小田原花柳界の栄枯盛衰を調査すべく宮小路の花街跡へ!

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小田原を支え続けた花柳界

松原神社で撮られた芸者さんの写真

江戸時代後期から芸者がいたと考えられる小田原。先ほども書いたように多くの著名人や文士の方々が暮らしたこと、さらには小田原漁港のブリ漁師たち、根府川や早川辺りのミカン農家、かまぼこ業者の方々などが芸者遊びを楽しんでおり、それによって宮小路、小田原の花柳界は繁栄していたようです。

あと、横浜からも生糸関係の方が宮小路で芸者遊びをしてもいたそうです。横浜にも花街は数か所ありましたが多くが戦後には姿を消したようだしな~。

ブリ漁に関しては、昭和30~40年代にかけては特に豊漁だったようで、大量に獲れた日は毎晩のように芸者を呼んではどんちゃん騒ぎを繰り返していたという。

昭和8年に発売された小田原音頭

民衆詩派の詩人である福田正夫は、昭和8年に小田原芸妓屋組合の依頼で郷土紹介の「小田原音頭」を作詞して、一流の芸妓がパーロフォン・レコードに吹き込み、4月20日に発売。この音頭は小田原の復興の一役にもなったそうです。

戦後、宮小路が賑やかだったのは1960年頃だった記憶があると神社の方が教えてくれました。旧東海道が通っていたこともあり、まだ警察署などの役所関係が宮小路近くにあったので、その関係の方々、それからブリ漁で儲けた漁師、さらには早川などのミカン農家の方々が、まだ飲酒運転が厳しくない時代だったこともあり、車で飲みにやって来たそうです。

芸妓さんは、よく箱根の方まで遠出をしていたそうで、老舗の環水楼旅館や奈良屋旅館への遠出が多かったそうです。

そんな宮小路では、行事やイベントなどもいくらか行われていました!

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芸妓さんの手古舞姿

1月には松原神社の祭礼、2月には節分が盛大に行われ、小田原駅が開業したり丹那トンネルが開通した時には手古舞(てこまい)姿で、三業組合が揃って唐人町付近から宮ノ前町までを練り歩くイベントもあったそうです。

手古舞とは「山車の先頭に立って町を練り歩くイベントのこと」で、三業組合の旦那衆(特に枡金の旦那さんが熱心だったとか)、小田原市の観光商業担当の部長も積極的に参加し、行政・組合揃っての一大イベントでした。

芸妓の手古舞姿は、左手に金棒、右手に扇子、背中に花笠と肩に豆絞りの手拭いをかけ、頭は男髪カツラをかぶっていました。三業組合で揃って唐人町付近から宮ノ前町までを練り歩き、所々で、鳶の木遣りと共に踊りを披露したものです。

宮小路は年中無休で、12月31日は午前2:00まで店を開き、朝に美容室、そして大雄山に初詣、そして午後からは平常営業をしていました。しかし、昭和35年頃からは毎月21日を休日とし、芸妓さんたちはこの休日を毎月楽しみにしており、よく買い物に出かけ、特に着物にお金を注ぎ込んだそうです。

一番ブリ漁が盛んだったのは1月から2月ごろで、昭和三十年頃からの十年は凄かったため、毎晩のごとくどんちゃん騒ぎ!

そんな賑やかな時代があった宮小路ですが、昔みたいに著名な財界人や文化人がいなくなってしまったり、ブリも漁獲量が少なくなっていき、さらには町の中心が小田原の駅方面へと移動していくことで、次第に宮小路の街は閑散となっていくのです。

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閑静な飲み屋街になった宮小路

閑静な宮小路の夜

そんな宮小路でしたが、現在の土曜日の夜はこんな感じ。金曜の夜の方が人は多いのかもしれないですが、飲み屋はそれなりに開いているものの人通りはほとんどないような状態でした。

とはいえ、飲み屋からはカラオケが聞こえたりしたのでお店の中にはお客入るのかもしれないですけどね。。

賑やかだった宮小路から人がいなくなった理由としては、主に以下の五つが挙げられるかな~と思ってます!

宮小路が衰退した理由
  1. 別荘ブームでやってきた著名人たちがいなくなった
  2. ブリ漁の漁獲高が落ちた
  3. みかん農家の衰退
  4. 町の中心が駅方面に移った
  5. 市役所や警察署などの役所の移転

いくつかの資料とか地元の古老の声を合わせたらこんなかんじになるかな~と。上の章でも書いたように、ブリが捕れなくなり町の中心も移り、さらには根府川辺りのミカン農家も後継ぎがいなくて、かなり農家人口も減っていると聞いてます。。私の親戚にも、実家がミカン農家の方がいましてね。

あと、数をグラフにしてみたらどんな感じになるかな~と思ってグラフにもしてみました!

という資料には、県統計書の「警察の取り締まりに関する諸営業」の小田原警察署の分、『小田原町要覧』『明治小田原町誌』の資料を元に作ったグラフっす。
小田原署管内では、明治30年春に塔の沢(箱根)、34年8月に国府津、大正3年には宮の下(箱根)に花柳界ができたこと等で、小田原以外の数値も含まれているんですけどね!

芸妓の数としては、第一次世界大戦時の好景気を反映して大正7年に200人を超え、大正9年には300人になり、関東大震災後には100人、昭和の戦時下には100~200人台で推移しています。

グラフを見ても、何となく1923年の前まで伸びてきたものの、関東大震災以降は横ばいになっている様子が見られるかと思います。

昭和40年頃の宮小路マップ
引用元:『わが街 小田原』

かつてはここにト〇コ風呂もあったようで、『わが街 小田原』に載っていた昭和40年ごろの地図にも「宮小路ト〇コ」の記載がありますね。しかし、「宮小路ト〇コ」って名前そのまんまっすな。。

小田原唯一のヘ〇ス

そのトルコがあった場所が今どうなっているかというと、なんとファッションヘ〇スとして今でも営業しているようでした。最初、この建物を見た時はラブホテルだと思っていたんですが、ヘ〇スだったんですね。

このお店は西湘唯一のヘ〇スということのようです。個室に湯船も付いているとのことで、トルコの建物をそのまんま使ってるんじゃないっすかね~。

玉垣に残る「宮小路トルコ」

ちなみに、そのトルコのお店は近くの松原神社の玉垣にも残っていました。ト〇コ風呂の名前がこうして玉垣に残っているのは初めて見ました( ;∀;)

他にも、探せば見つかるものなのでしょうか。。

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創業明治26年の料理店「だるま」

明治26年開業の料理店「だるま」

松原神社から少し北へ行ったところに、だいぶ厳つい建物が見られますが、これが創業明治26年の老舗料理店の「だるま」でございます。今でも営業が続けられ、気軽に飯食うこともできますし、個室で接待とかもできるお店なんですわ。

私はここでちょびっと昼飯を食って、女将さんに二階を案内していただいたくらいなのですが、ここもかつては宮小路の芸者さんたちが訪れたお店であり、今でも要望があれば箱根から芸者さんが派遣されて来るそうです。箱根ってまだ芸者さんいたんですね( ̄▽ ̄ 😉

館内は見所がたくさん!

このだるまは、二階に行くとコウモリの意匠や太鼓橋など素晴らしい作りが残っておりました。私が訪問したのは土曜のお昼でしたが、店内は個室も大広間も超大盛況状態でした!

一人で訪問したのですが、ご飯を食べ終わった後、従業員の方からだるまの歴史を聞かせていただいた時に二階もちょろっと見せていただくことが出来ましてね!

今回はササっと見る程度でしたが、次訪問した時には二階をじっくり鑑賞したいものですわ。昔の儘の部分も多く、目を凝らすと面白い造りをしている箇所がたくさんあるんじゃないかな~と期待しております(*’▽’)

小田原沖でのブリ漁

このお店の初代の方は石川県の金沢出身の方なようで、建物自体は関東大震災でだいぶやられたそうですが、ここは網元(つまり漁師)だったこともあり、ブリ漁で儲けた金で建物を修復して今に至るそうです。

上の写真は1935(昭和10)年頃の写真で、このころは沿岸まで鰤(ブリ)が押し寄せていたようで、そのまま浜に水揚げしていたそうです(*’▽’)

一般開放している一室

街かど博物館として一般の方にも見ていただけるスペースまで残っているのです。

川崎長太郎が使っていた火鉢

この部屋の奥に置かれている火鉢は、抹香町の小説を書いたことで知られる川崎長太郎さんが使っていた本物。川崎長太郎は、ここのちらし寿司が大好きで、川崎長太郎に出す物は「川ちら」という名まで付けられていたそうです。

ごま油が効いた天ぷらは絶品だし、お店の方もすごく親切なので小田原に行ったら一回は訪問したい老舗。これからも、小田原の歴史を語り続けるべく残り続けてほしいお店っす!!

花街の名残は所々に残る

そんな「だるま」以外にも、花街の頃の名残をかろうじて残しているようです。

風情ある雰囲気の『清風楼』

まずはこの清風楼。青物商店街の方からの入口は普通の割烹料理屋さんといった雰囲気ですが、裏側は松の木もあってめっちゃ風情ある光景!

多分元々はここが入口だったと思いますが、現在はこっちは夜になると明かりはつくんですが使われていないっぽかったです。料理店の鑑札も見られ、かつての雰囲気を残している貴重な場所でしたよ!

ここはまだお店に突撃できているわけではないので、機会があればここで飯食って話も聞いて、さらによければ建物の中も見せていただければ嬉しいです!

うなぎ料理の老舗『柏又』

あとは、ここ。明治初期の創業ということで柏又(かしまた)というウナギが名物のお店のようなのですが、ここもかなり和な感じのつくりで二階なんて特に見所がありそうな建物。かつて「電力の鬼」といわれた松永徳左衛門や菊池寛の書などもあるようで、こりゃ今度行かねばならぬ!

料理店の鑑札が残る飲み屋

あとこのお店もちょっと気になる。。

小料理「夕月」というお店、1959年の地図にはなかったのですが1966年の地図には載っていたので、50年以上は営業を続けているお店のようです。この店、GoogleMapでは廃業となっているのですが、私が夜通ったら明かりがついていたので今でも営業しているようなんですよね。

昔は芸者さんを連れてここで飲んだりしていたのかしら??

屋号が残るビジネス旅館

こちらのビジネス旅館「かねこ」さんは、元々は待合・料亭だったようで、今でもビジネス旅館としてそのままの屋号で営業しておりました!

現存する風情ある建物

こういった料理店以外にも、小田原には昔の建物が本当にたくさん残っているので私にとっては見所がありまくりで困っちゃうくらいうれしい限りです。私が住んでいる川崎や一番歴史を調べている横浜とかは街中にこのような昔の建物はほとんど見かけなくなってしまったので。。

続きはこちら!現在はフィリピンパブがちらほら・・
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