甲府の激渋飲み屋街「甲府新天街」の歴史をママから教わった!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

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最古参の飲み屋「路」に潜入!

ひっそりと灯る「新天街」の看板

お母さんと出会った日の夜、別の取材に出かけた後に図書館へ行ってこの辺の昔の住宅地図をコピーして再び参上!!

県道6号線沿いにかろうじて明かりが灯っている「新・天・街」の文字。改めてですが、本当によくこんなところにも関わらずまだ残っているものですわ。

「本当に朝出会ったお母さんの店がやっているのか?」と思ってしまいますが、再び中に入って見ることに!!

本当にやっていたww

や、やってた!

こんだけ真っ暗な中、スナックの看板だけが灯る謎光景。。もはやお化け屋敷。。暗い場所が苦手な人だったら懐中電灯ないと厳しいかもしれないっすよ(⌒-⌒; )

ということで、スナック「路」に突撃取材開始!!

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店内もすごく渋かった!

「よく来たね!」とお母さん

店内に入ると、さっそくお母さんが出迎えてくれました!

「あら、本当に来たのね!」

お母さんは、私が帰ってしまったと思っていたらしくちょっと驚きつつもすごく嬉しそうに迎えてくれました!

思った通り店内も渋い・・

自家製の梅を漬けているということで梅の匂いが充満する店内。薄暗く五席しかない、かなりこじんまりとした空間。もう本当に昭和の時代にタイムスリップしたような雰囲気。

ピンクの電話は未だ現役!

中にはこんなものまで。私が子供の頃はまだ中華料理屋とかにこんな電話があった記憶がありますが、今の小学生とかは見たことないんじゃないですかね。ダイヤル式の電話となるとかけ方がわからないとも聞きますし。。

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甲府新天街の歴史とは!?

昔の住宅地図を使いながら歴史を聞いた

で、早速ですがお母さんに新天街の歴史を聞くことに!

朝に会ったときにも私がこの辺を取材している背景を説明はしたものの、もう一度その辺を説明してこの辺の歴史を伺いました。

お母さんがここで「バー 路」を開いたのは、今から49年前。つまり、1970(昭和45)年頃ですね。たまたまこのお店が空いていて倉庫として使われていたため、お母さんが自費で店内を改装してお店を始めたそうです。

1968年の新天街

まずは昔の新天街を再現してみました。山梨県立図書館に所蔵されている一番古い住宅地図が1968年のものということで、その地図を参考にしたのが上の図でっす。

お母さんが49年前からお店を始めたときはすでに新天街は飲み屋街となっていたようで、それ以前の歴史に関しては不明とのこと。「バー 路」の場所は、以前はお寿司屋さんや焼き鳥屋さんだったとお客さんから聞いた覚えはあるようですが、それ以外のことは不明。。

こういった飲み屋街って、東京都の立石にある「呑んべ横丁」とか神奈川県横浜市にある「都橋商店街」みたいに、「日用品を扱う個人商店が連なる→日用品がチェーン店などの出現で売れなくなる→空きテナントになり飲み屋が入る」という流れなのかと一瞬思ったのですが、その辺の確認はできず。。

1968年の時点では、「ももた洋品店」という商店だけは存在していたようですが、あとはほぼ飲み屋ですからね。。

二階は青線だった時代も・・

1階は飲み屋であり二階はどうだったのかというと、飲み屋をやっていたママさんの住まいだったそうです。そのため、新天街のお店はほぼ全ての店が日曜休みだったので、日曜日になると夜の時間でもテレビなどの生活音が通りに聞こえていたとか。

ただしここの二階、ただの住まいというだけではなくかつては青線だった時代もあったとか。一階で飲んだ後に上がって・・みたいな。。お母さんは、お客さんから「俺ね、あそこのママさんとヤったことあるんだよ!」みたいな自慢話をされたことがあるなど、その辺の話はいくらか聞いたことがあるとのこと。

新天街唯一の共同トイレ

そんな新天街では、お母さんがここでお店をやる前の話ではあるが無銭飲食が横行していたという。というのも、このエリアではトイレは上の写真の左に写っている共同のものが一つあるだけ。

そんで、お客さんはトイレに行くふりをしてそのまま帰ってしまうという暴挙が横行していたそうです。。まさに悪質な食い逃げ。。さすがに常連さんでそこまでやるとは考えにくいので、出張で甲府に来た人とかがやっていたんでしょうか。。

さっきも載せましたが、改めて小便するのはここww

景気が良い時は札が落ちていた!?

かつては肩がぶつかるほどの人通り

昔はやっぱりここも肩がぶつかるくらい人は多かったそうです。高度経済成長期からバブルの時代にかけてはもうお客さんでごった返して酔っ払った客同士の喧嘩が勃発したりと、とても賑やかだったという。

昔は娯楽が少なく、飲み代に費やす人が多かったこともありお客さんが数軒ハシゴをするのは当たり前。お母さんのお店にお客さんが入りきれなかったときは、「ママ、また戻ってくるから〜」と言って新天街の別の店に何軒か行ってまた戻ってくることもザラ。

お店は五席とこじんまりとしていたため、客がカウンターにまで入っていてお酒を出す手伝いまでしてもらったほど。

落ち着いたお客さんが多かった

お店は夕方4:30ころから翌2:00までの営業。一晩で10万、20万を稼ぐ日はザラであり、それだけでなく宝石会社のお客さんからは指輪などのアクセサリーをプレゼントされることも多かったという。

そうそう、山梨県は乙女鉱山など水晶が取れる鉱山が多く、宝石会社も多いんですよね!ただ、当時のお客さんは県庁などの役所関係や建設会社の方々が多かったという。

そして、お母さんのお店にはカラオケも用意はされているものの馬鹿騒ぎするようなお客さんはおらず、仕事の話をしたりとお酒を飲みながら語りに来るようなおとなしいお客さんが多かったという。

というのも、お母さんはタバコも吸わなければ酒もそこまで呑むようなタイプではなく、巷でよく目にするようなママさんとは異なりすごく落ち着いている雰囲気。だからこそ、お客さんもそんなタイプの人が集まったんじゃないかと。。

イスの下には札が落ちていた

まだ今のように給料が銀行振込みじゃなかったころ、札束は茶封筒に入れられていてそれをそのまま持ち込んでお客さんは飲みに来ていたわけです。そして、酒を飲んでいてベロベロに出来上がるお客もいるわけですし、そうすると札束を取り出したりしている時のはずみでお札を落とす人が多かったという。

お店を閉めるときにイスの下から一万円札とかが落ちていて、よく拾ったんですってww

なんという時代や・・(⌒-⌒; )

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10年ほど前から賑やかさが消えた・・

10年前頃から閑散と・・

高度経済成長期からバブル期にかけてはお客がごった返すほど賑わった新天街。しかし、この街に限ったことではありませんが平成に入りバブルも崩壊してお客が減っていく。。新天街にも陰りが見え始めてきたのです。。

お母さんに、いつ頃から新天街が閑散としてきたかを聞いたら、

「ん〜そうだね、20年はまだ経ってないな、だいたい10年前くらいからじゃないかね。」

とのこと。

今ではインターネットの普及などで娯楽も増え、若い人がお酒を飲まなくもなり歓楽街は寂れる一方。昔のこういう町が賑やかだった時代の風景を見てみたいものですな〜。

かつて駅の南側には立ちんぼエリアも

そんな時代の栄枯盛衰を話していると、、

「私たちはいい時代を経験したと思うよ。昔は喧嘩がすごかったし、ここだけじゃなく甲府は賑やかでね。ここから南には遊郭だった穴切(あなぎり)もあったし、春日小学校(現:舞鶴小学校)には立ちんぼもいてね、駐車場に停まっている車の間に隠れながら客をとってたみたいよ。。」

「穴切のこともお客さんから結構聞いたわ。昔来たお客さんがね、中学時代に穴切がどんなとこかと新聞配達のアルバイトで稼いだ500円を持って行ってね。そしたら表にいた呼び込みのおばちゃんに『ここは僕ちゃんが来るところじゃないわよ!』と言われたなんて話も聞いたよ。」

「私は年中無休で営業していたの、今振り返っても大変な思い出はなかったかな、この仕事をしてきてとっても楽しかった。」

お茶とお菓子を出してくれた

お母さんは基本は休みなく働いていたそうです。新天街は仕事終わりのサラリーマンが飲みにくるということで、ほとんどのお店は日曜日が休みだったそうです。しかし、お母さんのお店だけは日曜日でも営業し続けたという。

お店の天井も味がある雰囲気

現在は昔からの常連さんのみ。お母さんは御年72歳。病気もなく体調はまだまだ万全だという。今後についても、元気な限りはここでお店を続けていくという。

写真を撮りに来る人も多い・・

最近は常連さんだけではあるものの、たまによそ者も来るという。この間は埼玉からツーリングで来た二人のお客さんが、「ここは時代の面影があって懐かしいね〜」といってとても喜んでいたという。

さらに先日には男女4,5人でこの風景を撮りに来た方もいたように、写真を撮りに来る方はよく目にするらしい。instagramでもtwitterでも、こんな感じの昭和レトロのな雰囲気はSNS映えには効果あるんでしょうね。

でも、せっかくならお店に入ってお母さんと談笑するともっと深掘りできて面白いと思うんだけどな〜。

「新天街」の文字も書かれているマッチ

最後に、お店の開店当時に作られたマッチを2個頂きました。

「昔はバーを開くとこんなマッチを作っていてお客さんに配っていたの。電話番号も書いてあるでしょ、お客さんはタバコを吸う人も多いし、これが名刺代わりになるのよ。」

今まで、和歌山の御坊北新地や横浜市野毛などでもマッチをいただいていて、また貴重なコレクションが増えたっす( ´ ▽ ` )ノ

結局お母さんには二時間近くにわたり、この辺の歴史などを聞かせていただきました。とてもいい思い出にもなり、本当にここに取材に来てよかったと思った、新天街取材でした!

おわりに

いつまで灯し続けられるか・・

二時間ほどお母さんに取材対応していただきお会計に。お会計ということで「おいくらですか?」と伺うと、

「お代はいいよ。本当に、大丈夫だから、ねっ。」

と、お母さん。すごく申し訳なくて何度か払うよう伝えたのですが、お代はいいとのことでタダでお店を後にすることになりました。

ほとんどお客は来ないはずだし、お母さんの金銭事情は不明であるものの、本当に大丈夫なのかと心配になってしまった。。もう完全に人情の商売。また甲府にもいい場所ができたな。今回の取材で山梨県は一通り調べきった感はあるものの、今度訪れた時はお土産を持って訪問しなきゃな。

新天街の明かりはいつまで灯し続けられるのだろうか。。令和の時代になっても、こんな場所がまだ残っていて、お母さんに出会えて本当に感謝。ただただ、感謝である。。

参考文献

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詳細・地図

住所 山梨県甲府市朝日5丁目11−13
駐車場 なし
アクセス JR甲府駅より徒歩15分ほど
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