今回は横浜の色街に関する記事です。今まで知の冒険では、吉原遊郭や鶯谷などの歴史などを調査して記事にしてきました。そんで、今回の対象は横浜です!
知の冒険で記事を書くにあたり、実は何度も訪れている横浜の色街。そこで得た様々な知識や歴史をここで一挙大放出したいと思います。ちなみにですが、私は風俗マニアではないので悪しからず!!街にはよく行くものの、お店にはほぼ入ったことはないので(笑)
あ、あとこの記事鬼ハイパー長い記事になりますが頑張って全部読んでみてくださいね!
本記事のポイント
・この周辺は、1859年の開港から長い色街の歴史を経て今に至る
・遊郭は火事により場所を転々とし、最終的には1958年の売春防止法の施行で消えた
・黄金町では、日本三大ちょんの間街ともいわれた違法売春街ができた
見出し
横浜の色街の歴史を探る
黄金町・曙町は非常にカオスというか様々なエリアが密集している地帯となっています。そして、そのエリアを色分けすると上図のようになっています。現在、遊郭跡とちょんの間エリアは姿を消していますが、その他は現在進行形なんですね。
これだけ狭い地域に密集しているエリアですが、その始まりは1859年の港崎遊郭(みよざきゆうかく)です。本記事では、まずこのエリアの歴史について港崎遊郭から順に説明していくことにいたします!
曙町・黄金町周辺の歴史の経緯を簡単に図にしてみました!
1859年の港崎遊郭から始まった横浜の色町の歴史は、上図のような経緯を経て今に至るようです!横浜だけではないですが、やはり日本は1941年から始まり1945年に終えた太平洋戦争が大きな境目となっているような気がします。
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横浜公園に作られた「港崎遊郭」
横浜の風俗史の原点は、ペリーである黒船が来航した1859年に遡ります。今では日本を代表する大都市となった横浜ですが、黒船来襲以前は閑散とした漁村だったのですね。黒船来襲で一気に活気がついた横浜には、日本人だけでなく多くの外国人も押し寄せました。
▲港崎遊郭があった横浜公園
そうすると、性欲の処理も必要ということで横浜に遊郭が作られました。その遊郭の名は「港崎遊郭(みよざきゆうかく)」。何と、その場所は横浜スタジアムがある横浜公園だったのです。
計15軒の遊郭があり多くの遊女がいたとのこと。しかし、当時は外国人を相手にすることを嫌がった女性が多く、遊女は横浜だけでは集まらず、生糸の取引として関係があった群馬県からも集めたという。
この港崎遊郭の誕生は、品川遊郭の岩槻屋の主人である佐吉が工事を担当。そしてそんな港崎遊郭の中でも一番大きな遊郭は、佐吉が経営する岩亀楼(がんきろう)だったという。1859年に誕生したが、1867年11月に豚肉を食べるお店で火事(豚屋火事)があり消失してしまったそうです。
▲横浜公園に残る唯一の名残り
そのため、当時の建物は残ってはいないもののその名残として唯一残っているのが岩亀楼の石灯篭。火事で400人近い遊女が犠牲になったことから、その供養としてか妙音寺というお寺に寄進されたものを横浜市が譲り受けたという。
石灯篭には、よく見ると「岩亀楼」という文字が彫られていました。火事で焼失したこともあり、建物が残っていないのは残念ですが、これだけ残っているだけでも幸いといったところか。
浅草の吉原を真似て作られた「吉原遊郭」
吉原遊郭というと、東京の吉原を思い浮かべる方もいると思いますが、横浜にもそう言われた遊郭があったそうです。港崎遊郭が火事で焼失してしまったための移転先として、今の関内駅の西側に作られた遊郭です。
▲吉原遊郭があった現在のエリア
しかし、遊郭だった時期は1866年から1871年までのわずか5年間だけでした。というのも、吉原遊郭も1871年に火事にあっていたからです。そんなこともありこの地域には遊郭の痕跡を確認することはできませんでした。
しかし、大人のお風呂屋が建っていることや、古い建物などを見ると何かしらの繋がりがあると感じてしまうのですがそれは気のせいなのでしょう・・。
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歌丸さんの地元でもある「永真遊郭」
▲かつては遊郭街の堀だったと思われる道
高島遊郭が焼失した後、1880年頃にこの永楽町、真金町へ遊郭が移ることになり、永真遊郭という名前がついたという。永真遊郭跡を歩くとわかるのですが、中の通りにはこのように間に街路樹が建つ広い通りが存在します。この通りは、当時の堀だと言われており今の吉原にかつてあったお歯黒溝のような役割を果たしていたという。
↓↓永真遊郭に関してはこちらに詳しくまとめていますので、よかったらご覧ください
永真遊郭という名はほとんどの人には知られていませんが、明治の頃から売春防止法が施行される1958年までかなり長い間遊郭として存在していたようです。この地を歩くと、今でもその名残ではないかと思う建物を多少ですが見ることができます。
こちらは、住宅街に突如現れたスナックの建物。まぁ後付けなのでこれは関係あるかわかりませんけどね・・。
こちらは、家の家紋でしょうか。時代の痕跡を感じる・・。
こちらもかなり古い建物のようですが、屋根にしろどうも遊郭時代の建物に見える。。
▲永真遊郭跡の隅っこに位置するラブ〇テル街
また、一角には複数のラブ〇テルが建つ場所も。関内駅からさほど離れていない場所ではありますが、周囲を歩いていると多くのカップルが車で訪れる様子を見ました。この遊郭跡は2度訪れたましが、夜には年齢層高めの熟年カップルや不倫カップル?のような方を多く目撃しました。
やはり、どうも普通の住宅街とは違い何かある度に遊郭跡の名残なのではないかと思ってしまう。。
▲毎年11月に開催される酉の市
また、ここには「金刀比羅大鷲神社(ことひらおおたかじんじゃ)」という神社も存在します。毎年11月頃には東京の吉原の近くにある鷲神社(おおとりじんじゃ)発祥である酉の市が行われているように、この神社でも酉の市が開催されます。この時は、普段では考えられない量の人が集まり活気が見られます。
吉原遊郭とこの永真遊郭で共に酉の市が行われるというのは、何かの偶然なのかそれとも訳があるのか。。
▲歌丸師匠が奉納者であることを示す玉垣が
その神社の奉納者の名前には、あの笑点でおなじみの桂歌丸師匠の名前が刻まれているのです。誰か別の人と同姓同名というわけではなく、これは本人の名前。
実は歌丸師匠は、この永真遊郭で育った方なのです。祖母が遊郭内にあった「富士楼」という結構大きな遊郭の女将であったという。当時の名残はほとんど残っていない場所ではありますが、まだ当時を知る世代は現存しているため、その歴史を伺ってみたいものです。
そして、この神社の淵に、「遊郭」という文字が刻まれた石柱が残っています。この柱は昭和初期に永真遊郭から大鷲神社へ寄贈されたもの。
永真遊郭は関東大震災以降は活気を失い、最終的には売春防止法が施行された1958年に遊郭が消滅して、今では閑静な住宅街となっています。元々遊郭だったという真実を知らなければ普通の住宅街に見えるであろう。しかし、そんな場所でも様々な物語が眠っているのでした。。
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黄金町の巨大違法売春街
続いては、黄金町のちょんの間に関するお話。黄金町のちょんの間は、日本三大ちょんの間として栄えていたほど大規模なちょんの間街でした。京急線の高架・大岡川に沿って連なったちょんの間は、2005年に壊滅するまで多くの男性を虜にしたのでした。
↓↓黄金町の歴史に関してはこちらに詳しくまとめていますので、よかったらご覧ください
大岡川を渡り、京急の高架下沿いへ移動する。このエリアが栄えていたころの活気を知らない私は、当時と今のギャップがどんなものか想像できない。しかし、今ではここを歩く人は本当にごくわずかでした。
▲日本三大ちょんの間街だった黄金町
ちょんの間の建物自体は今でも残されています。赤線跡を歩いたことがある人なら、このような景色を見たら一発でわかるでしょう。このエリアは、戦後は薬物や拳銃が飛び交う最悪の治安状態であり、その後に違法売春店ができるようになっていきました。
1946年から1958年までの間にあった合法の赤線地帯ではなく、ここは青線地帯だったという。いわゆる、非合法の売春地帯だったというわけだ。
昭和の時期は日本人女性が多かったものの、平成に入ってからは外国人女性が大半を占めるようになったという。そんなちょんの間は、2005年1月に神奈川県警の「バイバイ作戦」といわれる作戦により、終焉を迎えました。
それにより、このちょんの間街は壊滅し現在のような姿になったのだそうです。2016/11/21現在では、東日本に残っているちょんの間は川崎の堀之内にある数軒のみのようです。川崎でも、時折摘発が起きているようでいずれ消えゆく運命なのかもしれませんな。
そんな黄金町は、現在はアートの街に変貌を遂げている。風俗街からアートの街とはなんという変貌ぶりだろうか。。
▲アートの街に生まれ変わった黄金町
この街を歩くと、何ともわびしい気持ちになる。しかし、廃れた街や建物こそ時代は変わっていくということの証言者でもあります。現在の風俗街も、何十年も経てば跡地になりまた別の場所で風俗街が誕生することにもなるかもしれないですね。
曙町周辺の飲み屋街
曙町周辺は非常に多くの居酒屋、キャバクラが軒を連ねる。もう本当にたくさんあります(笑)
こんだけたくさんのお店がよくやっていけるなといつも思うものです。
スカウトらしきお兄さんや、キャバ嬢、中国人マッサージのおばさんなどなど様々な人種が交える、カオスな街っす。
この飲み屋街は、やたらと韓国料理店や韓国の品を扱ったスーパーが多いです。色々な背景があり、アジア系の住民が多いと推測されます。それもあってか、この辺りでは中国マッサージ店が多く、飲み屋のキャッチのお兄さんに交じって、マッサージ屋の実に勧誘してくる中国人・台湾人のおばはんが多いんですわ。
男一人で歩いていると、かなりの高確率で「オニイサン、マッサージ」「オニイサン、ノミイカナイ??」と声をかけられます。でも、多分ぼったくられるんで絶対に行かない方がいいですな!
飲み屋街は野毛のエリアや曙町の周辺など関内駅の西側に多く集中していますが、一方関内駅の東側にも飲み屋やキャバクラが多いエリアがあるのです。
というのも、上図の赤いエリアは神奈川県の条例で特定遊興飲食店営業の営業許可が出ているエリア。特定遊興飲食店営業の店とは、スポーツバー、クラブ、DJバーのような店ですな。このエリアに多いのはそんな理由で、このエリアから外れると綺麗に街並みが変わるものなのです。街の成り立ちには、このような背景もあるのですな。
続きはこちら!まだまだあるぞ、横浜の色街史!
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