京浜工業地帯にあった工場労働者の楽園「鶴見入船カフェー跡」にはどんな歴史があったのか!?

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鶴見入船カフェー跡の歴史を紐解く

一通り飲み屋があったエリアを散策した後、ここから周辺のお店などに聞き込みを開始することに。どこに何があった的な情報は得られたものの、その背景などに迫るには現地に長く住んでいる方からなどから話を聞くしかないのです( ;∀;)
ということで、すぐ近くにある商店街での聞き込みローラー作戦を開始することに(`・ω・´)

商店街で聞き込みを開始

はい、ということで青線跡のすぐ近くにある本町商店街へと繰り出すことに。今ではシャッタ―街となった商店街ですが、昔からやっている個人商店が多いため、この辺の方々へ聞き込みを開始!!
▲最初の聞き込みはこちらの洋服屋さん
一番最初に話を聞けたのはこちらの洋服屋さん。
「ちょっとこの辺の歴史を調べているのですが・・」と聞き出すと、店主のお父さんは青線の話を親切に教えてくれました。
「あ~確かにあっちはそういう街でしたよ。多くの連れ込み旅館もあってね。旅館でいうと、『いろは旅館』『青野屋旅館』『つたや旅館』とかがあったかな。青野屋旅館は私の同級生のお家だったよ」
青線だったことをざっくりと教えてもらった後には、
「あとね鶴見警察署の方は、あのエリアには頭を悩ませていたって話も聞いたよ。というのもね、ならずものがここの街に駆け込んでしまうと、その人の居場所がつかめなくなるっていうの。ここらのお店に関わっている者もいわゆる同じ境遇の方々も多かったから、警察官が犯人の行方を調べても皆がかくまって居場所を教えてくれないっていうね。」
という話も教えてくれました。
その他には、沖縄の方々の移住に関する話とかも聞きましたが、それは別の記事で書こうかなと。お店も営業中だったためそこまで長く話を聞くことはできず、別の店へと足を運ぶことに!!

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▲昔話をしてくれた花屋の店主さん
続いて話を聞いてくれたのは、花屋さんの店主さん。お店の中で椅子に座りながら外の景色を眺めていたところを突撃!!
すると、こちらの店主さんもあっさり話してくれました!!
「あ~飲み屋だらけだったね!今でも2,3軒くらいは営業してますよ。あそこはね、私が20歳くらいの時はもう本当飲み屋街でしたよ。今はもうないけど、ここの角のラーメン屋さんでは殺人事件もあったからね。」
当時を思い出しながら、店主さんの話は続く。
「そう、ここは赤線だったんだよ。私の年齢だと引っかかんないけど、もう10歳くらい上の方だったら皆が遊びに行ったって聞きましたよ。だって、300円か500円くらいで本番が出来るんだからさ。あとは、ある時飲み屋に入ったら朝鮮人と沖縄の人が喧嘩したなんてこともあったよ。まぁここはそういう楽しかった街ですわ!」
▲川崎遊郭の跡地である川崎市南町
花屋の店主さんだけでなく、その他の聞き込みでもこのエリアの事を「赤線」という方がいましたが、正しくは「青線」だと思います。「そこには遊郭もあったって聞いたよ!」という方もいましたが、それも正しくはありません。
遊郭は公的に売春が認められた箇所であり、警察が管理していました。近くでは川崎の南町に川崎遊郭はありましたが、警察史を見ても鶴見に遊郭があったという痕跡は調べる限り確認できなかったので、改めてですがここは遊郭ではなく私娼窟だったと言って問題ないはず。。

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「小野町」と言われた私娼窟

1958年は、4月1日に売春防止法が完全施行された年でした。日本中の遊郭が1946年の公娼制度廃止によって遊郭→赤線地帯となり、公的な売春街ではない私娼窟も青線として色街史を刻んでいましたが、その後の1958年に売春の歴史に終止符が打たれることになったのです。
鶴見の下野谷4丁目にあった青線は、上の地図の丸く囲ったエリアだったそうです。まだ1958年時点ではこちらの一角のみに飲み屋などが収まっていました。
▲1958年以前に青線だった一角
改めてですが、その一角はここです。この細っそい通りの左側、今は駐車場になっていますがここに青線である飲み屋が軒を連ねていました。
そして、ここから日本は高度経済成長を遂げ、戦後から奇跡の復興を遂げるようになります。それに伴い、日本鋼管と旭硝子の工場も従業員の数が増え、それに伴って周辺の街も栄えることになるのです。
1970年になると、飲み屋や小料理屋は当初青線だった一角だけに収まらず、周辺にもかなり多くのお店が軒を連ねることになります。飲み屋だけでなく質屋や酒屋も増え始める中、売春が行われたことを示す旅館も増えだすことになります。
上の地図で青色で塗った場所にあった旅館は、いわゆる普通の旅館ではなく売春街でよく見られた『連れ込み旅館』でした。いわゆる、現在日本中にあるラブホテルの前身ですね!
60年代から90年代の間の地図を見比べてみたところ、この頃が入船カフェー街の最盛期だったのではないかと思われます。
▲地元の人たちは「小野町」と呼んでいた
ちなみにですが、この街のことを地元の方々は「小野町(おのまち)」と呼んでいたそうです。この記事を書く前にちょびっとネットで検索したところ「鶴見入船カフェー跡」と皆が書いているため、私もタイトルにはその名前を一応入れてありますが、これはどこから出てきた名称なのでしょうかね??
地元の方に聞くと「ここはね、地元の人は『小野町』って言ったんだよ!」という証言を得たので、 本来はそれで統一したいんですが、なんか「鶴見入船カフェー跡」が先行しているので、私も記事ではその名前で書くことにしていまっす!!
その後の、1981年の小野町。この頃でもバーや小料理屋のお店はたくさんあるものの、数としては1970年に比べると減っているのが分かります。連れ込み旅館の数も減り、雀荘やゲームセンター、さらには上の地図には書かれていませんがパチンコなどの遊技場も増え始めることに。
その後、日本はバブル真っ盛りとなりますが、小野町はここからさらに店舗数を減らし、だいたい2000年あたりには歓楽街の歴史としての幕は閉じられたそうです。。

シャッターだらけの「本町通商店街」

先ほど聞き込みをした本町通商店街。ここも、カフェー跡と同様に今20年ほど前からこのようなシャッター街になってしまったという。寂れた時期や理由はだいたい同じだろうなと推測。。
▲旭硝子やJFEの従業員に支えられていた
ひどい時には、毎月一軒のお店が潰れていくなんて時期もあったという。。昼間でも、人通りはほとんどなく、個人商店も営業は続いてはいるそうですが、いったいどうやってお店が成り立っているのか心配になるほど。。
先ほどの花屋さんの店主さんが言うには、商店街が寂れてきたのは旭硝子やJFEの方が減ったということだけではなく、後継ぎがいないという問題も。これはこの商店街だけでなく全国でもそうでしょうね。息子が家の家業を継ぐことなく東京の会社で働いたり、自分のやりたい夢を追いかけたり。
昔は長男は家の後を継いで、次男は都会に出て働くという決まりがありましたがそんなのは戦後とかの話で今は全く違いますしね。
寂れて先が見えないため、「街の歴史を調べるのもいいけどね、どうあったら商店街が復活するかも考えてもらいたいよ!」と、とあるお店のおっちゃんから言われてしまいましたよ( ;∀;)
▲ペルーのスモークチキンのお店
そんな商店街には異国感満載のお店もちょっくら紛れ込んでいたりします。このお店はスモークチキンが売りで、店員さんの女性は日系三世の方でした。いわゆる、おじいちゃんが日本人ってことっすね!!
店内でスモークチキンを食べたんですが、中にいたお客さんは全員ペルー人。異国情緒満載のお店で他の個人商店とはだいぶ雰囲気が異なるわけですが、こんなお店も軒を連ねているわけです。いわゆる沖縄や南米の工場労働者の方々がここに住んでいるということに関係しているってことです。

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川崎へ移動していった日本鋼管の人たち

入船カフェー跡(小野町)や本町通商店街は旭硝子や日本鋼管などで働く方々で成り立っていました。ところが、バブル崩壊後の1990(平成2)年~1999(平成11)年は長期不況の時期で「失われた10年」とも言われた時期。
旭硝子に関しては詳しくは調べられていませんが、日本鋼管はこの時期に大きな打撃を受けることになります。
鉄鋼業界では業界一位の新日本製鉄株式会社や業界二位の日本鋼管株式会社は、過剰設備、余剰人員。高コストに円高が重なり1993(平成5)年には赤字に転落。その後、日本鋼管と川崎製鉄所は2002(平成14)年9月27日に合併し、JFEホールディングス株式会社が誕生したのです。
その合併の時には、鶴見で働いていた従業員が福山や千葉方面へと流れていき、鶴見の従業員は少なくなっていったとのこと。あくまで聞いた話なので数は正確かはわかりませんが、合併前後では従業員は2万人から1万5千人ほどに減ったとも聞きました!
▲本町通商店街の脇にある立ち飲み屋
今も本町通商店街の脇にはこのような立ち飲み屋がありますが、数十年前の本町通商店街が栄えていた頃には、角に行くごとに飲み屋があったなんて話もあるほど飲み屋さんはこの辺にたくさんあったそうです。
何で入船カフェーや本町通商店街は寂れていったのか。私の知り合いに今もJFEで働いている方がいるのですが、彼に聞くと、単に工場労働者の方々が減っただけではなく独身寮の位置も関係しているのではという説を唱えてくれました!
▲無数の飲み屋がある川崎駅前の銀柳街
というのも、現在ではJFEで働く方々は鶴見周辺ではなく、川崎駅前にある飲み屋街の銀柳街(ぎんりゅうがい)で飲むことがほとんどだという。忘年会なども毎回銀柳街らしいんですね。
んで、川崎製鉄所と合併する以前は、鶴見の下野谷や花月園の近くなど鶴見周辺に独身寮が多かったそうですが、今は元住吉や武蔵新城など様々な場所に点在しているという。
そのため、多くの人が経由する交通の便がいい川崎駅で飲むのが便利ってことになるのだとか。これ以外にも様々な要因はあるとは思いますが、そのような理由もありJEFの人たちは鶴見から川崎へと飲みの場や遊び場を移していったと考えられるのでは。。
旭硝子に関しては詳しく調べるには至りませんでしたが、独身寮の位置や会社の経営状況などを見てみると何かわかるかもしれません。。
▲これから調査予定の鶴見三業地
今回は鶴見小野駅の近くという工場地帯よりの青線を取材しましたが、鶴見にはもう一つ歓楽街が今も存在しています。京急鶴見駅の近くにあり、「鶴見三業地」と言われたエリア。
今は外国人スナックなども紛れているようで、この街にもどんな歴史が眠っているのか、そして今現在はどんな街なのかってのはとっても気になるわけです!ってことで、またこの辺でも飲んだりして取材をしようと思いますので、後に記事化したいと思います(*’▽’)

おわりに

▲鶴見川からの夕日がなんとも・・
入船カフェー跡の取材を終えた後は、歩いて鶴見駅に向かって帰還。色々調べたり聞き込みしていることをまとめていたら、結構記事が長くなってしまいましたね( ;∀;)
そういえば、取材で聞いた話で「鶴見川から海側には行かないように!」という話が昔はあったという声を聞きました。そもそも、鶴見には高地に暮らす方々と低地に暮らす方々では差別があるなんてことも。
鶴見って普段は注目されない街ではあるものの、とってもネタが豊富で面白い街。今後も、鶴見は精力的に掘り下げていきたいと思います(*’▽’)

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市鶴見区本町通4丁目
アクセス JR鶴見小野駅から徒歩10分ほど
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