水郷田名の割烹旅館「旭屋」で花街の歴史を掘り下げた!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

今回は、神奈川県相模原市にあった知られざる花街に関する話です。相模原市中央区には「水郷田名」という場所があるのですが、そこが昔は歓楽街として栄え、9軒ほどの料亭があり芸者もいた花街として栄えていた歴史があるんですね!

そんな水郷田名には、今でも続く料亭が一軒だけ残っていて営業を続けていることから、今回は実際にその旅館に宿泊して旭屋や水郷田名の花街にまつわる話をたんまりと聞いてきたんですんわ!!

では、その辺の話を以下で紹介したいと思います!

本記事のポイント

・水郷田名はかつて歓楽街として栄え9軒ほどの料亭があった
・相模原に陸軍が来てからは、将校が泊まる軍用旅館となった
・9軒ほどの旅館があったが、現在残っているのは旭屋のみ

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相模川沿いにあった水郷田名の花街

今回のターゲットは、神奈川県相模原市にある水郷田名という場所です。駅からは非常に遠く、アクセスの面ではなかなか悪い場所ですけどね。。現在では水郷田名という地名ですが、昭和初期までは久所(ぐぞ)という何とも言いづらいく微妙な地名だった場所でした。

私は神奈川県に住んでいるということもあり、県内の遊廓・花街跡に関しては東海道を中心に非常に多く存在していたため結構調べつくしてはいたものの、この水郷田名は本当に穴場中の穴場。ネットにもほとんど情報はなく、地元の人ですら長く住んでいる方でないとそんな背景があったなんて知ってる人も少ないくらい。。

現在の水郷田名

今回の取材の前に、実は一度以前ここに訪問して取材はしていたんですね。その時にはこの場所の大まかな歓楽街の歴史は取材できたわけですが、まだ宿題が一つ残っていたんですわ。。

↓以前、地元の古老に取材した記事です

水郷田名で唯一の割烹旅館「旭屋」

それがここの調査。今回の目的はここ割烹旅館『旭屋』です。かつては9軒ほどの料亭がこの花街にはありましたが、今残っているのは旭屋だけ。伺おうとは思っていたものの、なかなか予定が合わず一年越しの訪問となりましたよ(*’▽’)

ということで、早速館内に入ってみることにしましょう!!

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水郷田名に眠る歓楽街の物語!

旭屋のロビー

建物に入ると女将さんの娘さんが出迎えてくれて部屋へと通されることに。すごく歴史ある旅館ではあるものの、建物は結構綺麗で建て直してはいるみたいですが、どこか昔の雰囲気を感じますわ!

チェックインを済ませた後、ちょっとしたら夕食ということなので少し部屋でゆっくりして夕食を済ませた後に色々な背景を聞いてみることに!

女将さんと社長さんに話を聞いた

で、すんごくおいしかった夕食を食べたの後、女将さんが夕食を食べた部屋に来てくれて色々と話を伺うことに!

事前に神奈川県立図書館や相模原市立図書館で住宅地図などの資料をコピーしていたので、その辺の資料を踏まえて(図書館の資料集めでも今回はかなり時間かかった・・ )の取材。

女将さんだけでなく、社長さんも部屋に来てくれて実に三時間近くにわたって話を聞くことができました。もうね、お二人ともウルトラ親切な方でもう本当にここに取材に来てよかったですわ(*’▽’)

マジで、多くの花街の歴史を調べている方々には旭屋を訪問してほしいと思ったほど。ということで、まずは水郷田名がどのような経緯をたどって花街になっていったのか、そこからいってみましょう!

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大山詣の宿場町として栄えた

多くの江戸庶民が参拝した大山

久所の歴史については、江戸時代から書いていきたいと思います。この場所にたくさんの人が来だしたのは江戸時代の中期ごろからになるようです。

この頃になると、江戸庶民の生活も安定してきて遊覧する余裕も出てきたことから、神奈川県へは観光として大山詣(江の島への参拝客も多かったですが・・)へと出かける方が多かったのです。

昔ながらの街並みが残る大山

大山って神奈川県にある都心から近い山岳信仰の山であるもののそんなに知名度が高いとは言えない山ですかね。。山頂には大山阿夫利神社があり山岳信仰として多くの方が参拝した山でした。相模湾からは、漁業の際の目印になったことで築地の方々からの信仰もあつい山です。

八王子大山道(アバウトですが・・)

そんな大山へと続く道(大山道)は12本ほどあったといわれています。

江戸方面だけでなく様々な方面から人々が参拝に来ており、江戸方面からは今の国道246号線の矢倉沢往還(青山道)、東海道(国道一号線)を通る柏尾通・戸田通大山道や四ツ谷通・田村通大山道がありますが、八王子方面からの道は八王子から久所(ぐぞ)を通る八王子通大山道がありました。

久所のそばを流れる相模川

久所は相模川沿いにあったことから、大山詣の渡河点の宿場町としてにぎわうようになります。今のように相模川の上流にはダムもなかったことでよく氾濫していたことから、川を渡る前に待機するなどのために宿場町となったわけです。東海道の川崎宿もそれに似た経緯。

大正14年に架けられた初代高田橋

宿場町となった当初は相模川を渡るための橋はなく、渡し船で対岸へ渡っていたそうです。

そんな久所に高田橋が最初に架けられたのは、1924(大正14)年12月5日でした。この時は木製でわずか一年足らずで流失してしまい、仮の橋を作り通行用にしていましたが、1929(昭和4)年8月25日に、鉄製の橋が二代目として完成しました。

以上のように、久所は大山詣の通過点に位置しており、流れが速く氾濫を繰り返していた相模川があることで宿場町となっていったのです。

宿場町が衰退し歓楽街へ

大日本職業別明細図(昭和6年)

大山街道の宿場町として栄えた久所(ぐぞ)。しかし、大山詣が衰退したことにより街は宿場町から歓楽街へと変貌を遂げていきます。私が入手できた一番古い地図は、東京交通社による「大日本職業別明細図(昭和6年)」のもの。

上の地図には料亭や置屋、さらには呉服屋などの商店も載っており、ここが花街だったことがわかるかと思います。この時には旭屋の名前も確認できますね!

久所が花柳界として発展したのは、宿場町として誕生した旅籠屋を割烹旅館として転業したことが背景にあったかもしれません。

水郷田名にいた芸者さんたち

戦前の久所の様子に関してはそれほど詳しい資料が残っておらず詳しいことは不明です。旭屋には芸者さんの写真が残っており、上の写真は1962(昭和37)年6月26日 大黒屋旅館の大広間で撮られたものなんだそうです。

ここの芸者は田名芸者と言われており、昼間は田んぼで作業をしていた方が多かったことから、夜のお酌の時には手が土で黒く汚れていたなんて話が言い伝えられているようです。

九州の博多の方からなど、地元の方以外の女性も多く特に茨城の女性が多かったと女将さんは話していました。何で茨城なのかはわかりませんけどね。。 景気がよく新日鉄など大きな会社があった時代には、芸者さんが会社に挨拶しに行くなんてこともあったとのこと。

昔の雰囲気を残していた大黒屋旅館

9軒ほどの料亭旅館があった水郷田名では、大黒屋のご主人が1942(昭和17)年に相模原旅館組合を作ることになります。これは箱根に箱根旅館組合が誕生したことがきっかけとのこと。

この場所は、もともとは久所(ぐぞ)と言われていたものの、水郷田名は、1935(昭和10)年に『鮎の水郷田名』として、横浜貿易新報(現:神奈川新聞)による県下四五佳選に当選。

その後1983(昭和58)年に久所の田んぼに水郷田名団地が出来たことから、水郷田名へと名前を変えたのです。

賑やかな酉の市も行われていた

鳥居と小さな祠だけが残る大鷲神社

そんな花街としてにぎわいを見せていた久所には大鷲神社があり、そこでは酉の市も行われていました。酉の市とは、11月の時期に幸福や財運をかき込むとして熊手を買って願掛けするお祭りのこと。熊手は主に商売人が買うことが多いと聞きます。

酉の市の発祥は東京の浅草にある鷲(おおとり)神社であり、神奈川や山梨県などでは浅草に倣(なら)い横浜の真金町廓や平塚遊廓、さらには山梨県上野原市にある関山遊廓などにも大鷲(おおとり)神社があり、11月には酉の市で賑わいをみせていました。

そんな背景があり、花街として賑わいを見せたここに久所にも大鷲神社があり、かつては酉の市が行われていたのです。

酉の市で使われたぼんぼり

水郷田名観光協会の事務所の中には、今もかつての酉の市で使われたぼんぼりが残されています。上の写真は、以前にここへ取材に来た時に地元の古老から見せていただいたものです。

『田名の歴史』によると、酉の市の起源に関しては「水郷田名による酉の市は昭和のはじめごろに三業組合が客寄せのために始めたものと思われる」と書かれてもいます。

ここでの酉の市は、11月の一の酉か二の酉のどちらかに催され、道路沿いには提灯が下がり、花火も上がるなどしてとても賑やかだったという。熊手を売る商売や福引などもたくさんあったものの、太平洋戦争の中期ごろから静かになってしまったとのこと。

酉の市で賑わう横浜市真金町

上の写真は真金町廓跡で行われる酉の市の様子。ここまで人は多くはなかったとは思いますが、酉の市を催してた時は芸者さんも参加されてそれはそれは賑やかだったそうです。

芸者さんも描かれている

この芸者さんが描かれたぼんぼりはすごく印象に残りますな~~。

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水郷田名の料亭は軍用旅館に!

昭和初期になると、日本は戦時体制下に入り軍施設の拡張が必要になっていきました。そして1937(昭和12)年の夏、第二次上海事変の勃発により軍の動きは急速に活発化し、 相模原市は軍都へと変貌していくことになるのです。

※「今昔マップ on the web」を元に作成

その動きとして陸軍士官学校の座間町への移転を皮切りに、相模原陸軍造兵廠,陸軍兵器学校、陸軍機甲整備学校、陸軍第三病院など軍関係の施設が建設されまくっていき、それによる都市整備の必要性が出てきたのです。

そして周辺には軍都計画のための鉄道の駅も誕生していきます。小田急線には、東京第三陸軍病院が建設された関係で相模原駅(現:小田急相模原駅)が誕生。

相模陸軍造兵廠により相模原駅は誕生

さらに、八王子方面に集積された生糸を横浜方面に運ぶために敷設された背景を持つ国鉄横浜線には、相模陸軍造兵廠の従業員の通勤のため1941(昭和16)年に相模原駅、1944(昭和19)年には相模仮乗降場(現:矢部駅)が開設したのです。

そして1941(昭和16)年4月29日には、上溝、座間、相原、大沢、田名、新磯、麻溝、大野の二村六カ村が合併して相模原町が誕生しました。この時、人口は4.5万人で、(あくまで当時ですが)町としては日本で最大の広さとなりました。

旭屋も陸軍将校が泊まる軍用旅館だった

相模原が軍都となっていくことで、それは久所にも影響を及ぼすことになります。座間に陸軍士官学校が移転してくると、旭屋は陸軍の将校が宿泊する軍用旅館となり、その他の大黒屋、盛田屋、松本屋なども同様に軍用旅館になりました。

座間周辺、特に厚木には温泉旅館なども多く、水郷田名以外には厚木市の広沢寺温泉にある玉翠楼(ぎょくすいろう)もそうだったとのこと。

軍用旅館となった大黒屋

『田名の歴史』という書籍には、大黒屋が軍用旅館になった写真も残されていました。

そして戦争が終わりアメリカ軍が日本にやってくると、公娼制度の廃止により遊郭は消滅。その後に売春防止法が完全施行される1958年までは赤線・青線などがありましたが、相模原では町田駅の南口にあった「田んぼ」といわれたちょんの間と、ここ水郷田名が軍都相模原で暮らす方々の遊び場だったそうです。

田んぼはすでに摘発によってもはやその面影はありませんが、町田駅の南口の一画にもそんな歴史があったんですね。

70年代後半から田名の歓楽街は衰える・・

戦後に発展していく相模原

太平洋戦争が1945年に終戦すると、その後は朝鮮戦争による好景気が到来。その後日本は高度経済成長期へと突入していきますが、水郷田名の花柳界も戦後からは賑わいを見せていくことになります。

高度経済成長気に入り、1954(昭和29)年11月20日には県下10番目の市として相模原町は相模原市となります。この時の人口は八万人ではあるものの、相模原市は東京からも近く平坦で広大な土地と交通の状況などから、市街地開発地区として絶好の条件を備えていたことで、人口急増による学校建設などにも追われることになります。

さらに、1955(昭和30)年7月11日には、相模原市は「工業立市」の旗印を掲げて工場誘致条例を制定。三菱重工業(株)などの工場が誕生し、街は発展して行くことになるのです。

1971年の水郷田名

それが原因となったのか水郷田名も賑わいを見せてきましたが、旭屋の社長さんの記憶によると、水郷田名の花街は70年代の中ごろがピークであり、そこから賑やかさは薄らいでいったそうです。

上の地図は、神奈川県立図書館にあった1971年の地図を基にして地図に落とし込んだもの。この頃にはまだ料亭や旅館が残っており、その他にはトルコ風呂、さらにはこの後に「割烹 えびの」の跡地にはラブホテルも建ちました。

「相国屋」は屋号が残っていた

上の地図を見ていただければわかるように水郷田名は花街だったこともあり商売をしていた方が多く、皆に屋号がついていたそうです。そのため、お互いを呼ぶときは氏名よりも屋号で呼び合うという風習があったとか。ちなみに、水郷田名に住む多くの方の苗字は江成さんです。。

「料亭 舟本」の建物も残っている

かつては久楽館(大正14年頃に誕生)という山田洋次監督も訪れた映画館もあったとのこと。相模川の向かいにある小沢という街には戦前より大きな製糸工場があったとのことで女工さんが大勢いたとか。

ただこの場所、何でかわからないですが東京都足立区方面から足立ナンバーの車が多く押し寄せ、色を求めて遊びに来る人たちの穴場的存在だったそうです。以前この辺の古老に取材したときは神田の方からの人が多かったと話していたので、つまりは東京の東側の方々が結構来ていたとまとめておきましょう。

現在は閑静な住宅街に

もう昔の面影はほとんどない・・

以上のような背景があった水郷田名。今ではそんな歓楽街だった街からはすっかり変わってしまい、閑静な住宅街へと姿を変えていったのです。先ほども書いたように、今では当時からの料亭として生き残っているのは旭屋のみ。

街はすっかり住宅街として菅さんとしているものの、相模川にはキャンプやらバーベキュー、さらには釣りの客は結構訪れているようですよ!

では、街の背景を紹介したところで、次のページでは旭屋の歴史を中心に書いていきたいと思います!

続きはこちら!200年以上続く割烹旅館の物語!
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コメント

  1. ミニー より:

    こんにちは。ランキングから来ました。町の歴史、とても面白かったです。

  2. にゃこ より:

    こんにちは、相模原市内の出身の者です。
    旭屋さんの存在は子供の頃から存在は知っていたのですが、行った事がなかったです。
    「なかなか趣あっていいなー」とは思っていたのですが、
    まさかこんな歴史があったとは驚きです。
    今度ぜひ旭屋さんに行ってみたいです。
    面白い記事をありがとうございました。

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