今回は、伊豆に取材に出かけたときに訪れたスポットに関する記事です。そのスポットは吉田松陰寓寄処(ぐうきじょ)という場所。吉田松陰を知っている人はほとんどだとは思いますが、その松陰が今回紹介する静岡県下田市にある蓮台寺という場所にゆかりがあるということを知っている方はあまりいないのでは。。というか、私も全然知りませんでした( ;∀;)
今回は、そのスポットに隠された歴史とここの係りの方の夢をかなえるべく実行しようとしている「吉田松陰投夷書返還大作戦」の事も記載したいと思います!
本記事のポイント
・ここは、吉田松陰が安政の大獄となる前に数日だけ滞在していた場所
・ペリーに渡そうとしていた投夷書は、ここの2階で書かれた
・スタッフの方が、親身にここの建物の経緯などを解説してくれる
見出し
まずは「吉田松陰寓寄処」の場所から!
その場所はどこにあるのかというと、上の図の場所にあります。って言ってもわかりづらいっすかね。寓寄処という場所は、静岡県下田市にあるため伊豆半島の南側に位置しています。伊豆急行の終点である伊豆急下田駅の一つ手前にある蓮台寺駅という駅が最寄り駅となり、そこから歩いて数十分の場所になります!
で、そもそも寓寄処ってどんな場所なんだって話ですよね!以下で紹介していきます。
今回このスポットに訪れた経緯
▲静岡県下田市にある「唐人お吉記念館」
いつもは事前に行くスポットを選定して1日の計画を立てて取材に行くわけです!ただ、実際に取材に行くと、長期遠征の場合なんかは特にそうなのですが計画がコロコロと変わってくるもんなんですね!そんで、今回のスポットも元々訪れる予定ではなかった場所なわけです。そもそも本来下田に訪れた理由は、お国のために人生をささげた「唐人お吉」の物語を学ぶべく唐人お吉記念館を訪れるためなのです。
そんな唐人お吉記念館で館内を周った後、記念館の方に話を伺っている際に出てきたのが蓮台寺温泉に関すること。そこには、珍しい形式の温泉があり吉田松陰と関係がある場所でもあるとのことを初めて聞いたわけです。ということで、その話を聞いて何かしら記事に出来ればと蓮台寺にある吉田松陰寓寄処に行ってみたわけです。
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実際に「吉田松陰寓寄処」に行ってみた!
下田駅周辺で行きたいスポットを取材した後、日が暮れる前に蓮台寺駅を降車しました。蓮台寺は名前も知らなかったし、降りるのも初めて。ここから歩いて20分ほどの場所に寓寄処はあるようです。
といっても、早朝から下田駅周辺を取材して周って結構体力的にも疲れてきたわけです。しかも、本日は7月の3連休でめっちゃくちゃ暑い。。汗ダクダクだし、荷物も重いし、しかも最近携帯の電池の持ちが悪くてこの時電源が切れていたんですわ。
この道をまっすぐ行けば着くはずなんですが、どのくらい歩くかをGoogleMapで調べることもできない状態。。こういう時に、真価が問われるのですな。。
疲れているからなのか、この道がやたらと長く感じました。歩いても歩いても永遠と続く道。帰りはそんなに遠く感じなかったのですが、行きはやたらと長く感じたわけです。。
こちらが蓮台寺温泉。ただ、今回の目的はここではなくもう少し東に行った(駅から離れた)場所に寓寄処配置しています。
そしてようやく寓寄処に到着。もうこのときは汗が超ダクダク状態。手前にベンチが置いてあったため、そこで少し休んでから中に入ることに。
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吉田松陰寓寄処の歴史とは?
そして館内に入ることに!中にお客さんは誰もいなく、スタッフの男性の方だけがいる状態!これは、マイナースポットだからこそ成し得る貸し切り状態というやつです!ということで、スタッフの方に色々歴史を説明してほしいということで、閉館時間ギリギリまでみっちり説明していただけましたので、ここから吉田松陰寓寄処がどのような場所なのかを細かく紹介していきたいと思いまっすぜ!!
外国へ行くために下田港で滞在!
松陰は、密航をしてとらえられるわけですが、なぜ松陰はそんなことをしたのか??
江戸時代は日本は鎖国をして外国とは関わらない状態だったわけですが、欧米列強の時代になり日本に開国を迫るようになってきたわけです。
松陰は、日本を強い国にして欧米の植民地にならないためにも他国がどのような国なのかなどの情報を得る必要があると考えたようです。そのために、何とかして外国に行くべく下田港に滞在していたベリーの船を使うことを考えた模様!!そこで、松陰は下田にある岡村旅館に泊まることになるのです。
皮膚病を治すべく蓮台寺温泉へ!
密航しようと下田で機会を伺う吉田松陰。しかし、松陰には大きなハンデがあったのです。それは疥癬(かいせん)という皮膚病。疥癬はヒゼンダニというダニが皮膚に寄生することによって発生する病気のようです。今では飲み薬や塗り薬があるものの、当時は薬などなかったでしょうからこりゃ苦労したでしょうね。。
そんな松陰の様子を見た岡村旅館の方!松陰に対して「蓮台寺温泉に良い温泉があるからそこに入ってきなよ!!」と温泉治療を促すわけです。そんなことから、松陰は側近の金子重輔と共に岡村旅館から蓮台寺温泉へと向かうことになったわけです。
こちらが、実際に松陰が入ろうとした温泉。今現在では誰でも入れるわけではなく、組合員の方しか入浴できません。ここに松陰がくる際には、周囲の方に見つからない様に夜中にここへ向かったそうです。
しかし夜中に訪れたということもあり、この近くに住んでいた村山行馬郎という医師の方がその物音に気付いて松陰たちを発見します。まさか、コッソリ温泉に入るはずが他人に見つかってしまうという一大事。もしここで怪しまれて幕府にでもチクられていたら、歴史は大きく変わっていたわけです!!
寓寄処で一週間程を過ごす
蓮台寺の温泉に入ろうとした際に、村山さんに見つかってしまった二人。ここで松陰は、村山さんを信じてここに来た本来の目的をすべてぶちまけます。密航をすべく下田に来たことから、皮膚病を治すべくここの温泉に入りに来たことまでの全てを。
ここからは、村山さんの意思次第で松陰の運命は決まってしまうわけです。幕府にチクれば松陰は一巻の終わり。しかし、村山さんは松陰の事を信じて誰にもその事実を話すことなく、彼の自宅に松陰と金子をかくまったのです。もし、村山さんはこの事実を黙っていたことがばれたら、彼も打ち首になっていたはず。それでも、松陰のことを誰にも話さなかった村山医師の判断は、後の松下村塾を開いた松陰の人生の陰の立役者だったわけです。
▲吉田松陰が浸かっていた湯船
この家に数日滞在することとなった松陰。彼は、村山邸にあるこちらの湯船に浸かっていたようです。ちなみに、この湯船にはとある先人の知恵が隠されているのです。詳しくはもうちょっと後で説明します。
ペリーに密航の意志を告げる「投夷書」
▲吉田松陰が投夷書を書いた書籍
松陰は密航をするために下田へ来たわけです。そして、村山邸に数日滞在することとなったわけですが、結果的には一週間滞在しました。ここは吉田松陰寓寄処(ぐうきしょ)という名前になっていますが、その由来はたまたまここに寄った場所だからという「偶然寄った所」という意味から名前がついています。
ここで暮らしていたときには、2階の部屋にいたそうです。今でも1階からは急な階段があり、それを登るとこちらの部屋に入ることができます。
なるほど、ここは周囲の環境からも見つかりづらかった場所なんですね。で、松陰はこの部屋で何をしていたのかというと、ペリーに密航の意思を伝える投夷書(とういしょ)という書類を書いていました!この記事では、この投夷書が大きな要(かなめ)となるのです。
▲実物の投夷書の写し
こちらがその投夷書。実はこれ、お父さんがイエール大学にある本物の投夷書のコピーを入手できたことによって今現在寓寄処にあるのです。ここには二人の名前が書かれていましたが、これは松陰と金子の名前。つまり、彼らはここには偽名を使っていたわけです。ってか、マジでなんて書いてるかわかんねぇ。。
下田に戻り、ペリーの船に乗ることに!
そして投夷書を書いた後、松陰は再び岡村旅館に戻ることに。その後、弁天島にてペリーの側近が一人でいるのを見計らい投夷書をポケットにねじ込んだそうです。
側近はその投夷書を見たものの、特殊な文で書いていたこともあり理解ができない。ということでその文を理解できるウィリアムスが通訳をしたものの、結局日本と条約を結んだばかりであるため、許可なく松陰を連れて行くことはできないということになり松陰は追い返されてしまいます。
そこで松陰は「密航をしたという証拠として残るのが嫌だったので投夷書を返して欲しいと伝えました。ところがどっこい、この文章を使って彼らは日本語を勉強したいと言い出して投夷書をアメリカに持って帰ってしまったのです。
安政の大獄のため、江戸に送還される。
その後、外国に密航できなかった松陰と金子は自首して下田奉公所に捕らえられることになります。その後は江戸や、地元山口県の萩などに送られて、最後は29歳の若さで安政の大獄により処刑されてしまいます。今考えたら、この方の人生はかなりのクレイジー人生であり、クレイジージャーニーとかに出れそうなんじゃないかとおもいますわ!
松陰が入っていた、珍しい形式の温泉
こちらは、先ほど説明したように松陰が入っていたと思われるお風呂。先ほど軽く触れましたが、ここではこの温泉の仕組みに関してちと説明していきたいと思います。この湯船は源泉かけ流し状態であり、浴槽の間に仕切り板があるようですね。ただこの温泉、普通の温泉とは異なり面白い工夫が取り入れられているのです。
その仕組みをここで解説していきましょう!ただ、図のクオリティがウルトラクソで申し訳ございません(笑)
改めて浴槽を説明すると、温泉が右側の浴槽にかけ流し状態で注がれており、浴槽に中心は板で仕切られています。ただここで大きく注目すべきなのが、中央で仕切られている板の底の部分!!図を見るとわかる通り、板は完全に浴槽を分断しているわけではなくあえて底の部分までは仕切られていないのです。。
▲よく見ると、仕切り板の底に隙間が
私が持っているカメラは水中に入れると速攻でぶっ壊れてしまうので、お湯ギリギリで仕切り板を撮影。真ん中に光がある関係で見づらいですが、下部に微妙な空白があるのが分かりますでしょうか??
実はここに空白があると知られたのはここ最近のこと。この寓寄処は数年前に改装をしているのですが、その時に浴槽を見て初めて気づいたそうです。それまでは完全に区切られていると思われていたとのこと。一体なぜこんな作りになっているのか?つまり、何で下部に空白を作ったのかということです。。これに関しては、あらゆる資料にも記載されておらずその理由はわからなかったそうです。
が、しかしその謎を解く鍵はあったのです!!
▲日本一の大きさの檜風呂がある「金谷旅館」
この寓寄処の近くで、ここから蓮台寺駅の方に進むと金谷旅館というだいぶご立派な旅館があります。ちなみに、ここは日帰り温泉の方も利用できる温泉で、私も帰り際に温泉に浸かってきたわけです。
そんな金谷旅館にも、何と先ほどの寓寄処にあった温泉と同じ方式の浴槽があったのです。その浴槽は、日帰り温泉の方は入ることができない内湯の浴槽ですけどね。。なので、私はその浴槽に入ることはできませんでした。しかし、ここなど下田の数カ所の旅館でその浴槽があったことにより、何故浴槽の下部に空白があったかが解明されたのです。
先ほども登場した図ですが、改めて浴槽はこのようになっています。右側部分に温泉が垂れ流されており、そのため右側の浴槽は結構熱いです。不通に入浴することができない程の温度です。そして浴槽内部はお湯の上部は熱くて、下部は温くなります。ここが大きなカギとなるのです!
浴槽の下部は温度が温くなり、右側に温泉が流れてくるので温泉下部では温い温度のお湯が左から右に流れるわけです。そうすると、左側の浴槽は右側よりも温度が低い浴槽になるわけです。つまり、この隙間の意味はお湯の温度を冷まして、入浴できる程度の浴槽を自然に作るための工夫だったわけです。わざわざ、冷水を入れて温度調節をする必要がなく、常に入浴できる浴槽を確保できていたわけです!先人の知恵は凄い!!
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アメリカにある投夷書を返還できないか??
今回の記事を書いたのは、ただ単にこのスポットを紹介するだけではなく、とある未解決問題を解決したいという願いもあって書いています。。ここからが冒頭で書いた「吉田松陰投夷書返還大作戦」に関する話です!そう、今回色々な事を話してくれたお父さんが話してくれた中で一番興味深かったのが、投夷書に関する話。
実は、松陰が村山邸で書いてペリーがアメリカに持って行ってしまった投夷書は、あれから150年近く経った今も現存しているのです。それは、日本ではなくアメリカのイエール大学にある資料室(図書館?)に眠っているとのこと。
NHKが番組で投夷書を取り上げてくれた
▲アメリカにある投夷書返還を夢見るお父さん
今から2,3年前のこと。NHKで吉田松陰を題材にした大河ドラマ「花燃ゆ」を放映。その影響で、この寓寄処にも多くの方が訪れたという。ここの寓寄処に来る方は基本的に高齢者が多いという。ただ、歴史好きな女性(いわゆる歴女)なんかも来ることがあるそうですよ!!
そして、ある時にNHKのディレクターの方がこの寓寄処を訪れて「知られていないことを色々と教えて欲しい」と言ったのだとか。その時に、お父さんが松陰の投夷書の話を詳しくしたわけです。
話した内容としては、松陰がこの村山邸で投夷書を書いていて、それをペリーに渡したものの密航は失敗。そして投夷書はペリーたちがアメリカに持って行ってしまったため日本にはないということ。そして、お父さんがその投夷書をなんとかしてここ下田に返還されることを願っているということ。
そんなことを話したところ「それは面白い!!」という反応だったようで、投夷書のことを番組で放映してくれたようなのです。しかし、放映はしてくれたもののその反響はイマイチだったそうなんですね。。。地元の方も投夷書に関してはさほど関心がなかったようなのです。。
投夷書はイエール大学に眠っている!
NHKの方達の努力により、投夷書は今はアメリカのイエール大学の資料室に眠っていることがわかりました。番組を作るにあたり、お父さんは投夷書を日本に返還できないかということを訪ねたようですが、それに関しては実現しなかったようです。しかし、NHKの「英雄たちの選択」のキャスターをやっている方が投夷書が眠っているイエール大学まで行ったようで、投夷書のコピーを一時インターネットに載せてくれたようなのです。
ということで、本物の投夷書を日本に返還することは叶わなかったものの、ネット上の投夷書をダウンロードしてコピーを入手することはできたわけです。ちなみに、ネット上に載っている投夷書は、今はもう削除されています。NHKの番組だけでは返還は叶わないのですね。。
投夷書はどうすれば返還できるか?
お父さんは「この投夷書は絶対故郷の下田にあるべきなんですよ!!」とおっしゃっていました。「実現するには政治家のような方々が動いたりしないとこういう話は難しいんかね。。」と言ってましたが、確かにNHKでも難しいのならばこれはそう簡単には叶いそうにないですね。
お父さんは下田市長の方など、色々な方面に話はしてみたもののなかなかこれに関して動いてくれる方がいないとのこと。NHKのキャスターの方がアメリカに行って、イエール大学の資料室には今も日本人の職員の方が働いているようなので、その方とうまく連絡が取れればとか??う〜ん、どうすれば実現するんでしょうか?
ということで、この記事を見て何かしら提案や賛同してくれる方などいらっしゃいましたら私宛に連絡をしていただけると嬉しいです。私はとりあえず発信するなど手当たり次第アクションしてみようと思います!!
おわりに
色々長い間お父さんと話し、その間にはPCやらスマホやらを充電させていただいたりと大変お世話になった今回の訪問。すぐには無理でも、お父さんの夢である投夷書の返還をどうにかして実現できれば、知の冒険を続け、陽の当たらない物語などを発信してきたかいも少しはあったかと思えるのではと。。
参考文献
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詳細・地図
住所 | 静岡県下田市蓮台寺300 |
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開館時間 | 9:00~17:00 |
休館日 | 水曜日 |
駐車場 | 無料 |
電話番号 | 0558-23-5055(下田市教育委員会) |
アクセス | 蓮台寺駅から徒歩20分程度 |
リンク | http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/category/100100midokoro/110774.html |