群馬県にある生糸博物館の田島武平宅が穴場すぎた!

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開港後には生糸バブルが勃発

海外へと販路を広げた江戸末期

田島武平宅では江戸時代中期ごろから養蚕を始めていたようですが、江戸末期になると横浜港が開港したということでヨーロッパなどの海外にも販路を広げられるいい時代が来るわけです。

需要が増したことや皇室でも養蚕を行っていたということもあり、今まで養蚕をやっていなかった農家も、「俺もやりたい俺もやりたい!」となって、多くの農家が副業として養蚕を始めだすわけです。そうなると、ますます種屋の需要が増したんですね。

そうなると、「田島武平宅のような種屋が大量に卵を生産→多くの農家がその卵から繭を作る→大量の生糸が作られる→横浜に集まった生糸商人が買い付け横浜へと運ばれる→横浜にいる外国人商人がそれを買う→外国人商人が増える」という好循環が江戸の末期に起こっていたのです!

1863年に建てられた田島武平宅

そのような背景があったため、江戸末期の頃は種屋にとっては本当に良い時代だったようで、作っても作ってもいくらでも売れるという、笑いが止まらないとはまさにこのこと(笑)

それだけ良い時代だったため、大きな建物を建てられるだけの目処が立ったことから、1863(文久3)年に武平宅と弥平宅が建てられたのだという。そのいい時期の5年後に明治維新が起こり、その5年後には富岡製糸場が誕生、その40年後には日本の絹の生産が世界一になったわけですね。

ただし、そのようなウハウハな時代はいつまでも続くわけではなかったんですね。。

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ヨーロッパに殴り込みをかけた!

そもそも、ヨーロッパに卵や生糸が売れたのは、向こうで微粒子病が蔓延していたからであり、この病気が収まり向こうで養蚕が再開されると日本産の卵や生糸は売れなくなってしまうわけです。。

しかし、田島家がある島村の連中は「貿易商が買ってくれないんだったら自分たちで持ち込んで向こうで売ってやろう!」ということでイタリアに殴り込みに行くわけです!

すげぇ行動力。。

しかしですよ、今だったら飛行機もあるしヨーロッパに行くのはさほど障壁は高くないかもしれないですが、江戸末期や明治の時代では一農家の人たちが海外遠征なんてそうそう出来る話ではないわけです。船で長時間移動しなくてはいけないし、その分だけ金もめっちゃかかりますからね~。。

渋沢栄一のツテでヨーロッパ遠征へ

ところがどっこい!!

ここでまたまた渋沢栄一大先生が登場するわけです。田島家の人間が海外に売りに行きたいというと、渋沢栄一経由で三井物産から遠征費を出費していただくことができ、イタリアのミラノに四か月滞在して向こうの農家に売ったわけです。

渋沢栄一、すごいですな、マジで!

外国の中でも主にはイタリアの貿易商が目をつけてきたそうです。というのも、イタリアなどのヨーロッパには養蚕農家がたくさんあったものの、微粒子病という病気が蔓延した結果、不作に陥ってしまっていたんですね。んで、それらの国の貿易商たちが日本へ生糸を買いにやってくるわけですが、そもそも日本産の病気のない卵をがあればいいじゃないかとなるわけです。

館内には、そのイタリア遠征時の売り上げを記録したノートが展示されていました。ちょっと中を覗いてみると、、、

ん〜かろうじて読めるかなって感じですかね!

左側のページにカタカナで名前が書かれているのは、卵を売った商人の名前なんでしょうな。その上に丸がついているのは、そのうち売った卵の分の金を回収できたマークだという。ここでも売掛システムだったんですかね。

田島武平宅にある桑麻館蚕室には、種屋として以上のような物語があったそうです。いや〜生糸に関していろいろ勉強はしていたものの、知らないことが多かったっすわ!勉強になった!

背景を説明したところで、あとはここにある展示物をいくつかピックアップして記事を終えることにしますか!

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館内にある様々な養蚕用具

ちょっとこの辺でも見てみますか!!

幼虫を掃き立てる羽箒

こちらは羽箒。羽を使って1.5mしかない蚕の幼虫を養蚕籠(かご)に移す作業を「掃き立て」というんですが、そのための道具。ここから養蚕業が始まるわけですね!

ここで蚕の成虫が交尾するらしいです。蚕は成虫になると五日間とかそのくらいしか生きられないので、蛹から成虫になると交尾してすぐ死ぬって生き物なのです。生きるって何なんだろな。。

これは何を入れる容器だったっけな・・

蚕は温度に敏感なので、温度計は必須なんですかね〜。

こういうの見るとテンションあがる。昔のイラストは萌える。

このドラム缶みたいなやつは、、何だったっけな、、笑

「田島武平」って名前が残ってますな!

天井を見上げると、木材が阿弥陀籤(あみだくじ)のように組まれていますわ!

養蚕が衰退した田島家のその後

江戸末期から日本の外貨獲得のために発展し続けた蚕糸業ですが、外国への輸出は1974年に終わりを告げることになります。それは、外国の生糸の方が安くなったから。その価格差によって、日本の蚕糸業もどんどん下り坂となって行ったわけです。

田島家でも養蚕を昭和50年頃まで行っていたものの、その後は別業種へ。それはこの島村という地区にいた養蚕農家皆も同じ。多くの方は農家へと転業したという。

1872年に開業した富岡製糸場

日本は品質向上や作業の効率化を図り、さらにはヨーロッパの技術を日本全土へ広げるための模範工場が必要だということから、フランス人技師のポール・ブリュナーを招いて富岡製糸場を建てました。

ここは、農家から買い入れた繭から生糸を作るという工程を繰糸機という機械を使って機械化したわけですが、蚕を育てて眉を作るという工程はそうは行きません。生き物を扱っている以上、そこは人間の手が非常にかかってしまう作業なのですね。

そのため、蚕糸業というのは非常に人件費がかかるのです。現在でも養蚕を行っている国は、中国、インド、ブラジルなど。戦後に高度経済成長期を迎え出した日本では、人件費が高騰してしまいこれら外国産に価格差では太刀打ちできなくなってしまったんですね。。ヨーロッパでは明治末期には養蚕を辞めていたようで、桑畑だったところはブドウ畑に変えてしまったという。

今のご主人さんも見たり話を聞いていたものの、実際に養蚕自体は行ったことはなかったそうです。そして、今ではこうして資料館にしているわけですが、ここは別に商売として開放しているわけではなく、こうやって機具やら台帳やら昔のものが残っているので、先祖の話を興味のある方に聞いていただければという方針だとか。

生糸に関心がある方のみが訪問される

なので、頑張って存在を告知しているわけではないので、知られざる穴場になってるようですよ!

そんな感じですかね!

結局、ご主人さんからは一時間近くにわたってこの建物にまつわる話などを聞かせていただきました。めっちゃ勉強になったわ〜〜

おわりに

いかがでしたでしょうか??

生糸は江戸時代末期から昭和中期ごろまで、外貨獲得のため日本を支え続けた産業だったんですが、その養蚕業は田島武平宅のような種屋が支えていたと言っても過言ではないんですね!

凄くマイナーな場所で、生糸に関心がないと訪れる方はほとんどいないというかそもそもここの存在を知る方がわずかという感じみたいですが、ご主人さんが凄く親切に教えてくれますし、本当に勉強になるスポットなので、皆さん是非是非訪問してみてくださいな~(*’▽’)

参考文献

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詳細・地図

住所 群馬県伊勢崎市境島村2243
営業時間 10:00~12:00、13:00~16:00
入館料 大人200円、学生100円、中学生以下は無料
休館日 基本は月曜日と木曜日が休み
駐車場 無料
電話番号 0270-74-9348
アクセス JR本庄駅から車で15分ほど

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