幻の美術館だった菅原通済の建物が、熊澤酒造のレストランに移築されている!?

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

こんにちわ!

日本中の知られざるスポットを取材して記事にしている『知の冒険』。今回は、神奈川県の茅ヶ崎市にあるレストランを取り上げるんですが、それは熊澤酒造という酒造会社が営む「MOKICHI TRATTORIA」というレストラン。んで、そのお店の建物が素晴らしくて、数百年前に建てられたとされる古民家を活用しているんですね。

んで、この古民家は私の実家の近くにある常盤山文庫の建物だったということもあり、レストランだけでなく、常盤山文庫、そしてその文庫を設立した菅原通済という人物についても掘り下げて、この建物に眠る物語を深堀していこうと思います!

マジで今回の記事(わりといつもですが・・)、かなりマニアックな話なので需要があるかどうかわからんですが、コアな歴史としてはすごく面白い話なのでまとめます( ;∀;)

本記事のポイント

・熊澤酒造のレストランは鎌倉の常盤山文庫の建物を移築した!
・常盤山文庫を設立した菅原通済は、自動車道の敷設や鎌倉山の宅地開発なども行っていた。
・通済は大船への松竹撮影所誘致も行っていた

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数百年前の古民家がシャレオツレストランに!

今回紹介する熊澤酒造があるのがこちら。茅ヶ崎市内のJR香川駅近くに位置してるんですが、香川駅ってなかなか行く機会もないですし、何かのついでに行くというのはちょっと難しいかもっていうちょっと微妙な場所。。

そして入り口の様子からイタリアンレストラン感を全く感じられない、そんな外観ですよね。ずっしりとした門構え、そして中が見えない重厚感のある扉。。なんかちょっと敷居が高いようにも見えてしまいます。

でもでも、中に入るとこんな感じっす!

めちゃくちゃ古い古民家を活用しつつも、シャレオツ感は満載。一つ一つの柱(写真左側の柱とかめっちゃ太いっすよね)がとにかくぶっ太く、天井の梁(はり)も見事ですよね(天井は写真じゃ見えにくいっすけど・・)!

今はこんな木材手に入らないでしょうね。。

今回二階には上がりませんでしたが、上はどうなってんだろ・・

階段の手すりは、はめ込み未遂状態の木材はそのまま立ってますね。でも、これはこれで芸術的に見える気がする。

んで、こんな感じでテーブルが並んでいるんですが私たちもここに着席。改めてですが、一つ一つ太っとい柱が立ち並ぶ光景は実に豪快!!

梁(はり)が美しすぎてやべぇ・・

特に天井が素晴らしいですわ!

昔の江戸東京たてもの園とか、あとは国の重要文化財になっている古民家などの天井を見ると結構こういう梁(はり)をみられることは多いですが、綺麗に組まれてる光景がもうたまりませんわ~(*´▽`*)

後輩はルービー、私は運転のためノンアルコールの飲み物

ちなみに、今回は中学時代の卓球部の後輩と来店。いつもは一人で行動してはいるんですが、こういう洒落たレストランとか、ボッチ飯にはハードルが高い場合だと、たいてい彼を連れていきます。

激ウマだったカルボナーラ

そんで、おしゃれなパスタや、、

何ピザだったっけな?マルゲリータピザだっけな・・?

オサレなピザもいただきましたよ( ・∇・)

普段取材旅に出かける時は、ラーメンか歴史あるお店、純喫茶、町中華とか歴史ある場所、レトロな場所、ジャンクな物であることがほとんどなだけに、こうしたシャレオツなお店に来るのはマジでほぼ稀。。

もっと、オサレに生きないとモテないっすけどね( ´ ▽ `;)

ということで、「鎌倉にあった歴史ある古民家を活用したこちらのレストランに、ぜひ足を運んでいただければ!」ということではあるんですが、本記事はまだまだ終わりません(*´▽`*)

そもそも、この古民家は、鎌倉の常盤にあった「常盤山文庫(通済が集めた美術品のコレクションを収蔵していた建物)」の建物を移築しており、その常盤山文庫には菅原通済(すがわら・つうさい)という人物が大きく関与している建物なのです。

菅原通済って皆さんはご存じでしょうか??

私は全く知らなくて、割と最近知りました( ;∀;)

83歳のときの菅原通済
引用元:『通濟自伝 -歴代宰相・憲法秘話-』

菅原通済は明治27年に東京に生まれ、本人は菅原道真の末裔だと主張。

実業家としての腕は抜群で生ゴム貿易で財を成したほか、サンフランシスコ大地震に役立ったミリケン三角形鉄材の輸入販売で財を成すも、新橋、赤坂の花柳界に有り金をぶっこむなど豪快な金の使い方をするなど、ケッコー破天荒な人物だったそうです。

その傍ら、政界ともつながりがあり表には名前は出ないものの裏方、いわゆるフィクサーとしての役割が強かった方みたいです。

ということで、元々は鎌倉に由縁があったわけではなかった通済が、なぜ鎌倉に常盤山文庫という美術館を建てることになったのか?

その辺を掘り下げていければと思います<m(__)m>

鎌倉の住宅地にあった美術館「常盤山文庫」とは!?

熊澤酒造内にあるレストラン「MOKICHI TRATTORIA」の建物は、鎌倉の美術館だった建物が移築されているわけですが、その場所は私の実家からめっちゃ近い場所ということもあり、今回は気になりまくってしまっって結構時間かけて調べました( ´ ▽ ` )

ということで、その美術館「常盤山文庫」があった場所にまずは足を運びましたーー!

その場所は、地図で示すとココになります。この常盤山文庫跡地という地点は私がGoogleMapに登録したんですが、ここは通済が60歳のときに常盤山文庫を設立した場所なんですね。

そしてその場所に訪れてみると、今はこんな感じで封鎖されていました・・。この先に常盤山文庫があったんですが、残念ながら入ることはできず。。

ただ、この近くに住む方に話を聞くと数年前までは常盤山文庫の名残りと思われる石像的なものがちらほら残されて散見できたみたいです。が、今はそういうものは残っておらず・・。

熊澤酒造のレストラン『MOKICHI TRATTORIA』の建物は、ここ鎌倉市常盤にあった常盤山文庫の日祐庵の建物でした。日祐庵の建物に関しては、鎌倉市立図書館に所蔵されている『鎌倉常盤山あんない』という冊子に以下の記載がありました。

昭和三年四月五日、武州在金沢六ツ浦の郷土の旧家が大正十二年の関東大震災で大破したのを、この地に移した。
深沢の有力者沼上権太郎氏の好意により、大震災のために倒潰した同村内の百姓家の大黒柱二十七本を補足し、玄関は同村内の手広にあった鎖大師の庫裡にあった物を譲り受けたものである。

引用元:『鎌倉常盤山あんない』 常盤山文庫出版部 発刊

この場所は、通済が自宅を建てその敷地内に常盤山文庫を設立したようです。もともと実業家で財を成した通済はこの土地を買い美術品を収集したことで常盤山文庫を設立し、美術館として無料で一般公開もしていました。

電柱チェックは遊郭調査のクセっすね。。

あと、この場所にあった電柱のプレートにふと目をやると、「文庫支」って書いてました。多分これは常盤山文庫から来てるんでしょうね!

こんなところにも名残りが残ってるとは・・。

何でこの看板だけ取り残されてんだろ?

そして、上を見上げると「三貴園」と書かれている看板が残されていました。

あれ?ここは常盤山文庫の場所じゃないの?

三貴園って何?

ってちょっとわけわかんなくなったんですが、恐らくこの敷地が三貴園という施設で、その敷地の中に常盤山文庫があったと解釈しています。本当かはわかりませんが。。

んで、三貴園についてですが、ググってみると「三貴園は料亭として営業されていた」という情報が出てきまして、それは『鎌倉市商工名鑑 1996』からも垣間見えるので事実の様です。

この三貴園については、いつ創業していつ閉業したのかなどが謎ではあるものの、以下の先人の方のブログによると1999年頃に料亭は閉めたみたいです。

ということで、推測も含めて常盤山文庫と三貴園の簡易的な年表を作ると、以下みたいな感じになりますでしょうか。

常盤山文庫・三貴園の年表(推測)
1928(昭和3)年
横浜の金沢市六浦にあった古民家を移築して日祐庵とした。
1936(昭和11)年
福島県三春にあった堂坂観音堂を移し、観音を安置。
1954(昭和29)年
自宅の敷地内に財団法人常盤山文庫を設立。
道坂観音と共に収集した美術品を美術館として公開。
1965(昭和40)年頃
自然庭園?料亭?の「三貴園」が開業したと思われる。
1981(昭和56)年6月13日
菅原通済死去。
1999(平成10)年頃
料亭「三貴園」閉業?

ただ、『鎌倉市明細地図 昭和41年』の地図には三貴園の名称が残っているのでこの時には開業しているとは思うんですが、そもそも三貴園は最初から料亭だったのかどうなのか?

といういろいろな謎が残りはしますが、三貴園についてはこのくらいにしておきましょうか。

ということで、三貴園の敷地内にある常盤山文庫の建物を移築したのがレストランの建物なわけですが、そもそも通済が縁もゆかりもなかったこの地に土地を買ったのは何故なんでしょうか?

そこを深掘りすると、さらに面白い歴史が出てくるんですね。

日本初の自動車専用有料道路を敷いた

縁もゆかりもなかった鎌倉に常盤山文庫を建てた菅原通済。

ただ、彼はそんな鎌倉周辺の場所にて「鎌倉山の宅地開発」「日本初の自動車専用有料道路を敷いた」という事業まで成し遂げているんですね。通済に関してググって検索すると、この二点をまとめた記事もたくさん出てきますヨ。

んで、この章では自動車専用有料道路について書きたいと思います!

今回の記事を書くにあたり、彼の書籍『通濟自伝』をネットで購入したり、あとは鎌倉市立図書館で資料を漁ったことである程度の内容を把握したんですが、彼が自動車専用有料道路を敷いたのには、以下のことが背景にあったみたいです。

たまたま、日清汽船の森社長の計画していた土地が百万坪ばかり大船から鎌倉、江の島周辺にあるが金策に困っている、とのことに全部買い占めた。二足三文の宝石、古美術も買いあさってうまく成功した。

「通濟自伝」-歴代宰相・憲法秘話-p79

残りの金で鎌倉常盤山にバカデカイ住宅を建て美術館を新築して常盤山文庫とし一般に公開する。鎌倉山一帯の住宅地には中央に専用道路を作って日本自動車道会社を起し料金を取って通行させることにし、土地は五百坪を最低の単位として売り出した。財界のほとんど全部から申込があって、やむなくクジ引きとして満株となったので鎌倉山住宅地会社を分離し、江の島電車、京浜バスなど交通網を統一してどうやら会社らしい形をととのえた。

「通濟自伝」-歴代宰相・憲法秘話-p.79

日清汽船の森社長とは森弁次郎という方なんですが、この方が土地を買ったものの森社長が金策に困ったために通済に話が回ってきたというのが考えられる要因だと思います。

日清汽船の森弁次郎社長が江の島に目をつけ、鎌倉駅から江の島電車を利用したり、藤沢から電車でいったりするよりかは大船から直接の方が早いので、電車会社が免許をもらいながら着工しない自動車専用道路を推進しようと計画はしていたのだが、
~(中略)~
世界経済恐慌の前夜であったから、なかなか資金が集まらず、苦心して東邦電力に救いを求めていた。たまたま神谷忠雄くんが鎌倉在住だったので、そのことをワガハイに話したのがキッカケとなり、次の計画をたてた。

引用元:『「昭和初期の理想郷 古き良き鎌倉山の姿」展』p.11

上記以外の資料をまとめると、日清汽船の森弁次郎社長が藤沢を経由しなくても江ノ島に行ける大船~江の島の道路を敷設する計画を立てたものの、資金難となり、神谷忠雄(南米移民会社代表、群馬電力の最高顧問などを務めた方)という人物から通済にこの話が伝わったことが背景にあるようです。

しかも、単にこの道路を敷くだけではなく大船~江の島間を小モデルとして東京-大阪間に自動車専用の有料道路を敷いてはどうかという、今でいう東名自動車道のような道路を敷く結構壮大な計画を考えてたみたいです!

この道路は地元だっただけに何度も利用してた道路ですが、まさかそんな壮大な計画があった道路とは思わなかったっすわ(‘ω’)ノ

あ、あと先ほど「通済が縁もゆかりもなかった鎌倉の地に土地を買ったのは何故か?」と書きましたが、これも森社長の影響だったんでしょうね。

んで、江の島−大船間の道路を地図上に敷くと上のようになるんですが、この道路は、現在は日本初の懸垂式(サフェージュ式)モノレールである湘南モノレールが走っているルートとほぼ同じ。

料金所に着く前に迂回路から脱出すればタダ・・
※「今昔マップ on the web」を元に作成

以前ブログにもまとめましたが、ここ道路が有料道路だった時代は、数カ所に料金所が存在していてそこで料金を徴収する仕組みでした。ところがどっこい、この道路は今の高速道路とは異なり十字路が何箇所も存在していたことから、料金所を通らないように迂回して道路に侵入することが可能であり、迂回すればタダで走れたそうです(笑)

昭和33年に寺分の坂から深沢に下る光景

この自動車専用有料道路、田んぼが広がる場所や崖を切り開いて作っており昔は上の写真の様な光景のなか、車が走っていたみたいです。

深沢~西鎌倉間の道路

ところが、今となっては普通の道路になっていて、かつてここが自動車専用有料道路だったとは思えない光景になってます。

目白山下~江の島間の道路

とはいえ、その道路の一部はこんな感じで歩道が整備されていない場所が多いな~とは感じるので、これも自動車専用の道路だった名残りかもしれません。

かろうじて「KHK」の文字が伺えますね

あとは、京浜急行電鉄の略称であろうKHKと刻まれた道路境界杭が数カ所に残されている程度ですかね。

この道路境界杭、真夜中に自動車専用有料道路だった道を一人歩き続けて見つけましたよ。。マジで不審者(笑)

既に取り壊された陸橋

あとはこの陸橋も懐かしいですね。

こちらは横須賀線を跨ぐために作られた陸橋なんですが、(老朽化とか歩道がないとかそういう理由で)取り壊されて新しい陸橋が出来たため、上の写真に写ってる道路はもう無いんですよね。。

という感じで自動車専用有料道路について紹介したわけですが、菅原通済はこの道路を敷くにあたりあることを思いつきました!!

それはなにかというと、富士山や江の島を望める風光明媚な鎌倉山を見て

「ここを住宅地にしちゃおうじゃないかーー!!」

ってことでした!!

風光明媚な鎌倉山を住宅開発

上の章でもまとめた通り、「江の島−大船間に自動車専用道路を敷く」という話があり、この道路を小モデルとして東京-大阪間に自動車専用の有料道路を敷いてはどうかという話を考えていた通済。そんな彼は、ドイツ人の貿易商クルト・マイスナーと散歩していた時にあることを思いつきました!

それは、

「大船~江の島に向かう丘。中間の深沢から鎌倉にかけての丘。これは富士山、江の島、大島を一望にする天下の絶景だ。約百万坪?そのうち三十万坪ぐらいは、別荘兼住宅向きになる」

ということ!

道路を敷く話もあり、そのルートが風光明媚な場所を通ることから鎌倉山の開発を思いついたそうです。

鎌倉市の住民でもない限り、鎌倉山と聞いても鎌倉山ローストビーフくらいしか思いつかないかもしれませんが、今では分譲住宅があったり、いい感じのレストランもあったりという場所になっています。

鎌倉山は地図で示すとここなんですが、鎌倉市内でも大仏や長谷観音、鶴岡八幡宮がある観光地からは少し離れています。とはいえ、風光明媚な丘陵となっていることから景色はバツグン。

富士山がかすかに見えますね

この写真は、すでに閉業した鎌倉倶楽部いう日本料理のお店からの景色なんですが、富士山や丹沢山地などが綺麗に見えるんですわ!こうした風光明媚な場所だったこともあり、通済はここを分譲住宅地として開発したわけです。これは昭和3年、通済が34歳のときでした。

つまり、今でいう電鉄の不動産業進出の先駆け的なことを彼はやってたんですね!

引用元:『叢談 鎌倉山』 不動健治著

元々未開の地だった鎌倉山ですが、こちらの昭和七年の住宅図のように、政治家や映画俳優などがこの地に別荘を建てるようになり、一気に鎌倉山は人気の別荘地となりました。

今ではその時代の名残りは少ないものの、菅原通濟の父親で鉄道王として知られる菅原恒覧(つねみ)の元別荘で、今は蕎麦処となっている檑亭(らいてい)、あとは「ワカモト製薬」創業者の長尾欣彌(ながお・きんや)の別荘である扇湖山荘などの建物が今も残されています。

扇湖山荘はめちゃんこ素晴らしい建物で、かつては美術館などで一般公開していたものの、今は公開されてないんですよね。今後公開されることがあるのかわからんですが、

ということで、鎌倉山は以上の背景があって宅地開発されました。んで、今でもその歴史を語り継ぐ痕跡が鎌倉山にちょこっと残されているので、それらをパパッと紹介できればと思います(*´▽`*)

そのうちの一つが、鎌倉山にある三差路の中心にあるんですよね。上の写真の通り、一本の柱が建っているんですが、これは関東大震災で倒壊した鶴岡八幡宮の鳥居として使われていたもの。

柱には菅原通済の名が刻まれてますね

この碑をよく見てみると、今回の記事の主人公でもある菅原通済の文字が刻まれてるのがわかります!

柱の麓にある鎌倉山について書かれた碑

こちらの碑には鎌倉山の住宅地が誕生した背景について、通済が記した文章が刻まれています。ここの碑にも、もちろん通済の名が!

ここにも通済の名が刻まれていますね!

ちなみにこの碑には「昭和四十四年二月十一日 建国記念日」と書かれていますが、これは通済は建国記念日審議会会長を担っていたこともあり、建国記念日の制定に寄与していたことからでしょうか。

あと、鎌倉山の道路沿いにも『鎌倉山記』という碑がありまして、、

通済の文字だらけっすな( ;∀;)

こちらにも、通済の名が刻まれていました!

という感じで、自動車専用有料道路の敷設や鎌倉山の住宅開発を成し遂げた通済。自動車専用有料道路の記事は以前書いてますが、鎌倉山の住宅開発に関してはもっと深ぼった記事を書きたいなとも思っています。

とはいえ、マニアック過ぎて需要があるかはわからんですが。。( ;∀;)

大船の地に松竹撮影所を誘致

あと、ちょっとこの話はオマケになるんですが、これも菅原通済が絡んだ話だったということで紹介します。

日本初の自動車専用有料道路を敷いた通済ですが、その期間は先ほども書いたように大船−江の島間でした。その起点となった大船というと、かつては田園都市構想があったものの銀行が破綻したことで計画が中止になり、その後は元々蒲田にあった松竹撮影所が撮影所に適さない場所になったということで大船に移転してきた背景がありました。

蒲田には大規模工場が新設され、工業化による騒音の影響から映画の撮影に支障が出てきたことなどで蒲田から移転の話が出たわけです。

この時の松竹の代表が城戸四郎という人物だったのですが、彼が撮影所の移転地を探していた時、城戸氏に撮影所の移転ちを大船に誘致したのが通済でした。

これは菅原通済のwikipediaでも書かれているように『小津も絹代も寅さんも 城戸四郎のキネマの天地』の書籍に以下の記述が書かれています。

「七万坪のあそこを買わない手はない」
菅原はしきりにそう言う。
「城戸さん、あそこを全部買い占めて、大船を夢のハリウッドの様な撮影所のある街にすればいい。大谷さんだって映画事業に乗り出された時、アメリカを真似て、そうしようって、考えられたらしいじゃないですか。」
それを言われては、城戸の気持ちは大きく傾いた。

引用元『小津も絹代も寅さんも 城戸四郎のキネマの天地』p.257

あとは、『撮影所のある街 大船物語』という書籍にも以下の記載がありました。

それらの情報を松竹にもたらしたのは、大船町に隣接する深沢村の丘陵を開発し、「鎌倉山」と称する別荘地にした上に、江ノ島から大船までの日本最初の有料道路六・八五キロまでつくってしまった菅原通濟という快男児である。

引用元:『撮影所のある街 大船物語』p.69

しかし通済は実業家であり正解太いパイプを持つ傍ら、住宅開発や道路敷設、そして撮影所の誘致などとにかくいろんなことをしていたんですね。こんなに多彩な人物だったなんて、ちょっとうらやましい(*´▽`*)

引用元:『叢談 鎌倉山』 不動健治著 p.73

あと、先ほどの鎌倉山の話に一瞬戻りますが、鎌倉山住宅地設立準備組合発起人を見てみると、城戸四郎の名前が入ってました。

どういう流れから城戸氏の名が入ったのかまではわかりませんでしたが、鎌倉山の開発も松竹の移転も昭和初期と同じ時期だったので、撮影所移転の話から城戸氏もこの地の住宅開発に興味を持ったのか、通済との関係から名が入ったのか、そのどっちかなんでしょうか??

1927~1939年の大船駅周辺の地図
※「今昔マップ on the web」を元に作成

かつては大船競馬場だった場所は、、

1965~1968年の大船駅周辺の地図
※「今昔マップ on the web」を元に作成

上の地図の通り、松竹撮影所となったわけです!

名称が残る程度で面影はゼロ・・

そしてこの撮影所時代に、松竹は『男はつらいよ』『東京物語』などの名作を生み出しました。

とはいえ、今現地がどうなっているかというと、上の写真の様にその面影は全くないっす。跡地にはイトーヨーカドー、鎌倉芸術館、鎌倉女子大学がある感じです。名残りが何もないこともあって、この辺は小さい頃から何度も訪れていたのに、ココが松竹の撮影所だったなんて大人になるまで全く知らなかったんすよ。。

大正11年創業の老舗でした

今では大船の街も変わりに変わりまくり、近年では寅さんのポスターが店内に貼ってあり寅さんも足を運んだという中華料理店『でぶそば』は閉業してしまいました。。

『でぶそば』という店名は、かっぷくの良かった先代の愛称に由来しており、松竹の撮影スタッフや名だたる俳優さんたちが通ったお店だったんですよね~~。

看板メニューだった「寅さんセット」

寅さんこと渥美清さんもこのお店の常連であり、来店すると決まって、ラーメン、チャーハン、シュウマイを注文していたそうです。

そのため、寅さんが亡きあとに考案したこちらの「寅さんセット」が看板メニューとなり、来店時も私はこちらを美味しくいただきました!!

『でぶそば』の店内に掲げてあった寅さん直筆のサイン

そんな店内には、『男はつらいよ』のポスターや寅さん直筆のサインもあったんですよね。ひらがなverと漢字verの二つがありましたが、漢字のサインはあまり書かないとのことでレアらしいです!

そんなでぶそばは近年に閉店してしまいましたが、松竹関係者が利用していた老舗蕎麦店『浅野屋』がまだ営業してくれているのが救い。

大正11年創業の老舗っす
浅野屋の店内にある撮影所の絵

ここは店内に松竹撮影所の全景を描いた風景が残されているなど、かつて大船に松竹撮影所があった歴史を語り継いでくれています。

小津安二郎の定宿だった茅ヶ崎館

あとは、茅ヶ崎駅には大船に松竹撮影所が移転してきたことから、有名映画監督の小津安二郎氏が映画の脚本などを描くための定宿として利用していた明治年創業の老舗旅館「茅ヶ崎館」が今も営業を続けていたりします。

この旅館、ホンマにマジもんで素晴らしい旅館ですので気になった方はぜひ泊まりに行ってみてください( ・∇・)

という感じで、どんどん話が膨らんでいって、元々何の記事だったんやねんという感じになりかねないのでこの辺でストップしますが、通済の話を深掘りしていくと、私の地元だった鎌倉のいろんな歴史に繋がってくるんですね!!

おわりに

以上になります!

一言で言うと、「数百年前の建物を移築したレストランがあるから行ってみて下さい!」という話なのですが、移築元が私の実家のそばだったこともあり、この辺の話が気になってましてね。。

今回は熊澤酒造のレストランから、鎌倉周辺のことと通済に関する話をザッとまとめはしましたが、また今度は鎌倉山、大船に松竹撮影所があった話なども各々の記事でまとめてみたいと思ってます!

ではでは、また次の記事でお会いしましょ〜〜!

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県茅ヶ崎市香川7丁目10−7
営業時間 《平日》
11:30~15:00(L.O.14:30)/ 17:30~22:00(L.O.21:00)
《土日祝》
11:30~15:30(L.O.14:30)/ 17:00~22:00(L.O.21:00)
定休日 火曜日、年末年始
駐車場 無料
電話番号 0467-52-6111
アクセス JR相模線・香川駅から歩いて10分ほど
リンク https://lit.link/mokichitrattoria

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