利根川水運で栄えた千葉県銚子市の公娼エリア「松岸遊郭」の歴史と現状を追求した!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

スポンサーリンク

実際に現地調査を試みた!

▲江戸までの主要経路だった利根川
松岸遊郭に関してざっと学んだところで、続いては現在の松岸遊郭跡はどんな風になっているかについてです。夜中に自宅の川崎からレンタカーをかっ飛ばして調子に到着し、この近くで車中泊をして翌朝から調査開始っす!!
布団を車に持ち込んで寝ていたため、寒さの心配もなく存分に寝ていざ調査へ!!
利根川から見えるのはこちらの通り。この両側に、先ほど紹介した第一開新楼と第一開新楼が建っていました。では、まずは開新楼の跡地を見てみますかね!

第一開新楼跡に建つ結婚式場

▲第一開新楼跡に建つ結婚式場
松岸遊郭跡は閑静な住宅地になっています。そんな中、一番目を惹くのがこちらの建物。最初は、キリスト教の教会かと思ったんですが、よくよく見てみると結婚式場だったんですね!!
ここは、昔の地図を比べてみると引手茶屋であった青野屋や、貸座敷だった第一開新楼の跡地に建っています。遊郭の跡地が結婚式場になっているとは、何だか世の中の陰の部分方一気に陽の世界に変わった感じ(*’▽’)
そんな結婚式場の奥には、小さな稲荷神社が建っていました。この辺りには小さな神社がいくつかあり、遊郭と何か関係があったのかとふと疑問に。。
▲付近の住人が手入れをしていた
そう思っていたら、この辺の住人であるおばあちゃんが神社を綺麗に清掃し、新しい油揚げ(きつね)を奉納していました。
何か知っているかと思いちょっと聞いてみたところ、「あ~なんでだろうね。この辺は商売をしている方が多いからなんだろうかね~」ということであまり詳しい背景は知らないようでした。

スポンサーリンク

今も現存する第一開新楼の中庭

「松岸遊郭には何も痕跡がない」と思っていたのですが、ここを訪れる前に田中の飲み屋で古老と話していたとき、彼が「そういやさ、松岸って遊郭があった場所でしょ。でも俺びっくりしたんだけどさ、松岸の絵葉書ってあるじゃんか。あの絵ハガキに書かれていた池がまだ残ってんだよな!」とおっしゃっていたんですわ!!
実際に現地を放浪していると、それらしきエリアがありました。その場所はこちら!先ほどの地図を用いると、今は結婚式場が建っている第一開新楼の跡地にその中庭が残っているんです。あえて残したのか、たまたま残したのかはわかりませんが、建物と駐車場に囲まれて今も現存しています。
▲第一開新楼の中庭の一部
その中庭がこちら!
いくつかの石塔が建ち、あとは池とその上に小さな橋が架かっているのが分かります。ちょっと写真だと全体像が分かりづらいですが、現地で見るとかなり風情がある庭だとすぐにわかるんですわ!
建物とか街を歩く限り何も痕跡がないとは思っていたものの、これが残っていただけでもなんか来たかいがあったというか松岸遊郭の歴史に少しだけ触れられた気がしました(*’▽’)
橋に関してはこちらの写真の方が分かりやすいですかね!!奥に橋がかかっているのがわかりますでしょうか??
この中には、今は誰かが管理しているのかわかりませんが、結婚式場以外の建物は民家だったため、ダメもとで結婚式場の方にこの中庭に入れてもらえないかを交渉しました!!
が、結果は予想通り玉砕( ;∀;)
いや~せっかくの名残なので中庭を散策したかったんですが、、。
▲絵葉書に描かれた第一開新楼の中庭
今残っている中庭は、昔はもっと広くて一部が残っているだけだと思われます。絵葉書にも第一開新楼の庭園が描かれていますが、上の絵葉書に描かれている橋は今も残っているあの橋かもしれないですね!

スポンサーリンク

第二開新楼の跡地は駐車場に・・

▲第二開新楼があった駐車場
一方、こちらは第二開新楼があった場所。今ではすっかり駐車場になっており、遊郭があった痕跡は一切残っていないようです。ここには、東日本大震災までは青野屋旅館という温泉旅館が建っていました。
元々、第二開新楼は1941(昭和16)年1月15日に銚子市から鉱泉水の成分分析を受けました。青野屋旅館はこの時に掘られたラジウム泉を温泉として利用していたそうです。
東日本大震災の後に青野屋旅館は廃業、その後は解体され今ではその名残は残っていません。。
駐車場の奥であり、青野屋旅館が建っていた場所にもまたまた鳥居が建っていました。
鳥居の近くには、こんなものがありました。井戸ですかね。第二開新楼跡地の場所にあるため、遊郭で使われていた生活用水はここから確保されていたのかもしれません!!

住宅地になっており痕跡はほぼ無しorz

その他の場所は普通に住宅地になっていて、特に遊郭に関係ある痕跡は残っていないようでした。。
▲異様な外観のうなぎ屋さん
この建物、一階と二階が完全に別物になっていて悪魔合体したかのような造りになっていますが何があったんだろうか。こちらは石毛川魚店といううなぎを販売しているお店でしたよ!販売であって、持ち帰り専用で飲食店ではない感じでした。
最初は遊郭に関係があった建物かと思いましたが、この場所には第一開新楼も第二開新楼もなかったようですし、遊郭の時代の後に建てられたものではと思われます。お店の人に何か聞いとけばよかった。。( ;∀;)
あとは、木製の電柱が建っているのが珍しいな~と思ったくらい。。
そんな感じですかね。その他にも、何人か周辺のお店の方とかに話は聞いたものの、ここは今現在スナックやバーなどの飲み屋があるわけでもないですし、1941年に遊郭の解散式を行って以降は売春としては終わりを告げていたようです。
なので、当時の様子を知っている方もいないですし聞き込みをしてもそれほど新しい情報が出てこないかな~と思い、松岸を引き上げることにしました。

おわりに

今はほぼ痕跡はない松岸遊郭の跡地。現在は大きな結婚式場が建ちつつ、閑静な住宅街になっています。何人かの方に聞き込みはしたものの、遊郭だった頃の話は知らないという方がほとんどでした。本当に知らないのか、知っているけど語らないだけなのか。。
銚子の街は「第二の夕張」ともいわれ、お隣の茨城県神栖市に人が流れており先行きが良いとは言えない状態。。今は、田中も外国人スナックがほとんどで、賑やかだったのはもはや過去の事。
現在、松岸遊郭の跡地に暮らす方々は年配の方が多いということもありここが遊郭だったということをご存知ではあるようです。でも、住民たちからもここが遊郭だったことが忘れ去られるのはそう遠くはないのでしょうか。。

参考文献

↓よければクリックをお願いします

詳細・地図

住所 千葉県銚子市松岸町1丁目辺り
アクセス JR松岸駅から徒歩10分ほど
↓↓twitterもよろしくです
※ほぼ毎日つぶやき中
こちらの記事もどうぞ!
この記事も読まれてます!
関連コンテンツ
関連コンテンツ



  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント

  1. あずき より:

    今晩は。30年前家系図調査士と言う勉強を
    しました。先祖供養したくても銚子へ行けな
    かった。銚子は父方の先祖が住んでおられました。
    江戸時代などの情報はなかった。
    一番遇ったのは第二次世界大戦で空襲でなんかも
    消えてしまいました。市役所に納まった除籍謄本
    が燃えてしまった。改制謄本なので悔し涙です。
    山梨県山奥なら空襲遇わなくて古い物があります。

  2. イシゲ より:

    こんにちは
    興味深く拝見させて頂きました。

    この場所に同級生がアパートとして間借りしていましたので何度か遊びに行っていました。
    アニメの千と千尋の神隠しを見る度に当時を思い出します。まるで小学校時代に見た光景と同じ!って
    外から見上げる外観は、木造で3階建、手すりが付いた部屋が並んでいた。
    (昭和40年頃は木造3階はここだけでした)
    建物の中は中庭があって、中庭を囲むように配置された幅広い廊下。中庭には井戸もあり、その廊下の周りに配置されている部屋は幼いころの不思議な光景として残っています。

    当時から”ゆうかく”と呼んでいましたが、小学生の頃は<遊郭>という漢字も意味も
    分からない歳でした。
    今、残っていたなら聖地になっているのでは?と思えるほどです。

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です