三度の空襲を受けるも奇跡的に残り続けた戦争遺構「戦災変電所」に秘められた背景とは!?

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

今回は東京都東大和市にある戦災遺跡に関する記事になります。

東京都というと渋谷とか新宿とか東側のイメージが強いかと思いますが、今回は東京の東側にある東大和市にある遺跡に焦点を当てる形になります。

その遺跡は『戦災変電所』という建物で、現在は公園内にあるものの外壁は機銃掃射に打ち込まれまくった弾痕がそのまま残っており、かなり異様な雰囲気を放っている建物になっているんですね。

今回は知り合いのツテで、開放日でない日に特別に開放していただいて取材することが出来たので、戦災変電所はいったいどんな建物で、どのような経緯を経て今に至るのか。その辺を以下で書いていきたいと思いまっす!!

本記事のポイント

・戦災変電所には、機銃掃射による無数の弾痕が残っている
・かつては、少年飛行兵の練習機「赤とんぼ」のエンジンを作っていた
・地元民や東大和市長の尽力のおかげで、今でも建物が残る

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知り合いのツテで特別に取材を!

戦災変電所の位置

戦災変電所があるのは東京都東大和市なんですが、この東大和市という場所、恐らく首都圏に住んでいる人でもピンとこない人は多いんじゃないですかね??

東京の西側というと、三鷹とか立川、あとは八王子とかなら知られた地名ですが、それ以外だと都民でも「東大和市?どこやねん??」って方は多いような気がしますがどうでしょうか??

戦災変電所があるのは、立川駅から北側にある玉川上水駅から歩いて10分ほどの場所。

で、今回はいつものように私一人で取材に行ったわけではなく知り合いのツテで取材できたという背景がありましてね!

福岡県の大刀洗レトロステーション

というのも、以前に福岡県にある大刀洗レトロステーション(旧大刀洗平和記念館)を訪問した時、偶然にも陸軍少年飛行兵を調査している鳥取県在住の女性の方と知り合う機会がありまして!

んで、その方が戦災変電所を管理している方と知り合いで、彼女が戦災変電所をいつもの公開日でない日に訪問する集まりを企画したということで、それにご一緒させていただいたって次第っす(*’▽’)

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生々しい傷跡が残る戦災変電所

戦後に公園になった東大和南公園

そんな貴重な機会をいただいたということで、凄く蒸し暑かった9月の休みの日に玉川上水駅へとやって来た私。東京の西部は結構久々に来たな~と思いながらも駅から10分ちょい歩いて戦災変電所がある東大和南公園に到着!!

早速グループに合流して戦災変電所の見学へと繰り出すことに!

無数の弾痕が残る戦災変電所

そんな公園の中にある戦災変電所がこちら!

普通の子供たちが利用する公園に突然こんなものが出現するってこともあり、存在感が半端ないっすわ( ;∀;)

表面は傷跡が痛々しく、終戦から74年近くもよくもまぁこのまま生き延びてきたことですわ。

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今回の集まりでは、太平洋戦争関連に関心を持つ方々がもちろん多く、中には父親が元陸軍だったという方も。早速皆それぞれ自己紹介したあと、建物の中へと入ることに!

入り口も雰囲気あるわ~。

・・・

「関係者以外立ち入り禁」・・・

・・・

“止”はどこいった??

内部は外観に比べて綺麗

中はそんなに広いというわけではないですがこんな感じ。中央には写真や解説のパネルが展示されており、外観とは違って中は結構修繕されているみたいですね。外に比べて綺麗(*’▽’)

ちなみに、この建物は二階建てではありますが、二階は老朽化により立ち入りは禁止。。

このダクトとかはそのままなんかね。当時のままのものはまさに廃墟とかで見るような雰囲気。。歴史を感じますな~。

建物の中も空襲でやられた跡が残っておりました。

この部屋の雰囲気はなかなか

一階にはメインの大広間以外に、このちっこい部屋もあるんですがここは壁全体が凄まじい雰囲気ですね。中央には何か展示されているんですがこれが何だったか忘れてしまいました。。( ;∀;)

いや~写真撮影に夢中になりすぎてこの物体について質問するの忘れてしもうたわ。。

内部はそんなに広くもないので、ざっと雰囲気を紹介するとこんな感じですかね。ではでは、ここからはこの発電所の背景に迫ってみることにしましょう~!!

何もない平地に巨大工場が誕生!

解説していただいたNPOの方

今は東大和南公園内に廃墟と化した状態で残る戦災変電所。そもそも、この変電所は日立航空機立川工場内にあったわけですが、まずはその工場がどんな工場なのかってのが気になったので、その背景から説明したいと思います!

戦前の立川市周辺
※「今昔マップ on the web」を元に作成

上の地図は、厳密に何年の地図かはわからないんですが立川航空ができる前の地図。このころは周辺は何もない原っぱだったわけですね。ところがどっこい、立川飛行場(立飛)や所沢にも飛行場があったことから、東京の多摩地域というのは中島飛行場を代表するように航空機の軍需産業がたくさんあったエリアでした。

そんな背景もあり、1938(昭和13)年に東京の大森の方から東京瓦斯が大和村(現東大和市)に移転してきて、国の政策によりもっと資本力をつけるということで日立と合併して立川航空となりました。

立川工場の拡張計画図

大和村に移転した工場は、ドイツで利用されていた理想的工業都市ジードルング構想を参考にしていたそうです。上にある図は館内にあった立川工場の拡張計画図っす。

実際には空襲もあったことで計画図通りにはいきませんでしたが、「田園生活こそ国民の日夜の活動力の源泉であり、健全なる家庭の営まれる聖地である」という考えのもと、工場や社宅などの街づくりが行われたそうです。

事実、大和村移転前の大森というと、当時は海岸が埋め立てられる前で風光明媚だったことや源泉が湧いたこともあり、大井町三業組合や大森海岸三業地などの花柳界が多かった地域。なので、そこはこの構想には適していなかったんですかね。。

この工場は、最盛期には13,000人が働いていた大工場でした。当時ここで働いていた社員の様子など、その辺の情報はそんなに今調べられてはいませんが、工場内の写真なんかも館内には数枚ではありますが展示されていましたヨ!

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立川工場では何を作ってたの?

工場では飛行機のエンジンを作っていた

そもそも、この変電所があった立川工場では一体何を作っていたのか?

1938(昭和13)年では陸軍航空本部納入の小型空冷発動機を生産していましたが、これは日立航が日立製から独立した時そのまま引き継いだもの。1942(昭和17)年には1,000馬力級の発動機の生産に着手し、1945(昭和20)年には、2,500馬力級を数基製作していました。

ちなみに、”発動機”という言葉は聞きなれない方がいるかもしれませんが、「発動機 = エンジン」 ということで作っていたは簡単に言うと飛行機のエンジンっす。

1943年4月以前の生産記録は空襲により失われたましたが、同製作所は1943年には日本の総生産量のおよそ6%を、1944年には5%を生産したましたが、1945年には生産低下し日本の総生産量のわずか3%を超えるに止まることに。

日立航空機の工場は、立川(大和村)、大森、羽田、千葉の四ヶ所あり、それぞれエンジンや機体などを製造していましたが、一番大きく生産性を上げていたのは大和村の立川工場でした。そして、「日本の総生産量のおよそ6%」とあるように、日立航空機は戦時中、中島飛行機や三菱重工業、川崎航空機、立川飛行機、愛知航空機に次ぐ航空機メーカーだったことがわかります。

赤とんぼの模型

また、立川工場では”ハ−13甲”という発動機を主に製造していましたが、これは通称「赤とんぼ」と呼ばれた陸軍の複葉練習機のエンジンでした。オレンジ色が目立つ木と布でできたシンプルな機体ですが、操縦性に優れ、日本の操縦士のほとんどがこの「赤とんぼ」で訓練を重ねた傑作機と言われています。

日立航空機立川工場ではそのエンジンを製造して、隣接する立川飛行機で組み立てられ完成品となりました。そして、「赤とんぼ」は全国の飛行兵訓練施設や航空隊に運ばれ、その役割を発揮してたんですね~。

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