日本三大中華街の1つである神戸「南京町」の歴史や今を調査してみた!

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南京町の歴史に迫る!

南京町をうろついたわけですが、ここからは南京町の歴史に関して触れていきたいと思います。南京町は戦後に米軍などが訪れ外国人バーが立ち並ぶ今とは違った雰囲気の街であったり、阪神淡路大震災を乗り越えたりと、色々な物語がある街であるのです。
そんな色々な歴史に関してを紹介していきたいと思いまっス!

明治・大正時代の南京町

南京町周辺には多くの中国人が暮らすようになったのだが、そもそもその原因は何なのか??
神戸港が開港したのは1868年のこと。同じ中華街がある横浜は1858年に開港しましたが、長崎もそうであるように日米修好通商条約によって開港した港ですね!
最初は出稼ぎのために、華僑の3/4が男性であったという。上の写真のように現在の南京町の周辺には「居留地」「雑居地」があり、居留地に暮らしていたのは日本と友好関係を結んでいたオランダ、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツなどの国々の方で、中国人の方はここに住むことができず雑居地に住むことになった。また、華僑は居留地に住む欧米人家庭の使用人や貿易に従事する方が多かったことで、港に住むのに好都合だったのだ。
▲明治・大正頃の南京町配置図
ちょっと文字が小さすぎてスマホだと見づらいと思いますがすみません。明治や大正の時代の南京町はこんな感じだったようです。上図に写っているは、現在の南京町の中でも南京町広場の東側の部分。
そして南京町は、もともと中国人ばかりがいたというイメージがあるが、元々は日本人経営の店が2/3であり、華僑が経営するお店は1/3だったようです。そんな感じで中国人と日本人が力を合わせることで街が成り立っていたのです。
この時代の南京町の中でも、日本人経営のお店は東側、華僑(中国人)経営のお店は西側に構える傾向があり、お店に関しては日本人の店が「食料品店」「鞄店」「下駄屋」「金物屋」「畳屋」「印刷屋」などを営んでおり、中国人の店が「飲食店」「雑貨店」「漢方薬品」「豚肉屋」「菓子屋」などを扱っていた。
現在の南京町は午前中から夜まで営業しているものの、当時の南京町は朝に活気があったようだ。日本人が主に仕切る感じで、品質の良い生鮮食品を求めて賑わっていたようだ!

外国バーが立ち並んだ戦後の時代

太平洋戦争が終わると、その後1950年に朝鮮戦争が勃発します。神戸港はアメリカ軍によって占領されていたこともあり元町周辺には多くの外国人が訪れるようになりました。すると、今では沖縄県で米兵が何かやらかすとニュースに取り上げられるように、元町でも市民が暴行を受けるなどの被害が増え、外国人たちの憩いの場となる外国人バーが立ち並ぶようになるのです。

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▲かつては外国人バーが立ち並んでいた「うなぎ横丁」
写真はうなぎ横丁という1947年開業のうなぎやさんがある今の中山街の通り。ここも戦後は外国人バーがあった通りなのだそうです。戦後は外国人バーがあっただけではなく、客引きの娼婦いわゆるたちんぼが現れる、バーで飲んだ外国人が酔ってけんかを始めるなど、街の治安は悪化していくことになります。
周囲からは「あの街は危ないから、近寄らない方がいい」というように周囲から敬遠されるようになったという。
うなぎ横丁のそばで、横文字を見かけた。
ただ、今現在は外国人バーのようなものはないです。うなぎ横丁の通りには中華料理店はないものの飲み屋的なお店がいくつかありました!当時の面影は今では残ってないのですね・・。
今ではカップルや観光客などで賑わい、危険要素はみじんも感じられない町なため、本当にそんな町だったのかと疑ってしまうほどです。
ゴミ箱の蓋でフリスビーをしたり、やくざの事務所が出来たり、売り上げを鷲掴みで盗まれたり。。そのため、多くのお店は店をたたみ南京町を離れていくことに。商売にならないのである。。1960年頃の外国人バーが多かった時代は、現在の南京町の北東側つまりうなぎ横丁があるあたりに多く集中していたようだ。まぁ当時はまだ今の南京町の西側は中華街になっていなかったのですがね。。

アメリカ軍撤退、新たな街づくりへ!

外国人バーが立ち並び周囲が敬遠する街であった南京町でしたが、1974年6月には神戸港は全面返還。アメリカ艦船の姿も見なくなり、外国人バーが立ち並ぶ時代も終わりを告げました。しかし、多くのお店がたたんでしまい活気が失われている状態。
ここから、今現在のような南京町のような街のように活気を取り戻すようになります。まずは、1972年に日中国交正常化にともなう「中国ブーム」がおこったこと。そして70年代半ばに「南京町を考える会」が結成。
その後には、「南京町商店街振興組合」が結成され、最高や観光地化が着実に進んでいくことに。この時は、中国人関係者が2割で、8割近くが日本人でした。中華街だけあって、ほとんどが中国人によって町が作られていると思いきや、日本人の割合が多く、日本人と中国人が力を合わせて街を作っていったです。

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阪神淡路大震災を乗り越えて

▲野島断層保存館の震災時に発生した実際の断層
1995年1月17日5時46分。阪神淡路大震災が発生、高速道路が横倒れになったシーンは多くの人々に衝撃を与えたのではないでしょうか。そんな阪神淡路大震災は、神戸市に位置する南京町も多くの被害を受けました。。。建物全壊が8棟、半壊・一部損壊は全体の5割に及び、南京町の東側の入り口に位置する長安門も半壊したのです。
震災後は電気や水道が比較的早く復活したこともあり、震災直後に炊き出しを行い無料で被災者の方々に食べ物を提供しました。元々は震災後の1/31は春節祭を行う予定で当でしたが、震災直後ということで炊き出しをして食をふるまったのです。
それだけではなく、横浜中華街や長崎中華街からも支援協力がなされ義援金が集まったりもした。震災という自然災害によって町が被害を受けたものの、多くの人とのつながりによって町は徐々に復興に向かって行ったのです。
また、阪神淡路大震災が起こったことがきっかけで、南京町商店街振興組合ではその後に起こった台湾大地震(1999年)、中国四川省の大地震(2008年)、そして東日本大震災の際にも被災地支援に取り組んでいます。
▲震災時にお風呂を無料開放した福原のソープ街
そして、街のつながりでいうと兵庫県にある一大ソープ街である福原も例外ではない。ソープ店という風俗業界のマイナスイメージもあってか、マスコミに取り上げられることはあまりなかった話ではありますが、阪神淡路大震災で被害にあったことによりお風呂に入れなくなった方々に、無料で浴室を解放したという話。
震災という困難な状況に陥った時に、風俗業界と街の人たちがつながった瞬間だったのではないでしょうか。

南京町の今

現在の南京町は華僑と日本人経営は1対1で半々のようです。街にある商店のうち南京緒商店街振興組合に加盟しているのは全体の2/3であり1/3が非加盟であることからこれらの店舗も含めてより一丸となって街を発展させていく必要があるようです!
HPを見ると、現在は南京町広場で野菜の直売なども行われているよう。そして一番のイベントとしては旧暦の元日に当たるお祭りの春節祭ですかね。私もこれはいってみたい!記事を書いていてもまだまだ南京町に関しては学べることが多いようです。

神戸華僑歴史博物館

▲神戸華僑の歴史が学べる「神戸華僑歴史博物館」
南京町の南側、国道二号線沿いにあるKCCビル(神戸中華総商会ビル)の2階に、神戸華僑歴史博物館という博物館があります。1979年にオープンした博物館で、神戸華僑の経緯や華僑社会の発展に関して学べる博物館です。
博物館はこの1室のみ!だいぶこじんまりとしていて、私が訪れた際はお客さんは誰もいなかった。ここにきて南京町に関して学ぶと、より南京町を面白く感じられると思うんですけどね~ほとんど知られていない博物館のようなのでなんかもったいないな~と・・。

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おわりに

いかがだったでしょうか?記事長すぎ??(笑)
こういう背景を知って街に行くと、また違った見方になるような気がしています。今回の記事を書くにあたっては書籍を読み漁ったり、神戸華僑歴史博物館を訪れた際の資料を参考にしていますが、やっぱり関係者の方からじかに話も聞いてみたいっすね。
今後も南京町が中国人と日本人双方の協力のもと街が存続していっていただければいいですね!関西遠征の際にまた行ってみようかな~!

参考文献

詳細・地図

住所 兵庫県神戸市中央区栄町通1丁目1−3−18
駐車場 なし(周辺にコインパーキング多数有り)
電話番号 078-332-2896
アクセス JR神戸線・阪神電車「元町駅」下車、徒歩約5分。
「阪急神戸三宮駅」下車、徒歩約10分。
地下鉄海岸線「旧居留地・大丸前駅」下車、徒歩約2分。
リンク http://www.nankinmachi.or.jp/
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