東京近郊の遊楽地「丸子花街」の歴史を追った!

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戦後に息を吹き返した花街

前ページでは丸子花街の誕生から戦時中までの話をまとめましたが、このページでは戦後からの話をまとめていきますね!

丸子園は太平洋戦争が開戦した直後に日本電気(現:NEC)に買収され、戦時中には1945(昭和20)年4月15日、5月24日の大空襲によって丸子花街の料亭は4・5軒を残して全焼してしまいます。

その後は一時営業を中止していたものの、1945(昭和20)年12月には料亭「花本」が開店し、1948(昭和23)年には営業の許可が下りて花街はまた息を吹き返すことになります。

1960年の丸子花街

戦後の丸子花街はどんな街並みだったのか?

その手がかりとして有力なのが住宅地図。神奈川県立図書館を訪問して一番古い地図としては1960年の物があったので、その地図をもとにして色付けをしてみました!

料亭としては、丸子荘、柳家、㐂久乃家、花本、吉田家、和公、和楽、吉水、さか井、よね家の屋号が確認でき、その周辺には旅館や置屋、あとは丸子見番も見られました。空襲で4・5軒を残すのみだった花街ですが、そこから軒数も増えてまた息を吹き返した様子が見られます。

丸子の芸者の夕涼み(昭和29年頃)
引用元『かわさきのあゆみ』

戦後の花街に関する写真も数枚ですが資料には残っており、『かわさきのあゆみ』には夕涼みをする芸者さんの写真があったりしました。

うちわを片手に笑みを浮かべる芸者さん。視線の先には何があったのかがちょっと気になりますね。扉の右側には屋号が書かれていますが、だいぶ文字が崩れていて何て書いてるか判別ができないのがちょっと残念。。

三業地にあったゲート
引用元『写真アルバム 川崎市の昭和』

さらに、上の写真のような料亭・旅館の屋号が書かれたゲートも掲げられていたようです。いくつかの資料を照らし合わせると、このゲートは少なくとも二箇所にはあったようで、今では残念ながら残っておりません。

1960年の時代には15軒近い料亭が残っており、見番もあることからまだ花街として稼働はしていたようですが、残念ながら丸子花街は徐々に衰退していくことになるのです。

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民間宅地開発が進んだ新丸子

日枝神社が発刊した『丸子山王日枝神社御鎮座千二百年記念誌』には丸子花街の終焉について以下のような記述がありました。

戦後復興して、映画館なども加わったが、やがて法規制があって廃業が続出し、高層マンションなどが建ち並ぶ住宅地に変わった。

丸子山王日枝神社御鎮座千二百年記念誌
すっかり住宅地となった新丸子

神奈川県をはじめとして、日本の大都市圏においては市街地の形成において民間の宅地開発が大きな役割を果たしてきました。中でも私鉄資本は鉄道敷設と沿線の開発をセットで進めてきており、これは日本の宅地開発とインフラ整備の在り方の特徴のひとつにもなっています。

そんな中、芸者を挙げて接待するという時代ではなくなっていき、都心に近いということもあり新丸子は東急電鉄による民間宅地開発が進んでいくことになるのです!

東急は、新丸子以外にも東急沿線の日吉台、綱島、菊名、白楽などを住宅地として造成しましたが、神奈川県でいえば小田急や京急も同様に沿線沿いを民間宅地へと変えていきました。

綱島街道沿いに残っていた看板(昭和51年)
引用元『中原街道と武蔵小杉 -写真で綴る周辺の今昔-』

1960年には複数残っていた料亭も、1976(昭和51)年には一直、丸子荘、伏見の三軒の料亭だけが残っており芸妓は10人に、そして次第にさびれて料亭は新丸子から姿を消したようです。

料亭が残っていたのは40~50年近く前ということもあって、当時のことを記憶している方はずっと地元に暮らしている高齢者のみ。新丸子や近くの武蔵小杉には他所から移ってきた方が多いでしょうから、ココが花街だったという歴史は語られることはほとんどないでしょうな。。

という感じで、丸子花街誕生から終焉まで、資料を漁って歴史を紐解いてみましたが、ざっとまとめるとこんな感じですかね。

花街のことは資料に残っているケースは少ないものの、新丸子は他と比べると割と残っている印象でした。残してくれた先人の方々、ありがとうございます<m(__)m>

おわりに

今回の記事では、丸子花街の歴史に関して図書館を漁って見つけた資料を基に誕生から終焉までをざっとまとめてみました。

大正時代後期から誕生した丸子花街は、戦争を挟んだことで一時休業状態になったもののその後復活し、高度経済成長期ごろからは民間住宅開発が進んで住宅地となって幕を下ろしたわけですね。

ということで、今回の記事はここまでですが丸子花街に関してはまだ続編があります!

当時を知る方に取材してきた

料亭だった建物は皆無だったものの、跡地を練り歩いてかろうじて残っていた痕跡をいくらか発見したのと、当時を知る現地の方に取材をすることもできたので、その情報も放出したいと思います!!

んで、以下が続編の記事になりますので、よかったらこちらもご覧になってみてくださいね〜!

ではでは〜〜

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県川崎市中原区丸子通1の周辺
アクセス 新丸子駅から徒歩5分ほど

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コメント

  1. るいす より:

    屋号は「水車」ですね。

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