三度の空襲を受けるも奇跡的に残り続けた戦争遺構「戦災変電所」に秘められた背景とは!?

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三度の空襲により大打撃を受ける!

日本本土が初めて空襲の被害を受けたのは、1942(昭和17)年4月18日のドゥリットル空襲でした。指揮官の名前をつけたこの空襲は、日本軍による真珠湾奇襲攻撃に対する報復として行われたもの。

そして本格的な空襲としては、1944(昭和19)年11月24日のB29戦略爆撃機88機による東京多摩地区に対するもので、日本の戦闘機製造の要となっていた中島飛行機を狙ったものでした。

長崎原爆資料館の内部

その空襲以降、全国の400を超える大都市から市町村に至るまで空襲が行われ、1945年3月10日の東京大空襲や、8月6日広島と8月9日長崎への原爆投下を含めて、95万人に上る死者を出すことになります。

そんな中、日立航空機立川工場に対する空襲は三度記録されています。文章で書くとまとまりづらいと思うので、以下のように箇条書きでまとめてみましたよ!

日立航空機立川工場への空襲
一度目の空襲
日時:1945(昭和20)年2月17日
従業員76名が、防空壕が潰れたことによる窒息死などで死亡。工場の30%が破壊されたという。変電所は工場の主要目的ではあったものの、西隣にあった三本の煙突のおかげで傷だらけになりながらも生き残った。
二度目の空襲
日時:1945(昭和20)年4月19日
戦闘機のP51(ムスタング)三機による通り魔的な空襲だったようで、5名ほどの犠牲者が出た。
三度目の空襲
日時:1945(昭和20)年4月24日
B29爆撃機101機による爆撃であり、250kg爆弾を1,804個も落とされ日立航空機立川工場は壊滅することになる。犠牲者は27人。

この中でも三度目の空襲は、450発の爆弾が敷地内に落ちて100発が建物に命中。工場の50%が壊滅して、徹底的修理を施さなければ再稼働は望めない状態になりました。

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謎が多い機銃掃射の弾痕

この変電所にもそれによる傷跡が残っているわけですが、実はこれらはどの空襲による被害なのかは未だにわかっていないという。。当初は爆弾の跡だったと語り継がれていたそうですが、実は最近、専門家に見てもらうと爆弾ではなく大半が機銃掃射の跡だということがわかったそうです。

階段に残る機銃掃射の跡

館内にもその痛々しい傷跡は残っており、特に顕著なのが階段の手摺りを弾が削った跡ですかね。

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これだけリアルに残っているわけですが、これが74年前に負った傷ですか。。この状態で74年もそのままの状態で残っているのが凄くリアル。。

見事に貫通した穴も・・

会社がコロコロ変わる・・

戦後は、日立航空機立川工場は賠償工場に指定され、財産管理人である日興工業の所有となって再スタートを切ることになります。使用できる工場を使い、平和産業として編み物機、靴下編み機、空気入れ、鍋、ミシンの台など様々な製品を作っていましたが、屋根瓦の代わりになるスレートが大好評で日興スレートとして販売。従業員の大半は旧日立航空機立川工場で働いていた人たちであり、小型エンジン造りはまさに得意分野でした。

その後、日興工業は企業再建整備法により東京瓦斯電気工業を名乗り、その四年後には富士自動車と合併して富士自動車株式会社になるも、1973(昭和48)年にはゼノア株式会社に移り変わり、その六年後の1979(昭和54)年には最後の企業となる小松ゼノアに生まれ変わります。

そんな感じで、管理する会社がまぁコロコロ変わっていたようなんですね。。文章だとわかりづらいのでその変遷をまとめると以下のようになります!

会社の沿革
日立航空機株式会社
設立:昭和14年5月15日
日興工業株式会社
社名変更:昭和21年6月10日
東京瓦斯電気工業株式会社
設立:昭和24年8月31日
※企業再建整備法による新会社として設立
富士自動車株式会社
昭和28年5月1日に富士自動車と合併
ゼノア株式会社
社名変更:昭和48年1月1日
小松ゼノア株式会社
社名変更:昭和54年10月1日
小松部品株式会社と合併

東洋陶器の洗面台

そんな感じで戦後は使われていたわけですが、管理会社が貧乏であり修復には新設する以上の苦労と月日を要することから、結果的に傷だらけの変電所の生き残りにつながることになりました。

このボロボロの洗面台は、いつごろ作られたかは不明ですが1960年代以前に作られたと思われるもの。

戦後に起こった熾烈な跡地争い

大和空軍施設返還国有地処理大網(案)見取図

太平洋戦争が終戦した後、戦災変電所の場所は1950年6月の朝鮮戦争勃発によって米軍大和市建設問題が巻き起こるのです。朝鮮戦争の時、極東最大の輸送基地となった立川基地の影響もあり、1953(昭和28)年3月には兵舎設置決定の公文書が来て、約3,000名の兵舎を中心とした米軍大和基地の建設が決まります。

その後、米軍大和基地は日本で暮らす米軍関係者の小友達の学校や運動場が主な施設で穏やかな環境だったこともあり、住民とのトラブルはなかったとのこと。そして、泥沼化していたベトナム戦争からアメリカ軍の撤退が具体化する中、立川飛行場の返還の一環で、大和基地の返還計画が決まり、3年後の1976年に実施されることが発表になったのです。

そこで、返還後には東大和市、東京都、西武鉄道の三者で大和基地跡地を巡る熾烈な争奪戦が始まるのです。

しかし、どこも譲る姿勢を見せず1976(昭和51)年1月に国は突如、三分割方式による利用計画案を提示。ところが、、この国による三分割案には東大和市が猛反発。そこで、4年に渡る協議が何度も続き、1980(昭和55)年7月の「大和基地跡地利用計画大三次都案」でようやく目処がつくことに。

ただ、ここでさらに問題が。。というのも、東京都は東大和市の要望も受けて都立公園を造ることにしたものの、都立公園としての敷地要件面積(10ヘクタール)に若干足りないという羽目に。そこで、隣接する小松ゼノアの敷地の一部を買収する案が出るのですが、ちょうどその場所に戦災変電所があったこもあり、取り壊しの話が出るのです。。

市民の会発足式(1991年12月8日)

んで、そこで地元住民が立ち上がるんですね。東大和市に移り住んだ主婦たちが「東大和の戦争と郷土史研究会」を作り、公民館祭りや市民文化祭で東大和市ではかつて空襲があったことを発表することで、東大和市民に空襲の歴史が徐々に伝わっていくことになるのです。

その影響もあり、市内で保存運動が熱を帯びていくことになります。

しかし、それでも東京都は譲りません。。かつての従業員なども声を上げる他、当時の東大和市長である尾崎清太郎氏の尽力もあり、壁だけ残すと話もあったものの、市長が都議会の方に声をかけるなど尽力してくれました。鈴木都知事の判断は、「都民に公開するならオッケー!」ということで保存を許可をしてくれたのです。

とまぁずらずら書きましたが、簡単に言うと東京都が壊したがったのを住民たちが立ち上がって生き残ったって感じです(*’▽’)

個人の尽力で誕生した大刀洗平和記念館

保存が決まった後、1995(平成7)年10月には戦災変電所が東大和市の文化財に指定されることになります。1979年には東大和市教育委員会で「旧ガス電の変電所の弾痕壁」を文化財指定にするための諮問が行われていたのです。

ところが、この頃はまだ戦争遺跡が文化財指定された例が全国的にはなく、まだ世の中的にもこういった史跡に関しては扱いに困惑していたんですかね。。

それと同じような事としては、戦争関連の博物館なんかもそうですよね。今では戦争関連の博物館は九州など様々な場所にありますが、昭和の頃はそのような博物館を国や市が主導してはおらず、知覧特攻平和記念館や大刀洗平和記念館のように個人の尽力によって誕生している戦争博物館もあるんですよね~。

世界遺産の原爆ドーム

しかし、時代が経つにつれ世の中は戦争遺跡を保存しようという動きになっていきます。1990(平成2)年には沖縄県南風原(はえばる)町が横穴壕の陸軍病院跡を全国で初めて文化財に指定。その五年後の1995(平成7)年3月には大分県宇佐市が戦闘機を隠す掩体壕を文化財指定してこれが全国で二番目。

そして同じく1995年6月に原爆ドームが国の史跡に指定され、同年10月に戦災変電所がついに東大和市の文化財指定になるのです。

太平洋戦争から今年の2019年で74年が経つわけですが、時代が進むにつれて人々の流れが変わっていくんですね。以上のように、この戦災変電所は多くの方々の尽力によって取り壊しの危機を乗り越え、文化財にもなって今まで保存されたってことですな(*’▽’)

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今後も維持活動は続く・・

まだまだ修繕の必要がある・・

奇跡的に生き残った戦災変電所。誕生してから80年が経過し、三度も空襲にあった背景もあり20年前には何千万円ものお金をかけて補修をしたそうです。

しかし、それから20年が経ち二階も雨漏りするようになったこともあり、また来年に1億3,000万円をかけて修繕するんだそうです。お金は基金を作ったりふるさと納税などのお金によって工面するという。

毎月の第二日曜日のみ開館

現在は基本的には建物は閉鎖されており、外観はいつでも見学することは可能。ただし、毎月の第二日曜日だけは13:00〜16:00の間だけ開放しており、スタッフの方が案内をしてくれるとのこと。

一日にだいたい100人くらい訪問者がいらっしゃるそうで、やはり玉音放送が流れた8月15日が近づく時期になる頃が一番お客さんが多いのだという。

ちなみにこの建物は二階建てですが、現在は一階のみ公開していて二階への立ち入りはできません。ただ、これは老朽化によるものなので来年の修繕後には解放される可能性があるとのこと!

そうなったら、私もまた行ってみようかな(*’▽’)

おわりに

多くの方に知っていただきたいスポット

今回は知り合いのツテで非公開日に案内していただけましたが、スタッフの方に大変詳しく解説していただき本当に勉強になった今回の訪問でした。

しかしこの建物、本当にいろんな方々の苦労があって今までこうして残ることが出来たんですね。そう考えると、本当に多くの方にこの変電所の存在を知ってほしいと思いますよ!

東大和市という場所は都心部からだとアクセスは悪いかもしれないですし、月に一回しか開館しておらずなかなか条件は厳しいですが、ぜひぜひ興味を持った方は第二日曜日を狙って訪問していただければと思いますm(__)m

参考文献

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詳細・地図

住所 東京都東大和市桜が丘2丁目
営業時間 13:00〜16:00
開館日 毎月の第2日曜日
駐車場 なし
電話番号 042-567-4800
アクセス 西武拝島線・多摩モノレール「玉川上水」駅より徒歩5分
リンク https://www.city.higashiyamato.lg.jp/index.cfm/34,63727,359,html

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