今回は神奈川県の真ん中ら辺にある「台湾亭」にまつわる話です。
ん?台湾亭?何それ?
って思う方がほとんどだと思いますが、台湾亭がある神奈川県大和市の近くには、かつて高座海軍工廠という海軍の工場があり、そこではお隣の台湾から中学生くらいの少年工たちが戦時中にやってきて、雷電(らいでん)という航空機を製造するためにここで精を尽くしてくれていたんですね。
そんな背景があって、大和市には台湾亭という建物が建っているんです!
これはめっちゃ背景が気になる!!
ということで、今回の記事では「高座海軍工廠に関する話」、そして「それによりどんな経緯で台湾亭が建てられることになったのか」に関して取材してきたので、以下で紹介してみたいと思います〜!
見出し
GoogleMapを見ていて偶然発見!
今回の記事の焦点となる台湾亭。
これ、誰かから聞いたわけでもなく、本とかネットの記事とかで知ったわけでもなくてですね、、
実はGoogleMapをタラタラと見てた時にたまたま発見したんですね!
これこれ!
“台湾亭”という史跡らしく、「おっ、これはどんな背景があって作られたんだ!?」と思ってネットでさらっと調べてみたら、太平洋戦争がキッカケで、この近くに高座海軍工廠という海軍の工場があったこと、それによって台湾から少年工たちがやってきたことなど、いろんな歴史があって誕生したらしい。
これは、めっちゃキニナル!!!
ということで、早速レンタカーで台湾亭へと向かった私。
割と立派な四阿(あずまや)でしたが、周辺には誰もない。。閑散としていて、何も知らなければ素通りしてしまいそうだ。。でも、今回は大和市の図書館や書籍を参考にしてこの建物の背景を調べてみましたよん!
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高座海軍工廠ってどんな所!?
台湾亭の背景は何がキッカケだったのかというとそれは戦争!
戦争と言っても、太平洋戦争が直接的な原因だったわけではなく、その前からの日中戦争の頃からの話のよう。日中戦争などの頃、日本では労働力不足が懸念されていて、1938年には国家総動員法が公布されることになります。
そういった兵力不足が重要課題だったものの、最も重要視されたのが航空機の生産でした。そこで、日本海軍は新たな航空機生産の拠点とすべく 、1942(昭和17)年9月 に高座海軍工廠の設立が決めました。
神奈川県高座郡の大和村、座間村を中心に30万坪の用地を確保し、当初の計画では工員3万人、年産6,000機という設計のもとに、我が国で最大規模の航空機生産工場の建設が進められたのです。
ちなみに、工廠(こうしょう)とは旧陸海軍直属の軍需工場のことです。同じ神奈川県でいえば、平塚に海軍火薬廠、横須賀には横須賀海軍工廠ってのもあったんですよね。どれも”海軍”とついているように、海軍直属の軍事工場ってことです。
日中戦争の後、1941年12月8日には、日本が真珠湾を急襲して勃発した太平洋戦争が始まります。奇襲で始まったこともあって当初は優勢だった日本でしたが、日本海軍の暗号がアメリカ側に全て解読されていたりと、ミッドウェー海戦での作戦が失敗してあことで形成が怪しくなっていくことになります。ミッドウェー海戦では、四空母と百戦錬磨の搭乗員を瞬時に失ってしまったんですね。。
ミッドウェー作戦の失敗は米航空機の日本本土への侵攻を早めることになり、当然防空体制の整備が喫緊(きっきん)の課題となったのです。高座海軍工廠の必要性がさらに高まることになっていくんですね。
高座海軍工廠には、労働力確保の観点から台湾から少年たちが8,400人ほど集められることにもなりました。それにより、収容する大きい宿舎や工員寄宿舎など40棟が完成。
全てが二階建てで上が十部屋で下も十部屋。このほかには大浴場や大食堂などの設備もできていくとになるのです。
この工廠の設立が決まったのは1942(昭和17)年9月でしたが、それから準備期間を経て実際に開庁したのは1944(昭和19)年4月。その間の準備期間中は、海軍技術廠相模野出張所と呼ばれ、別名を「空C廠」とも言ったそうです。
とはいうものの、1944(昭和19)年4月というと、最強の愚策と言われたインパール作戦が行われたり、サイパンでの戦い、さらにはB-29による日本初空襲である北九州の空襲が発生していた頃。もう日本の敗色は濃かったわけです。。
高座海軍工廠開庁後、局地戦闘機”雷電”の本格的な生産に入ったものの、戦局の悪化とともに当初の目的を達成することはできませんでした。工廠で製造、組立、整備した雷電は、隣接の厚木基地へと運び込み、機関砲を装備して第302海軍航空隊へと実戦配備される仕組み。
飛行機が完成するたびに軍艦マーチが流れ、どの職までもみんな立ち上がって完成をあげたという。
大まかな背景は以上ですかね。
ではでは、、
そもそもなぜ高座海軍工廠は作られたのか?
なんで台湾から少年たちがやってくることになったのか??
その辺をもっと深堀りしていくことにしましょ~~!
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高座海軍工廠はなぜ作られた?
高座海軍工廠が作られた理由は、端的に言うと、局地戦闘機『雷電』を量産することでした。何で雷電を作ったのかというと、米軍の爆撃機”B29″を迎撃するためだったんですね!!
ん?雷電って何だ??
って方もいるかもしれませんが、順を追って説明します。
太平洋戦争が起きて日本が劣勢になった後の1944(昭和19)年6月16日、日本でB29による空襲が北九州で発生し、その後には続々と全国各地が空襲で打撃を受けることになります。
そのため、「このB29を迎え撃つ飛行機が一気でも欲しい」ということで雷電の生産に全力を注ぐべく命令は下ったのです。が、時すでに遅しで技術者は少なく資材もなく、終戦までに作られた雷電は、高座海軍工廠では百数十機でした。
とにかく一刻も早く、一機でも多くの飛行機を前線に送らなくてはいけない・・。
突貫で人は集められ、その人員は海軍士官30人ちょい、全国の海軍工廠より集めた技術職員100名ちょい、動員学徒及び女子挺身隊員が数百名。この中には、戦後作家となり、市ヶ谷記念館で自決した三島由紀夫や、水泳で「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋広之進もいました。
そしてそして、台湾からは、じつに8,400名もの少年工が集められたのです。
何でこんだけの人数を台湾から集めたのかというと、、、単純に人手が足りなかったから。。
この頃は日本内地では15歳以上の男子はほとんど軍隊に志願するか、徴用工員として軍需工場へ取られていたため人が集まらなかったのです。関東一円で大々的に募集をしたものの、200人を集めるのがやっとの状況。。
この工廠の組織の中心でもあった安田忠吉中佐にとって、労働力の確保が最大の悩みの種だったわけです。
そこで、昭和17年の春、安田中佐は当時の台湾総監である長谷川清海軍大将を訪れ、台湾で海軍工廠技術養成所の要員を募集したい旨を申し入れることになります。
そして昭和18年5月から一年近くをかけて、何回かに分かれて台湾少年工たちは高座郡へとやってくることになったのです。
上記のような流れて高座海軍工廠は誕生し、台湾少年工が集められたわけですが、ではなぜ、高座郡に海軍工廠が作られたのか??
それには、首都防衛の中核的存在だった”厚木海軍航空隊”に雷電を供給するという目的があったんですね!
高座海軍工廠があった当時の地図を見ると変わるんですが、高座海軍工廠から相模鉄道(現:相鉄線)をはさんだ場所には、戦後にマッカーサーが上陸したことでもおなじみの厚木飛行場がありました。
高座海軍工廠から厚木飛行場へは線路でつながっており。完成した雷電を鉄道輸送によって厚木飛行場まで運んでいたんですね。
高座海軍工廠が誕生した背景は以上です!
ではでは、次は、そんな高座海軍工廠で製造されていた戦闘機”雷電”についてのお話っす!
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高座海軍工廠で作られた雷電とは!?
高座海軍工廠で作られていた雷電とはどのような戦闘機だったのか?
と、その前に、雷電の事を話すためには、こちらの方が名が知られている”零戦(ゼロ戦)”について話す必要があるんですね!
日本海軍の戦闘機というと、零戦を思い浮かぶ方が多いと思います。百田尚樹氏の小説『永遠のゼロ』は有名ですし、映画にもなりましたからね。私も映画を見に新宿の映画館まで行きましたよ!!
ちなみに、零戦はあくまで”海軍の戦闘機”であり、陸軍の場合は九七式戦闘機など違うんですね。海軍と陸軍では戦闘機もそうですが、結構色々違いがあるため要注意っす。
この零戦は機体が軽く急旋回もできることから、開戦時はその威力を存分に発揮していました。ところが、敵が研究を進めるうちにその戦闘能力は大幅に低下。というのも、この零戦には上昇能力に欠陥があり、アメリカ軍のB17やB29が飛ぶ高度には達することができなかったのです。
そのため、戦局が悪化してきたことからその零戦の後継機として開発されたのが雷電だったのです。
ところがこの戦闘機、局地戦闘機という使命から強力な場力の発動機が必要でした。しかし、日本は戦争末期になると大きな発動機を付けることによって、胴体が太くなり視界が悪い。。そして振動が大きい。。
このようなことから、パイロットから好まれていなかった雷電ですが、改造に改造を重ねてようやく量産の段階に入るも、それはもう戦争の末期だったのです。
今も残る高座海軍工廠の爪痕
そんな高座海軍工廠、その跡地は住宅地となっていますが、周辺を散策するとその名残がいくらか残っています。
その一つが、上の写真の芹沢公園。結構広い公園で、私が訪問した時も家族連れの方々が楽しそ~~~にしていましたが、そんな光景を横目に私は戦争の爪痕を探しに公園内を散策することに!!
まず見つけたのが、こちらの顕彰碑。碑に刻まれている内容を読んでみると、この碑は高座海軍工廠で働いていた台湾出身の少年工の集まりである台湾高座会によって2018年10月20日建てられたとのこと。
結構最近に建てられたんですね。公園にこうしてぽつりと建てられていてちょっと寂しい気がしますけどね( ;∀;)
こちらが公園にある爪痕の一つね。
さらに園内を進んでいくと、奥に柵で封じられている場所を発見!
そう、ここが公園内にある第二の爪痕の芹沢地下壕。
この地下壕は、総延長約1.5kmに及ぶ、あみだくじ状の形状になっています。地下壕が誕生した理由は、激しさを増す空襲を避けて高座海軍工廠の部品工場を移すためであり、赤土である関東ローム層を人力で掘られたようです!
戦争関連の地下壕って、日本の政府中枢機能移転のために作られた長野県にある松代地下壕、あとは千葉県館山市にも戦闘機を隠すために掘られたと言われている赤山地下壕などなど全国のいろんな場所にありますよね。
しかし、こんな場所にもあったのか~~。
戦後になると米軍の進駐と共に、壕内にあった機械類や物資などは撤収。その後は、なぜかマッシュルームの栽培が行われていたそうですww
現在は残念ながら入り口に柵が設けられていて内部への侵入は出来なくなってます。。が、中をこうして覗くことだけはかろうじてできる感じ。写真にも写ってますが、中には戦闘機の模型が置かれており、これは高座海軍工廠で作られていた雷電の模型っすね。
普段は立ち入り禁止ですが、案内するツアーとかやったりしてないのかな~。そういうのあったら行ってみたいわ~。
芹沢公園に残る爪痕はこのくらいですか。
でも、これら以外にもまだ見所は残ってるんですね。
厚木飛行場への引き込み線
その一つが線路です。線路と言っても、当時使われていたレールであって今は廃線になってますけどね。。
その廃線は、地図で示すと上の黒い線がそうです。汚い絵でゴメンネ。。(笑)
上の地図を横切ってるのは横浜と海老名をつなぐ相鉄線なんですが、相模大塚駅〜さがみの駅の間には、厚木飛行場へ向かう引き込み線が敷かれていて、その名残りは今でも健在でしてですね。
昔の地図を見るとその線路がちゃ~~~~んと書かれてますね。これは、先ほども説明したように高座海軍工廠で作った戦闘機”雷電”を厚木飛行場へ運ぶために敷かれた引き込み線。
高座海軍工廠で作られたものを運んでいたため、高座海軍工廠にも引き込み線はあったんですね。でも、残ってるのは厚木飛行場への引き込み線だけのようです。
その線路もちょっと訪問してみたわけですが、ココですね!
右側が横浜へつながる相鉄線の線路なんですが、左から手前に向かう線路こそが引き込み線で、厚木飛行場へと向かっているわけです。
うんうん、草が生い茂っていて、いかにも廃線って感じですね!
ここを通って、雷電は厚木飛行場へと運ばれていったわけか。戦後からこのまま70年以上も放置されているんですかね。この線路も、つぶさに観察してみると面白いものが発見できるのかもしれないですが、ちょっと時間無くてここはさっと見た程度。
まぁ時間があったとしても、私はこういう廃線とかは専門知識がないので、見所とかわかんねぇっすけどね。。( ;∀;)
コメント
相鉄の廃線、いまは撤去工事が行われています
ご紹介ありがとうございます。
2021年についに引き込み線が片付けられて整地されつつあります。私のカーナビゲーションはあいかわらず「まもなく踏切です」と言ってますが…。
私は日本語教師で、最近台湾のビジネスパーソンに日本語を教えています。この話題の場所の近隣に住んでいることもあり、ご作成のサイトに掲載された記事・社員を台湾の受講生にレッスンで見せたいのですが、ご許可いただけますでしょうか。