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「 バー ニュー姫」の歴史にも迫った

呑んべ横丁に関しての歴史を聞いたところで、続いてはこのお店である「バー ニュー姫」の歴史に関しても教えていただきました。
「ニュー姫」がオープンしたのは今から49年前の1970年頃。ママさんは立石の出身であり、もともとは駅の近くで屋台をやっていたそうです。

その後、立石デパート商店会にある飲み屋「バー パール」の二階で「バー 姫」をオープン。バー姫を出して五年くらいが経ったときに、一階にある「バー パール」のマスターが山梨の親が亡くなって資産をもらったから立石で別の場所に喫茶店を出すことになったらしく、「ママ、一階でお店出さない?」と言われたため、譲渡金200万円で購入して一階でお店を出すことになったという。
もともとは「姫」というバーでしたが、一階に降りてきたときに「ニュー姫」としたんだそうですよ!!
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「呑んべ横丁」の由来は?

この「呑んべ横丁」という名称はどのようにしてつけられたのだろうか?
ママさんから聞いたところ、この名称はただの愛称であってここの正式名称ではないのだという。ここの本当の名称は「立石デパート商店会」。先ほども書いたように、ここは洋服屋やかばん屋などの日用品を扱う個人商店であったためそうつけられたという。

ただその個人商店だった商店街が飲み屋街になってくると、共同トイレの悪臭などからしだいに 「ションベン横丁」と言われるようになってしまったそうな。。
「ションベン横丁」なんていうあだ名がついてしまったことを何とかしようと、当時この商店会にいた5,6人で今も残る『呑んべ横丁』の看板を作成したんだそうです。
ただし、そのメンバーもお店をたたむなどしてここを去っていき、命名したメンバーの中で今もここにいるのはママさんのみなんだとか!

今も店内のカウンターにはこんな絵が掲げられています。これはお店に来たお客さんが、お母さんが命名したメンバーの一人だったということを記念して描いてくれたんだそうです。
ママ「せんべろの街って言われているけど、うちじゃ千円じゃ飲めない。座ってお通し出したら千円だもん。そうじゃないと家賃払えない。」
立石が「せんべろの街」と言われるようになったのはここ6,7年のこと。日本テレビが駅の反対側のエリアが、焼酎二杯におつまみがついても千円で捌(さば)けると紹介して、立石に「せんべろ」が根付くようになったそうです。
だからこの呑んべ横丁もせんベロだと思ってお客さんが千円で飲めると勘違いしてやってくることが多いという。一人客はそんなのばっかだということもあり、一人客は基本的に入店させないのだそうです。
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かつては超儲かっていた!!

今では閑散とした呑んべ横丁。ところが、お店を始めてから平成の初期ごろまでは毎日がバブル。最初の方で書いた通り、立石には多くの工場があったことで、人でごった返しまくっていたそうです。
そのため、当時は肩がぶつかれば喧嘩になるという荒れ狂っていた時代。

それだけ人がたくさんいたため、今はママさんと従業員さんの二人でお店を切り盛りしていますが、当時はこの狭い店内で女の子とバーテン全部で8人もの人が働いていたという。
席は4人掛けのボックス席が三つとカウンター。「いらっしゃいませ」と言っただけで一万円札が飛んできたという、もはやわけのわからない時代ww
工場がたくさんあり、その男どもが群がった時代ではあったものの、一番お金を使ったのは佐川急便の人たちだったという。とにかく給料が良く、一晩で2万、3万は当たり前だった。
ただし、そんな時代も平成になって影を薄めることになるのです。
マツコの番組が店を救った!

高度経済成長期からずっと御客でごった返して儲かり続けた 『 ニュー姫』にもついにピンチが訪れます。周囲の工場が減り、景気が低迷して若い新規客も少なくなりかなり経営が厳しくなってきたのです。。
ママ「もうね、お店ってこういう感じでたたまざるを得なくなるんだな~って思ったの。でも、そのときよ、マツコの『おママの花道』に出演することになったのはね。」

そう、そんなピンチの時にたまたまNHKから『おママの花道』という夜の巷(ちまた)を徘徊する番組に出演することになったんですね!
そしてこの番組に出演したことで、それを見たお客さんがお店に来てくれて何とか一命をとりとめたそうです。

店内にあるこちらのボトルのうち、4,5本はマツコの追っかけさんのもの。番組に出たのは10年近く前になるものの、今でもお店に通い続けているんだそうです。
テレビの影響力ってやっぱすごいんだな~~。

その出演時のDVDがあるそうで、「じゃあお兄ちゃん、観てみる?」といってママさんがDVDをセットしてくれました。バーでDVD鑑賞することになるとは( `ー´)ノ

10年前ということで、ママさんちょっと若い!ただ、さすが長い間水商売で鍛えてきたコミュ力。何か一般素人が出演したとは思えないほど堂々とした演出っぷり!!

ただママさん、この番組以外にも多くのテレビや雑誌にも登場しているんですね。ママさんが取材を受けた雑誌はいくらかお店にも置いてはいるものの、数が多くていくらかはどこ行ったかわかんなくなったとか( ;∀;)
ちなみに、その後はテレビ東京の『アド街ック天国』にも出たそうですが、それを見て来店したお客さんは、「まけてくれ!」と、ひたすら値切る客ばかりだったそうです(笑)
現在は常連客でほそぼそと・・

ママ「今は若い子はいないよ。大手企業の社長や部長に連れてきてもらえるから飲めるんであってさ、一人では来ないよね。」
近いうちに取り壊されるということもあり、ここは写真を撮りに来る人が大変多いんだそうな。ということでポツポツと人通りはあるものの、お店に入ってくるお客さんはほんおわずか。多くの人が写真だけ撮って帰ってしまうという。。
なので、私みたいな30歳の一人客は本当に珍しいケース。
現在お店に来てくれる常連さんは、電通や全日空、タカラアーツの社長や専務などの方々。その中でも、小学館の方が一番多く訪れるそうです。
その方々は仕事を終えた後にお店にやってくるため、平日はお客がいるものの土曜になるとガラガラ。

そういえば、店内には「高倉健」と書かれた贈り物があるが、これはあの超大物俳優である本物の高倉健さんからのもの。日経マガジンの取材で実際に立石の街を案内したときに、「高倉健さんのことが好き」である旨を載せたら、建さんがそれを見てお忍びで来てくれたという。
お母さんの誕生日には、毎年大きな胡蝶蘭も届けてくれてたそうですよ(*’▽’)
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再開発により呑んべ横丁は姿を消す・・

昭和レトロ好きな光景を好む人たちにとって、時代の流れというのはなかなか酷なもの。昔の建物は消防法的にも問題があるし、そもそも老朽化の面でも問題が出てくるわけです。
そして特に都心部に多いのが街の再開発によって昔の街並みが消えるというケース。私も再開発によって見たかった昔の遺構が破壊されて拝むことができくなったケースが多々ありますが、それは立石も漏れずでして。。
駅周辺の再開発が計画されていて、呑んべ横丁にもタイムリミットが迫っているんですね。。

計画図はこんな感じだそうです。もう駅周辺の大部分を総じて破壊し、北側の旧赤線跡はロータリーにし、その他のエリアは役所を作ったり連続立体交差化を図るようです。

実は呑んべ横丁も生き残ってはいるんですが、それはもともとの半分。上の写真の手前側は私が取材した半年前くらいにぶっ壊されてしまったんですわ。。

そして、今残っている残り半分の呑んべ横丁もってあと2,3年。 ただ、飲み屋はなくなるわけではなく、ビル形式にしてそこに店舗が入るようです。

旧赤線地帯や立石仲見世商店街も含め、近い将来この景色が見られなくなるのは寂しくはあるものの、それも時代の流れで仕方ないことですね。。このレトロな景色やバー姫など、昭和な雰囲気を目に焼き付けていただければ私も幸いですわ。。
おわりに

立石で49年間商売をして来たお母さん。お店は二回訪問して数時間にわたり話を聞いたものの、まだまだこのお店で過ごした思い出は出し切れないぐらいたくさんあるんだろうな。。
あと2,3年でこのお店は無くなってしまいますが、それも時代の流れでありどうしようもないこと。なので、取材とは別に何度かあいさつしに行こうかな。
外見は怪しいですが、ママさんはとても人情のあるお母さんです。一見の一人客は断ることもあるそうですが、入りたい旨を伝えれば普通に入れてくれます。予算は二杯くらい飲んで3,000円くらい。。
こういう昭和レトロな商店街はどんどん開発でなくなっていき、見れる場所も限られてきています。もし記事を読んで気になった方はぜひ伺ってみてくださいね!
参考文献
詳細・地図
住所 | 東京都葛飾区立石7丁目1 |
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営業時間 | 18:00頃からお店が開きだします |
駐車場 | 無し |
アクセス | 京成立石駅から徒歩5分ほど |