今回は、神奈川県にある色街に関する記事になります。
今まで、知の冒険では日本全国の様々な遊郭跡や色街史を書き連ねてきましたが、今回は神奈川県にある小田急相模原駅に関する色街史の記事なんすね。この小田急相模原駅って、今までまったくマークしていなかった駅なんですが、まぁ2000年頃はすんごい街だったようですわ。
ってことで、今回は全国的にはあまり知られていない小田急相模原「通称:オダサガ」の街にはいったいどんな歴史があったのか、発掘できる限りしてみたので以下に書き連ねていこうと思いますぜ!!
本記事のポイント
・小田急相模原駅は、第三陸軍病院が誕生したことで設置された駅だった
・2000年頃は「オダサガバブル」といわれ、ピンサロとキャバクラがひしめく繁華街だった
・現在もキャバクラやピンサロがあるものの、タワーマンションが建つ住宅街へと変貌
歴史好きのキャバクラ店長と運命的な出会いが!
▲小田急相模原駅のロータリー
小田急相模原は今回の取材をするために、生まれて初めての訪問。駅前にピンサロ(ピンクサロン)があることは知っていたものの、情報はそれだけであとはどんな街かわからなかったという状態からのスタートでした。
事前にGoogleMapとかで軽く調べていたものの、ピンサロ店はたくさんあるわけでもないし、ここは遊郭や青線など古くから色街の歴史があるわけでもなさそうなので、障子期待して情報は集まらないのでは・・と思っていました。まぁとりあえず駅に行ってみて散策くらいはしてみようって感じですかね。ところがどっこい、、小田急相模原の初回の探索で思わぬ出会いがあったんですね!!
▲歴史好きの店長さんがいるキャバクラ「MIRANDA」
それが、こちらのキャバクラ「MIRANDA(ミランダ)」というお店にての話。駅前を歩いていて、たまたまMIRANDAの前を通った時に、店員さんに声をかけられました。
店員「お兄さん、今日キャバクラどうですか。」
私「今日ですか!実は自分は、ブログをやってまして色々な街の歴史を調べていて歩いていまして・・」
店員「ほう、そうなんですか!ちょっと待ってくださいね!」
すると、奥から別の店員さんが現れました!
▲お店の前で一時間以上も歴史談義をした
その方はこのお店の店長の方。なんと、街の歴史とかそういうことがもともと好きだった方のようで、「いや~丹治さんってそういうこと調べてるんですか!面白いですね!この街はですね、ちょっとやそっとじゃ語りつくせないぐらい色々ありますよ!」
そう言って、まさかまさかキャバクラのお店の前で店長の方と1時間以上この街について話すことができました!!キャバクラの店員さんからこんなに色街の歴史を聞けるとは(*’▽’)
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▲MIRANDA(ミランダ)の店内
このキャバクラの店員さん達、店長以外の方も含め皆がとっても親切な方たちで本当に親しみやすい店。まさか小田急相模原でこんな出会いがあるとは思いもよらず、次回また訪問してもっと詳しく話を聞くことを約束して本日はこの街を後にしました!!
そしてそれから二週間後、再び店長さんから話を聞くためMIRANDAを訪問することに。「あ~丹治さんどうもどうも!今日はね、色々じっくり話しましょうか!!」そういって、お店の中に通されることに!
▲ただでは申し訳ないのでお酒も飲みながら・・
私、色々風俗街の歴史を取材しているものの、キャバクラに来店したのはこれが初めて!ってことで、店長さん、そしてキャバクラの子からも、小田急相模原にはいったいどんな歴史が眠っているのか、そしてキャバクラという世界に関しても聞くことが出来たのでその辺を書いていくことにしましょう!!
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軍部の街として発展してきた小田急相模原
まずは小田急相模原という町がどのようにして誕生したのかについてです!店長さんから聞いた話と資料などで調べた話をまとめて説明したいと思います。
負傷兵士の病院のための駅だった!!
※「今昔マップ on the web」を元に作成
小田急相模原駅が開業する以前の街はこんな感じでした。周囲は養蚕業者などが多く、桑などの畑地が広がっている感じで、人工的なものはそんなに建っていない閑静な街って感じだったようです。
▲日中戦争の負傷兵のために建てられた病院だった
そんな街に目を付けたのが軍部でした。
今の小田急相模原駅は、誕生した時の駅名は「相模原駅」でした。この相模原駅が出来たのは1938年のこと。この時代は、1937年に発生した日中戦争によって、東京からそこまで遠くなくしかも人里から離れている場所に戦争でケガをした兵隊さんを隠しておくための病院が必要になったようなんですね。
そこで軍部は小田急に目をつけていたようで、相模原駅の場所に第三陸軍病院を作り、その年(1937年)の3月1日に駅を作ったのです。つまり、この駅は軍関係の病院が出来たことによって誕生したんですね!
※「今昔マップ on the web」を元に作成
日中戦争以前の1936年には、今の座間キャンプがある場所に、牛込にあった陸軍士官学校を座間村へ移転するために軍が土地を買い求めていました。また、小田急に関しては最初に狙った線路コースは、集落に近い台地でした。しかし、「駅が出来れば付近が発展して、発展すれば自分たちの大事な桑園がつぶされる」と考えたことで、金持ちで有力者の蚕種業者がこぞって反対。
そのため、小田急は集落からはるかに離れた東の大地へ追いやられたのです。しかし、相模川の清流を越えて阿夫利・丹沢の霊峰を仰ぐ絶好の見晴らしのこの地が目に留まり駅が作られ、そして軍の施設も作られていきました。
▲天皇陛下のために作られた行幸道路
小田急線に並行して通っている県道51号線は、今も「行幸道路(ぎょうこうどうろ)」と言われていますが、これは座間キャンプに天皇陛下が訪問するために曲がりくねった道を直線に整備したからとのこと。
▲案内板にも「行幸道路」の文字が
この「行幸道路」という名前が地元でどの程度普及しているのかは不明ですが、実際に案内板にもちゃんと書かれていることから、認知度の高さは伺えます。
※「今昔マップ on the web」を元に作成
第三陸軍病院(現:県立相模原病院)→この病院の誕生によって小田急相模原駅が出来た陸軍士官学校(現:座間キャンプ)→ここに天皇陛下が訪問するために行幸道路が作られた。さらには小田急相模原の隣の駅名である「相武台」も、天皇陛下の訪問によってつけられた地名。米軍ハウス(現:米軍住宅)→座間キャンプなど周辺の米軍基地の方々のための住宅
↑先ほどの地図を整理するとこんな感じです。戦後には米軍が駐留する米軍ハウスが誕生し、軍関係の施設が多い街となったわけです。
そして、軍関係の街として発展してきた小田急相模原駅には周辺に飲み屋などの歓楽的要素も増してくることになります。
この小田急相模原では、戦後から1990年代後半までの間、どのような街だったのかに関して詳しいことは不明ですが、青線などのようなモグリの風俗店があったのか、パンパンガールのような立ちんぼが立ち並んでいたのか、その辺は今後さらに深掘りする必要がありそうです。
ただし、かつてオダサガバブルといわれてキャバクラやピンサロだらけだった繁華街として発展したベースは軍関係の施設が集まってきた背景があったというわけですね!では、少し時代を吹っ飛ばして2000年頃の最盛期に話題を移すことにしましょう。
続きはこちら!ピンサロ街として一時代を築いた狂乱の時代とは!
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