い通りもある場所です。
いまから150年くらい前にはこの辺に遊郭があったんですね。ただし、大瀧遊郭はこの近くにある豊川稲荷付近から発生した火事で焼失してしまいます。火事は1888年12月03日に発生したため、大瀧遊郭としては23年くらいの期間だったわけです。
▲かつて大瀧遊廓があった場所
ちなみに、大瀧遊廓があった場所は今では三笠通りという通りがあり横須賀市の中で一番栄えていると言っていい場所になっています。ここに遊郭があったなんて想像できませんわ・・。
そして、大瀧遊郭の配置図は上図のような感じでした。横須賀製鉄所は北側にあったため、そこから南下して大門をくぐると大瀧遊廓の内部に入る感じになります。
藤松屋定吉と書かれた貸座敷( 8の貸座敷)は、以下でも出てくる小説『血族』の筆者である山口瞳の家系が経営していた店でした。また、嶋崎屋と書かれた貸座敷(6の貸座敷)の家主である永嶋家は、島崎藤村の小説『夜明け前』のモデルになった家系です。
今の地図を見ながらだと照らし合わせるのは難しいですが、照らし合わせるとしたらこうですかね。ただ、今現在は現地に行ったとしてもマジで何も痕跡はないですけども・・(^-^;

火事によって大瀧遊廓は消失→柏木田に移転

その後、大瀧遊廓は豊川稲荷付近から出火した火事により焼けてしまったことから、場所を柏木田(現:横須賀市上町三丁目)に移すことになりました。
柏木田(かしわぎだ)というとっても発音しにくいこの地名。。港側から坂を上って奥に進んだ場所で元々は田んぼだった場所ですが、横須賀刑務所の囚人を使って付近の山を切り崩して作られたのが柏木田遊廓でした。
▲88軒もの銘酒屋が連なっていた安浦
ここの遊郭は海軍や陸軍の方が主なお客さんだったようで、特に海軍が海から帰ってきた日にはめっちゃ賑わって女郎さん達も大変忙しくしていたようです。ただし、ここの近くには安浦銘酒屋街という売春街があったことで、お客さんをとられたことで結構経営は厳しい感じだったようです。

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柏木田遊郭で起きていた惨状

柏木田遊郭に関しては、資料を探すと記録が残っていて女郎さんが逃亡したり虐待されたり病気のために自由廃業をしたりと、とにかく毎年悲惨な出来事が起こっていたようです。あまりここまで特定の遊郭に関する記録を見たことはなかったのですが、ちょっとあまりの悲惨さに衝撃を受けました。
ここで働いていた女郎さんは秋田県、青森県、山形県、福島県などの東北地方や千葉県、埼玉県、茨城県辺りから売られてきたようで、農作物の不作から家の借金を背負わされていたという。借金で女郎として働かされていた彼女たちにとって、柏木田遊郭はとても過酷な場所だったようです。
とにかく楼主にひどい扱いを受けた子が多かったようで、女郎さんの食事は「台の物」といってお客さんの食べ残ししか食べることが出来なかったり、お仕置き部屋に閉じ込められたり、病気になってしまった女性は蛆(ウジ)が湧くまで放置され亡くなったら山に捨てられるという。。
柏木田遊郭の記録を見るとわかるのですが、大正の時代頃までは毎年様々な遊郭で女郎さんが病気のために廃業(仕事が出来なくなったってこと)したり、楼主の過酷な扱いによって廃業をしたり、逃亡したり自殺をしたり・・。
特に1909年頃が酷かったようなので、その付近の出来事を簡単に引用します。
1909年05月31日:「金村楼」娼妓八千代ことN子(23歳)、病気のため楼主に一時帰省を願い出るも拒否されたため横須賀署に自由廃業を申請し遂げる
1909年06月18日:「金村楼」娼妓桜木ことN子(23歳)、登録申請、元同楼娼妓にて5月30日病気で自由廃業をするが前借返済ができないため再動
1909年06月23日:「若葉楼」娼妓菅原ことW子(26歳)、新聞配達夫(23歳)と駆け落ちして、6月28日に横須賀署に捕まる
1909年06月27日:「鈴木楼」、経営困難なため、娼妓16名ともどもY男に譲渡して廃業、Y男は「藤崎楼」として経営開始
1909年07月18日:「大阪楼」娼妓錦糸ことT子(21歳)、梅毒が完治せずに横須賀署に出頭し自由廃業を遂げる
1909年07月25日:「若葉楼」娼妓〆松(24歳)など25名、楼主による粗食など過酷な待遇に同盟休業
1909年08月02日:「朝日楼」娼妓花橘ことY子(26歳)、逃亡
1909年08月02日:「若葉楼」娼妓金山ことF子(26歳)、楼主の過酷な扱いを理由に横須賀署に自由廃業を申請
1909年09月20日:「金村楼」娼妓相染ことT子(28歳)、病気がちで商売ができぬと横須賀署に自由廃業を申請
1910年08月28日:「永盛楼」娼妓小新ことK子(26歳)、梅毒性眼疾により休業中、失明し楼主より虐待の上、食事を与えられないため横須賀署に出頭
こんな感じですよ!そもそも、女性が借金を背負わされて売られるというのがもはや今の時代では考えられないですが、それだけでなくこんな惨状が繰り広げられるって恐ろしい。。
ただし、昭和の初期辺りからは女郎さんたちを慰安の為に映画鑑賞へ連れて行ったり、月に1日公休を設けたりと対応改善はされていった様です。
続きはこちら!山口瞳の小説『血族』を元に、柏木田遊郭を解剖する!
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