こんちわっす。
日本中の知られざるスポットを取材してブログにしている『知の冒険』。今回紹介する博物館は、筑波海軍航空隊記念館という場所!
この記念館がある場所には、かつて11年間だけ海軍航空隊の基地があり、その歴史を語り継ぐ博物館なんですよね。こうした軍関連だったり、戦争関連の博物館は九州とか西日本に多いイメージがありますが、茨城県にもあるんですね~。
そして、この記念館では特攻隊関連の話も多く、あの太平洋戦争に関しても大変学べる場所でもあります。ということで、ここに海軍航空隊があった歴史、さらには特攻隊に関する話などを含めつつ、この記念館について以下で紹介していこうと思います!
見出し
つくば市にない筑波海軍航空隊記念館
ということで、今回は茨城県にある博物館を紹介するわけですが、知の冒険のブログでは茨城県はまだ数少ないんですよね。。神奈川県からだとちょっと遠いので、なかなか訪問する機会がなく、今回は久々の訪問という形になりました!
んで、今回取り上げるのは「筑波海軍航空隊記念館」という記念館ではあるものの、住所は茨城県笠間市。筑波とついているものの、つくば市からは割と離れております!
筑波海軍航空隊記念館は二つの建物で構成されておりまして、一つが笠間市の登録文化財にもなっている、こちらと、その隣にある新館になります!
受付は新館になるので、まずは上の写真でいうと、奥にほんのわずかに写ってる建物へと向かいます!
入館料を払って、受付を完了!
すると、首からかけられる入館証をゲッツできるので、記念館の敷地内をふらふらする場合は、この入館証を首にかけておく必要があります。なので、帰るときにまた受付に返却するって感じ。
私は最後返し忘れそうになったので、皆さんも気を付けて下さいね(;・∀・)
新館は一階と二階があり、筑波海軍航空隊関連の資料やパネルの説明も多く、結構いろんなことが学べるかと思います。
とはいえ、多くの方は、まずは一階にあるこちらのビデオを見るのが良いかと思います。このビデオを見ると、この記念館の背景がザックリわかるかと思いますし、パネルも豊富で、この記念館へ来館者の方がやってきたからには、色んな事を知ってほしい、あるいは考えてほしいという熱が伝わってきます。
そうそう、博物館って館長さんの雰囲気だったり、あとは説明書きを見ると、やる気があるかないかってのが結構すぐわかるもんですよね。ここは熱が伝わって、私も来てよかったと思いましたよ(*´▽`*)
ではでは、ここからは筑波になぜ海軍航空隊があったのか?
ココが記念館になるまでにはどんな経緯があったのか?
などについて、まとめていきたいと思います。
11年だけ存在した筑波海軍航空隊
現在記念館があるこの場所に「筑波海軍航空隊」が開隊したのは、1934(昭和9)年のこと。
ライト兄弟が初飛行に成功したのは1903年のことでしたが、その飛行機の需要が大きく高まったのは、第一次世界大戦がキッカケでした。
この大戦の際、海軍航空の実戦経験を得たことで飛行機の用兵的価値の大きいことが立証され、欧州方面においても航空機が急速に発達して大活躍したことから、日本国内でも飛行機に対する関心を高めることになりました。
横須賀工廠造兵部で飛行機機体の製造を開始して以降、航空機の需要が世界的に高まり、欧州に遅れをとるまいと1931(昭和6)年に17個の航空隊が完備され、1937(昭和12)年には14隊を増勢するなどその数を増やしていきました。
そうした海軍航空隊を増成していくなか、大正時代末期、 茨城県阿見町に東洋一の航空基地といわれた霞ヶ浦海軍航空隊が設置されることになり、霞ヶ浦にて予科練の教育が行われることになるのです。
ザッとではありますが、以上の様な流れで霞ヶ浦に巨大な海軍航空隊の基地が出来まして、笠間市には、その霞ヶ浦海軍航空隊の分遣隊として筑波海軍航空隊が
1934年に誕生したという感じっすかね!
1934年に誕生したものの、1945年に戦争が終結したということで、筑波海軍航空隊としての歴史は、わずか11年。
そんな筑波海軍航空隊の歴史には、”特攻隊”も関わっており、この記念館でも特攻に関するテーマは多く紹介されています!
ということで、筑波海軍航空隊が誕生した背景の後は、この航空隊と特攻に関する歴史について紹介したいと思います!
最初の『特攻志願者』が生まれた地
太平洋戦争の情勢でいうと、最初は日本の奇襲により有利な状況となっていたものの、ミッドウェー海戦辺りから戦況が逆転。。その後は、日が経つにつれ戦況が悪化してくると、体当たりをして敵艦隊にダメージを与える特攻作戦が行われることになります。
その流れのなか、1944年8月に特攻するための航空兵器である”桜花(おうか)”の開発が行われると、10月1日に実験・練成部隊として第七二一海軍航空隊(神雷部隊)が編成されることになります。この航空隊は、桜花を使用するための部隊であり、人類の歴史上、初めて体当たりを前提として設立された航空隊でもあります。
そんな神雷部隊が編成されたのは、同じ茨城県にあった百里原飛行場でした。筑波ではないっす。
では、なんで筑波海軍航空隊記念館でこの話が出て来るのかというと、「部隊を編成するにあたり、事前に人員の募集が行われたのがこの地だった」ということがわかってきたからみたいです。
ということで、この筑波海軍航空隊があったこの場所は、「最初の『特攻志願者』が生まれた地」とも言えるわけです。
そういった背景があるということを踏まえ、この記念館では特攻、そして神雷部隊で用いられた桜花という航空兵器の歴史を伝えているんですね!
ただし、ここで間違ってはいけないのが、この地で言っているのは「最初の『特攻志願者』が生まれた地」なんですね。。あくまで志願した『志願者』が最初に誕生したのであって、実際に最初に特攻した方は別です!!
じゃあ最初に特攻したのが誰なのかというと、その方は関行男(せき・ゆきお)という方。
神風特攻隊というテーマに触れると、最初に特攻したということでこの方の名は、よく出て来るかと思います。
特攻したのは1944(昭和19)年10月25日であり、神風特攻隊敷島隊隊長として、レイテ沖にてアメリカの空母セントローに突っ込みました。
そんな関行男さんの歴史を語り継ぐ記念館が、愛媛県の楢本神社という神社の境内に存在しています。
ここはすぐ隣にある畳屋さんが維持管理をしており、本業が忙しくない時に行けば色々説明してくれるんですね。まぁ、私が行ったのはよりによって忙しいときだったので、駆け足で説明してもらいましたけど・・(;・∀・)
ということで、この記念館のこともいずれ記事にしようと思いますので、詳しくはその時に!
ということで話を筑波に戻しますが、以上のような背景があり、この記念館では筑波海軍航空隊や特攻に関する歴史を展示して紹介しているんですね!
一階には多くのパネルがあって記念館の背景などをたくさん紹介していますが、二階には筑波海軍航空隊に関する多くの遺品が展示されています。特攻で亡くなった方々の写真や、遺書など、本当に心打たれるものばかり。
ちなみに、こうした戦争関連の施設は写真撮影NGのケースが多いですが、ここはオールOKでした。私が見た限り、撮っちゃダメって場所はなかったです。
筑波海軍航空隊の中には、特攻で亡くなった方も多く、彼らの写真もこうして展示されています。知覧特攻平和会館や回天記念館など、多くの戦争関連の資料館で隊員たちの写真を見てきましたが、感慨深いものがあります。
こうした寄せ書きやハチマキは、いろんな戦争関連の博物館で見かけはするものの、毎回見るたびに胸が熱くなりますわ。。
その他にもたくさんの遺品や写真などが展示されていますが、その中でも特に珍しいと思われるものを二つほど紹介させていただければと思います!
爆撃機のガラスで作ったペンダント
昭和20年の終戦間近、一人の女学生のもとに手紙が届きました。
彼女は兵隊さんを励ますためという理由で学校に勧められ、一人の海兵と文通をしていたのです。
その海兵とは、筑波海軍航空隊の訓練生である金井正夫少尉でした。
はじめは国の政策で始めた文通だったものの、手紙のやり取りの回数も増え、女学生と海兵の手紙のやり取りは200通にも及んだとか。ただ、この二人が生前に逢うということは叶わなかったのです。。
そうしてやり取りをしていたなか、彼から送られた最後の手紙の中に、手造りのペンダントが入っていたそうです。
その材料は、爆撃機の風防(コックピット)のガラス。零戦を象(かたど)ったガラスの飛行機と、もう一つは二人のイニシャルが彫られた、ハートの形のペンダントでした。
このペンダントを女学生に送った金井少尉は、1945(昭和20)年4月6日、神風特別攻撃隊第1筑波隊員として、鹿屋基地を発信し、沖縄周辺のアメリカ軍輸送船団に突入しました。享年23歳。
展示されているペンダントは本物で、元女学生の方にお願いして展示させていただいてるとのことです。
写真と式を挙げた女性の話
続いては、写真と結婚式を挙げた女性の話です。
こちらは記念館にあった写真ですが、右が藤田少尉で、左が睦重さん。こちらに写ってるお二人は、これから結婚を望んでいました。
しかし、藤田少尉はこれから特攻に出撃する予定だったのです。睦重さんの両親に結婚の申し出をしたものの、特攻に出てしまったらすぐに未亡人になってしまうことが分かっていたこともあり、両親は結婚を許しませんでした。
ただ、睦重さんは諦めることはなく、ついに両親は結婚を承諾。その承諾した日に、藤田少尉は両親宛てと花嫁の睦重さんに遺書を認(したた)めることになりました。
そして特攻当日の5月14日、睦重さんは鹿児島県の鹿屋で藤田少尉を見送り、その足で徳島県の藤田家を訪れ結婚式に臨みました。
この藤田さんのケースのように、戦時中、写真と結婚式を挙げたケースは他に無かったわけではないそうです。とはいえ、花婿がすでに死んだとわかっていても、結婚したという話は他にないのでは。
戦後、睦重さんは帰京すると大学に進学し、その後は1993年に亡くなるまで、ずっと一人で生きて来たそうです。再婚はしなかったんですね。
戦争体験を語ることはなかったものの、「口をつぐんでいる方が、伝わることもあるのよ」という言葉を残し、亡くなったそうです。
映画が、解体の危機を救った!
展示物を見た後は、こちらの建物の中も見ることが出来ます。
こちらは、筑波海軍航空隊の司令部庁舎であり、1934(昭和9)年に開隊した霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊が、1938(昭和13)年に「筑波海軍航空隊」として独立する際に建設されました。
空襲の被害を受けはしたものの、無事に生き残ったこの庁舎は、戦後、1946年からは水戸高等学校として転用されました。1960年に友部病院として敷地が活用されることが決まった際は、当初取り壊しも検討されたものの、再現不能な貴重な歴史的建造物であることも考慮され、復元を想定した改修により、県立友部病院管理棟として使用されました。
その後、再度本庁舎も含む史跡の取り壊しが決定したものの、2013(平成25)年に映画『永遠の0』のロケ地として庁舎の一般公開が始まり恒久保存の機運が高まったことで、2018(平成30)年、笠間市の登録文化財に指定され、恒久保存へ方針が変更されたとのこと。
そう、映画『永遠の0』のロケ地になっていなければ、この建物は取り壊されていた可能性が十分にあったというわけです。
一応、この記念館がある場所がどのような経緯を経てきたか、簡単に以下にまとめておこうと思います!
霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊が開隊
1945(昭和20)年
終戦し、筑波海軍航空隊が解体。
1946(昭和21)年
海軍射撃場跡地などに開拓団が入植。
1960(昭和35)年
茨城県立友部病院開設。社会復帰の促進を念頭に病棟開放制の導入など精神的な開放治療を実施し、全国から「東洋一」として注目を浴びる。
1975(昭和50)年
精神障害者社会復帰施設「デイケアセンター」竣工
1986(昭和61)年
レクリエーションセンター竣工
2011(平成23)年
「県立こころの医療センター」へ改称。筑波海軍航空隊の遺品展示ルーム開設。
2012(平成24)年
映画『永遠の0』撮影
2013(平成25)年
旧司令部庁舎を「筑波海軍航空隊記念館」として、期間限定で一般公開。
2018(平成30)年
新展示館を増設、笠間市立筑波海軍航空隊記念館としてリニューアルオープン。笠間市の登録文化財へ指定され、旧司令部庁舎の恒久保存が決定。
ということで、建物の背景を説明したところで、ちょっくら館内を覗いてみますかね!
館内は結構広くて、資料が展示している場所もあれば、事務所的な感じで使われている部屋もあるみたいです。
こうしたちょっとした展示物もあれば、、、
こうした結構ガッツリした展示もあります。
こちらは、父島辺りから引き揚げられた二式大艇のプロペラとエンジン。海底に沈んでいたからか、錆びまくってなかなかの雰囲気を醸し出してますわ(;・∀・)
階段を上って二階へ・・
階段を上がって正面に見える部屋がこちらなのですが、こちらは司令室。
奥に巨大な扉が見えるかと思いますが、これは海軍時代から残る書庫。当時はどんだけの本が収蔵されてたんやろな~??
司令室の隣にある飛行長室には、筑波海軍航空隊で実際に使われていたテーブルが一つ置かれていました。
75年以上も昔のものではあるものの、結構綺麗でそこまで古さを感じないっすね~
こちらは、ロケ再現室!
ベッドなど、ここに隊員の方が寝泊まりしていた様子が再現されていますが、これは『永遠の0』の撮影で使われたものですかね??
しかし、ベッドとかが置かれていいたりすると雰囲気出ますね。
部屋の中には、ラジオや扇風機、後は時計などの日用品だったり、、
隊員達の所持品、医療関連の品々も展示されていました。
その他に部屋には、ポスターだったり写真だったり、あとは航空機の模型だったりが展示されている感じですかね。
色んな種類の航空機の模型だったりと、展示物は少しマニアックでした!
戦争遺跡を後世に!
という感じで、筑波海軍航空隊記念館を紹介させていただいたわけですが、一つ気になる展示があったので紹介したいと思います。
それは、新館の一階に展示されていたパネルに書かれていたこと。何が書かれているのかというと、「戦争遺跡に与えられた役割」についてです。
太平洋戦争が終戦したのは1945年であり、もうすぐ80年が経とうとしています。当時を覚えている方は90歳を超えており、戦争体験者の語り部による記憶の展示は、まもなく限界を迎えています。
今考えると、私の亡くなった祖母からも太平洋戦争の当時の話を聞いておけばよかったと後悔しております。。
でも、先日訪問した熱海の純喫茶『ボンネット』のご主人は、元特攻隊員だった方ということで当時の話を聞かせてくれたりしますし、まだ探せばそういった方はいらっしゃるんですけどね。
今回紹介した記念館は、2013(平成25)年に旧司令部庁舎を筑波海軍航空隊記念館として期間限定で一般公開を開始、2018年に新展示館を増設し、笠間市立筑波海軍航空隊記念館としてリニューアルオープンした、わりと新しい博物館。
ここは映画のロケ地がキッカケで取り壊されずに残りましたが、全国を見ると老朽化や地権者の土地活用等の理由により、戦争遺跡の取り壊しも続いています。とはいえ、戦争遺跡の地域貢献活用への取り組みも、全国的に広がりを見せているみたいなんですよね。
具体的には2018年の熊本県錦町の人吉海軍航空隊遺跡を紹介するミュージアムの開館や、2020年の埼玉県桶川市にある熊谷陸軍飛行学校桶川分教場遺跡、建設予定地では、大分県宇佐市の宇佐海軍航空隊遺跡、兵庫県加西市の姫路海軍航空隊遺跡などがあります。
さらには、東京都東大和市にある日立航空機立川工場変電所遺跡や千葉県館山市の館山海軍航空隊赤山地下壕遺跡の様に、戦争遺跡の公開を自治体としても推進している自治体も多く、戦争遺跡に「地方創生で取り組むべき地域資源の可能性」を見出し、講演や整備の検討を始める自治体も、近年は増加しているそうです。
自治体による「戦争遺跡の地域資源活用」は、戦争遺跡やミュージアムが拠点となり、離散や焼失のリスクのある資料証言等の保護と次の世代への「継承」を果たす役割を果たしていますが、「戦争を敢行にすることは許されるのか?」は度々論争になり、エンターテインメント性の取入れやグッズの開発など「経済活動」や「観光」に専念できていない各自治体のミュージアムの現状は、資料保存や研究費用に十分な予算を確保できない上、運営的にも自立でき
ていない。。
2020年8月「日本地域創生学会」発表資料 ミュージアムアンケート結果より
この様な中、地方自治体の施設として再構築された筑波海軍航空隊記念館は、「戦争遺跡を地域資源として活用する事の是非」を世に問いています。
戦争遺跡を観光資源として活用するのには、いろいろ壁があるようですが私は応援したいですね。こうした施設を通じて、多くの方に戦争の歴史を語り継いでいってほしいと思います。
おわりに
映画『永遠の0』の撮影を機に、旧司令部庁舎が恒久保存する流れとなり、元隊員たちの悲願だった記念碑が移築。多くの方の想いにより、現在の記念館があるようです。
特攻隊や陸軍・海軍関連の施設でいうと、鹿児島にある知覧特攻平和会館、万世特攻平和記祈念館、鹿屋航空基地史料館、福岡の筑前町立 大刀洗平和記念館など九州に多いわけですが、関東にもこうした施設があったんですね。
太平洋戦争が勃発していた当時を生きていた方は本当に少なく、これから当事者から話を聞くことは出来なくなるということで、以下にこの記憶を後世に語り継ぐかは課題かと思います。
アクセスが良いとは言えない場所にありましますが、多くの方に行ってほしい場所でもあるので、少しでも気になった方はぜひ行ってみて下さいね!!
ではでは、また次の記事でお会いしましょ~
参考文献
詳細・地図
住所 | 茨城県笠間市旭町654 |
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入館料 | おとな(18歳以上) :500円 こども(小学生以上):300円 |
開館時間 | 09:00~17:00(最終入場16:00) |
休館日 | 毎週火曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始(12/29~1/3) |
駐車場 | 無料 |
電話番号 | 0296-73-5777 |
アクセス | JR友部駅より車で5分ほど |
リンク | https://p-ibaraki.com/ |