小田原にあった平屋群の私娼窟「抹香町」の歴史に迫った!

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遺構が残る抹香町を散策

小田原駅から15分くらいの場所にある抹香町。今回の記事を書くために計三度訪問しているのですが、どんな収穫があったか、以下に記していこうと思います!

抹香町の入り口

駅から東の方向に歩きまくると到着するのですが、ここがその一画の入り口だったようです。

これは川崎長太郎の小説『抹香町』にも出てくる話なのですが、抹香町の入り口にはかつて「カフェー街入り口」と書かれたネオンのゲートがあったそうなんです。

これ、すぐ近くの善照寺の住職さんに確認したら、「上の写真の場所に昔あったよ!」という証言が得られたので、そのネオンゲートはここにあったそうです。見てみたかったな~。

では、中に入ってみることにしましょう!

当時の面影はまだ残っている

入り口から中に入っていくと、ここは今でもこうした遺構が数軒残っているんですね。家の周囲は木の板で覆われ、明らかに現代の建物ではないですよね、コレ!

1959年の地図を元に作成

そんな抹香町は昔はどんな様子だったのでしょうか。小田原の図書館で一番古い住宅地図が1959年のものだったので、そちらを参考に地図に落とし込んでみました。

ただこれ、四角い赤で書いた旅館は「〇〇家」とか「××旅館」と書かれているものだけをそうしているだけで本当はもっとあったかもしれないです。名字だけ書かれているおうちも旅館だったかもしれないので!

旅館以外にはバーや射的屋さんなどもあり、端には神奈川県小田原保健所もあったそうです。公的な遊郭には定期検診が義務付けられていましたが、こういった私娼窟にも病院があることが多いですからね。

戦後の赤線廃止である1958年の頃は抹香町の小田原カフェー組合は全部で36軒ありそのうち11軒が廃業になっているということで25軒が営業をしていたようですね。

それから60年近くたった現在でもその跡地を探索してみると、、

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㐂世川という屋号が残っていたり、、

あとは石川屋という屋号も残っていたり、、

こちらの平屋はネットで不動産のサイトに紹介もされており、中は「和室4.5畳×5、和室8.0×1、和室3.0畳×2」の部屋があるようです。和室4.5畳が、実際に事が行われていた部屋だったんですかね。

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建物の上部を見てみるとこんなものが残ってました。屋号が書かれた看板が取り付けられていたんだろうか。ちなみに、この建物は「旅館 㐂楽」だったっぽいです。

電柱には「新開地」と書かれてた

ちなみに、電柱には「新開地」と書かれていました。

㐂世川の周囲は木の板で囲まれていてすんごく雰囲気がありますわ。

そう思えば、こんなカラフルは光景も見られたり。。

平屋の家はどれも周囲が木の塀で囲まれており、現在も住宅として人が住んでいるものもあれば、人家もなく空き家になっているっぽいものもありました。こういった平屋が残ってはいるものの、新しく建てられた二階建てのお家になっている場所や解体されて駐車場になっている所も多かったですね。

まぁ現在の様子に関してはここで詳しく紹介しなくても他のサイトでも紹介されていると思うので、全部を載せなくてもいいかな~とは思ってます。

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現役だった頃を知るお母さんに遭遇!

そんな抹香町を散策しているとき、家の前を掃除しているお母さんを発見!

この一画の昔話が聞けるかな~と思って話しかけてみると、なんとお母さんはここに60年も暮らしていた方だったんですわ。抹香町の昔の事を聞くと、いろいろ面白い話を語ってくれました!

抹香町のすぐそばに住むお母さん

お母さんはここの生まれというわけではなく、結婚して嫁いできたようです。今からちょうど60年前に引っ越してきたということなので、それは1959年(話を聞いたのが2019年なので)ってことですね!

引っ越してきた当時、抹香町はメチャクチャ賑やかだったようです。

お母さん:「ここに越して来た時はね、向こうの新開地はすごく賑やかだったの。夕方になると客引きの女の子たちが出てきて家まで帰れなかったのよ(笑)」

私:「女性はどんな方がいたんですか?」

お母さん:「私がいた時はね、奄美大島とか沖縄方面から来た女性が多かったの。そっちの方から出稼ぎでこっちに働きに来てたみたいでね。ドレスみたいなのを着てフランス人形みたいだった。中にはこっちの人と結婚してこっちで暮らした方もいたみたいよ。」

お母さんの記憶によると、こっちに越してきてから数年はそういった光景が見られたという。なので、売春防止法が施行された1958年以降もモグリで続けられていたみたいです。

お母さんの家の前では殺人事件があったり、お母さんの家が抹香町から近いということもあり、ここで遊びたいお母さんの夫の知人が「遊びたいから金貸してくれ!」といって金を借りに来たということもあったという。

まだまだ、お母さんとの話は続く。

女性達が検査を受けていた保健所の跡地

お母さん:「今、ありんこホームっていう介護施設があっちにあるんだけどね、あそこには保健所があったの。そこで女性達が『ろくろく』っていう注射を打ってたって聞いたわ。」

私:「ろくろく?」

六・六(ろくろく)って初めて聞いたんですが、調べてみるとどうやら梅毒の治療薬みたいですね。

お母さん:「あとはね、ヤ〇ザの方もいたわよ。〇〇っていう小田原でも有名な親方がいてね。その方のおうちが新開地にあったの。その親方が亡くなった時には凄い数の花が届いてね。〇〇(超大物歌手・・)とか有名人の方からの花なんかもたくさん届いてたの。」

私:「それだけ賑やかだったら、ここに越して来た時はビックリしたんじゃないですか??」

お母さん:「もうビックリしましたよ。こういう場所に越してくるということで私の親は最初反対してましたからね。」

戦後、新開地は「小田原カフェー組合」と改称して赤線地帯として営業を続けており、『小田原わが街』という郷土史には「1958年の売春防止法完全施行により、抹香町は消滅した。」とは記載されていたそうですが、どうやら実際は違ったようです。

厳密にいつまでここの売春が続いていたかはお母さんも詳しくは覚えていないとのことでしたが、売春防止法後も何年かは続いていたようですね。

お母さん:「当時の建物は全部一階の平屋なの。だから、今建ってる二階の建物は全部新しい建物なのね。もうね、この辺で昔からいる人は本当に少なくなったわね。新しく越してきた方も増えてますし。あそのこ〇〇っていう旅館だったところはまだお母さんが住んでますけどね。もう90歳になるかな。でも、昔のことは話さないかもしれないですよ。」

結局、お母さんは一時間くらい話をしてくれました。この抹香町に関しては、現役だった頃を記憶している方はなかなか見当たらなかったのですが、抹香町のすぐ近くに暮らすお母さんに出会えてよかった(*’▽’)

もうここに暮らしている中で当時を知る方はほとんどいなくなってしまったようですが、1958年以降も数年続いてたのであれば、もしかしたらここで遊んだ記憶がある方も小田原市内にはご存命かもしれないですね。

抹香町で営業を続けるスナック

あと気になるのは、抹香町の中にあるこちらの「スナック 小雪」さんかな~。

今回はお店に伺うことができなかったんですが、ここのママさんにも聞けば何か教えてくれるかもしれませんな。。夜は営業してるみたいなので、今度この辺来た時に入ってみることにしますね!

とりあえず、現地で得られた情報はこんな感じです。あとは、周囲に見られた抹香町の痕跡をちょっくら紹介します。

投げ込み寺と神社の玉垣

抹香町に数軒の遺構が残ってはいましたが、周辺を散策するとそれ以外にも痕跡がちょっと見られましたので、その辺も載せていきますね!

南側にある北条稲荷

こちらは、抹香町から南に行ったところにある北条稲荷という神社。住宅街の中にあるんですが、もしかしたら屋号か小田原カフェー組合みたいな名前が刻まれてればな~と思って周囲を散策してみることにしたわけです!

抹香町の屋号が刻まれていた

とりあえずありったけの玉垣を全部確認してみると、「恵比寿家」「福安」「松竹」「金子屋」「竹乃屋」「一力」「松鶴」などの文字が見られますよね。

この中で「石川家」「福安」「若葉」の三つに関しては、1959年の住宅地図では抹香町に屋号があることが確認できるので、ここに刻まれている屋号は抹香町のお店のものではないですかね!

ちょっとわかりづらい場所にありましたが、こんなところに刻まれていたとは。

関東大震災後に刻まれたようだ

ここの玉垣には、「1925(大正14)年6月建立」と刻まれていました。というのも、これは1923(大正12)年に発生した関東大震災でこの神社が倒壊したため、その後に寄付をした方々の名がここに刻まれているようです。

抹香町のお店も、この神社再建に一役買ったようです。もしかしたら、抹香町で働いていた女性達は度々ここに手を合わせに来ていたのかもしれない。。

投げ込み寺とも言われる観音堂

その他に、抹香町とゆかりのあるスポットとして言われているのがこちら。

これは誓願寺の近くにある大悲閣という観音堂なのですが、このお堂(お寺)は「抹香町の女性達の投げ込み寺」と言われているそうです。東京の吉原遊郭にも浄閑寺という遊女の投げ込み寺と言われているお寺がありますが、それと同じ。

とはいえ、実際に投げ込み寺かは不明とのこと。もともとは『小田原わが街』という資料にそう言った記述があったことで初めて知ったのですが、これが誓願寺の住職さんにも本当なのか聞いてみたところ、「そういう話もあり、断言はできないですけどね」とおっしゃっていたので、あくまでも”説”なんだそうです。。

何でそう言う話があるのかというと、住職さんによると「このお堂、現在は誓願寺の持ち物になっていますが、以前は新開地の場所に建っていたんです。それが、昭和初期の頃に誓願寺の近くに移動してきた背景があり、以前は私娼窟のそばにあったことからそう言われているんです。」ということらしいです。

b地の入り口にあった無縁塔(左)

観音堂の墓地の入り口付近には無縁塔が建てられており、もしかしたら抹香町で働いた方のために建てられたものだった かもしれません。。

おわりに

抹香町に関しては大まかには以上ですかね。とはいえ、色々聞き込みはしたものの当時ここで遊んだことを鮮明に覚えている方に出会うことができなかったんがちょっと心残りではありますが、現役だったのは半世紀近く昔のことなのでそりゃ難しいですかね。。

まだ小田原には何度か伺うと思うので、その時は「スナック小雪」のママさんに色々聞ければな~と思っております!

そしてさっき書いたように、今回は抹香町に関して色々まとめましたが次は「抹香町と川崎長太郎」というテーマでもうひと記事書こうと思います~(*’▽’)

次の記事まで、しばしお待ちいただければと思いますm(__)m

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県小田原市浜町2丁目8付近
駐車場 なし
アクセス JR小田原駅から徒歩15分ほど

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コメント

  1. 元旅館㐂楽の建物の住人 より:

    突然すみません。
    近所の町並みが掲載されていたので拝見させていただきました。
    上から5枚目の不動産屋さんのサイトに載っている建物の前の建物(写真では道を挟んで右に塀だけ写っている)が旧旅館㐂楽です。
    今は2階建ですが元は平屋で2階を後からのせた改築が行われてます。

    • 丹治 俊樹 より:

      ご連絡が遅れすみません。
      そして、コメントありがとうございます。

      まさか、あの㐂楽に住んでいた方から連絡が来るとは!
      なるほど、二階だけ増築したんですね!

  2. 先程の者です より:

    もう一つ気になりましたので。
    地図に書かれてる「きよし」というところのお家は40年前位には「きくよし」さんだったので地図の記載間違いとか印刷が不鮮明だったとかの可能性もあるかもしれません。

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