今回は、千葉県銚子市にあった遊郭街である『松岸遊郭(まつぎしゆうかく)』に焦点を当てたいと思います。以前は『田中』という銚子にあった旧特飲街に関する記事を書きましたが、そこは遊郭という国公認の売春街ではなく、私娼窟として古くから栄えていた街。
今回は、遊郭として栄えた松岸に関してです。実際に現地を訪問し、銚子市民の多くの方への聞き込み・文献資料などから、松岸遊郭を掘り下げてみたいと思います!
では、いってみましょ~(*’▽’)
本記事のポイント
・松岸遊郭は。利根川水運が発達するとともに誕生した
・第一開新楼と第二開新楼が代表的な遊郭であり、豪華な外観から龍宮城とも言われた
・現在は閑静な住宅地となっており、第一開新楼の中庭だけ残っている
見出し
まずは、銚子の色街の全体像から!
まず最初に、銚子の色街に関して整理しておきましょう。代表的な色街としては、松岸遊郭、田中特飲街、南町の三か所です。銚子は舟運が主要な交通手段だった頃に栄えていたため、遊郭や私娼街も誕生しました。
▲利根川から見る松岸遊郭
遊郭としては、利根川沿いの一廓にあった今回紹介する松岸遊郭がありました。利根川に面していたこともあり、船からそのまま遊郭へと上がるなんて客もいたようです。あと、遊郭としては本城町にも本城遊郭がありましたが、早いうちに無くなってしまったとのこと。
▲閑静な飲み屋街となっている田中
松岸・本城は遊郭ということで、公的な売春街ですね。一方、公的ではない私娼街も存在しており、それは以前に紹介した田中という街なのです。地元の方でもこの街のことを遊郭街という方が多数いらっしゃいますが、資料を見る限りそれは間違いで、公的に認められているエリアではないので遊郭街ではなく私娼街です。
ただし、戦後は赤線となり、いわゆる特殊飲食店の設置が公的に認められたエリアだったそうです。今もだいぶ閑静ではありますが、スナックやバーが立ち並ぶ街になっています。あと、最近は南町という田中から少し南に行ったところにも飲み屋が建ち始めていたりします。
銚子の色街をざっと紹介するとこんな感じですかね!
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松岸遊郭を学んでいこう!!
ざっと銚子の色街史を学んだところで、本題の松岸遊郭がどんな遊郭だったのかという所に話を移しましょう!どのように誕生し、どのような終わりを告げたのか・・。まずは、誕生の歴史について!
松岸遊郭誕生の歴史
▲二十七番札所である飯沼観音
千葉県の一番東に位置する銚子市。その銚子の歴史は、市内にある飯沼観音が坂東三十三観音札所巡りの二十七番札所になったことから栄えだすことになります。坂東三十三観音の納経者が往来することで人が増え始め、この近くにある田中町付近に遊女屋が出来たことが銚子の色街の大きなきっかけになります。
▲屋号や苗字に紀州の名残がうかがえる
その後、江戸時代になると紀州の出稼ぎ漁夫達が黒潮に乗って住み着いたことがキッカケで漁業として栄えることになります。彼らは、イワシの豊漁を目指して、干鰯景気を生むに至ります。
銚子の家号と名字を見てみると、紀伊半島辺りの地名に関する名前がとても多く、銚子市内に熊野神社や西宮神社があることなども確認できるんですね!これは、調子に限らず、同じ房総半島の館山や勝浦も同様。勝浦タンタンメンで有名な勝浦は、和歌山県の那智勝浦が由来となっているという説もあるくらいですので。
▲利根川沿いに遊郭が出来始める
その後、利根川の水運が開くことになり東北米の廻送(かいそう)や銚子の水産物・醤油などを運ぶことで江戸と緊密に結びつくようになります。そして、この利根川の輸送をきっかけに、松岸遊郭と本城遊郭が誕生することになります。そう、銚子には松岸以外にも本城という利根川沿いの町にも遊郭があったそうです。
本城遊郭が誕生したのは1713(正徳3)年11月であり、廃業したのは1911(大正元)年12月。最盛期には五件の遊女屋に二十五件の引手茶屋があったそうですが、天保11年、嘉永2年、文久元年と三度火災にあったことが衰退の大きな理由だったそうです。
だが、本城遊郭よりやや前(詳しい年月は不明)に開創した松岸遊郭は、明治、大正になってもその名は全国に知られる遊郭でした。それには、利根川水運が衰退した後も遊郭の経営者であった宇野澤による経営努力があったのです!
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龍宮城といわれた第二開新楼
▲利根川から眺める松岸遊郭
続いては、具体的に松岸遊郭に関して学んでみましょう!
上の絵葉書は、利根川から松岸遊郭を眺めた景色。松岸には第一開新楼と第二開新楼という大きな遊郭があり、特に第二開新楼は利根川の河畔に突出しており「龍宮城」と呼ばれていたそうです。利根川からも、は大きく存在感は抜群でした。
ちなみに、第一開新楼と第二開新楼があった場所は上の地図の通りです。先ほども書いたように、1700年前後に利根川水運の発達によって松岸遊郭は誕生しました。その後、五軒の遊女屋(遊郭)が安定して存続していたものの、明治、大正になると利根川水運の衰退とともに遊郭の経営も下り坂に。。
昭和に入ると、貸座敷(遊郭)は二軒のみになります。上の地図は1935(昭和10)年の松岸遊郭の様子です。貸座敷以外には引手茶屋や酒屋さんなどがあったようですね。さらに入り口には東側と西側には赤レンガの大門があり、日が沈むと大門のガス燈が灯っていたという。
また、郭内には引手茶屋の並びに検査所も置かれていました。1935(昭和10)年に千葉県では娼妓検ばい検査規則を制定しており、花柳病を取り締まるため娼妓たちは毎週一回は検査を受ける必要がありました。お医者さんは、銚子の方からやってきたという。
▲現在は閑静な住宅地となっている跡地
松岸では、古来の引手茶屋制度を踏襲しており、引手茶屋から客を送り込むのであって、妓楼では直接お客の取り扱いはしませんでした。
ここに訪れるお客さんは、八日市場、横芝、小見川、笹川など、さらには伊豆のマグロ船、波崎、外川、銚子の漁船など。ちなみに、地元の松岸の客は一切お断りだったとのこと。お客がたくさん来れば喧嘩も日常茶飯事。しかし、ケンカに関してはこの郭内には警察官は入らず、内部の人間で処理していたそうです。
▲豪華な作りだった第二開新楼
こちらの絵葉書に描かれているのは第二開新楼。二階建てで50ほどの部屋があった大きな妓楼で、四方に水を巡らしているそれは浮島のようで、朱塗りの太鼓橋や高さ二十尺ほどの中庭もあったそうです。
利根川からは水が引き入れられており、船でやってくる客はそのまま中庭にこぎつけるようになってもいたそうです。船からそのまま入れるなんて、京都にある伊根の舟屋みたい(*’▽’)
▲木造三階建ての第一開新楼
続いて第一開新楼がこちら。木造三階建で八十部屋あるとても豪華な造り。絵葉書には娼妓の女性三名が描かれていますね。廊下から外を眺めているようですが、彼女たちは何を思って外の様子を眺めていたのだろうか。。
松岸の再興人だった宇野澤宇兵衛
▲第二開新楼に作られた中庭
本城遊郭が大正時代に終わりを告げたように、松岸遊郭も明治期の利根川水運が衰退していったことにより、その規模が縮小していくようになります。
その後、宇野澤は新盛楼を買収して、こちらを第二開新楼とし、この時には松岸にある遊郭は第一開新楼と第二開新楼の二軒のみになりました。そこで宇野澤は第二開新楼を増築に増築を重ねて目に付く派手な外観にしたのです。
それから、第二開新楼は「龍宮城」といわれるようになり、茶屋の数や娼妓が少なくなるものの、明治期の間も栄えていました。
▲開新楼の支店である銚子館
ただ、宇野澤宇兵衛は二軒の遊郭を経営していただけではなく酒屋も営んでいたそうです。その他には開新楼の娼妓たちを連れて東京などで女芝居の興行をしたり、
それだけではなく、銚子停車場には銚子館という旅館を建てたり、開新座という寄席も開業して芝居の興行も行っていたとのこと。この宇野澤という人物はそんな感じで経営者としていろいろ手を広げていおり、そのことが松岸遊郭が昭和になっても存続されていたといって過言ではないようです。
凄い経営者だったんだな~~。。
松岸で働いていた女性たち
▲松岸遊郭の名物だった『大漁音頭』
松岸遊郭で働く女性は銚子の貧しい農家・漁家や職人の娘が3分の2を占め、残りは隣接する香取、匝瑳・海上三郡の女性達によって構成されています。また、離れた場所でいうと東京からも何名かの女性が働きに来ていますが、これは銚子と東京が利根川水運によって緊密になったことが関係していたからだと考えられます。
▲縦軸は娼妓の人数
上のグラフは、1872(明治5)年に松岸村が提出した「新治県管轄第四大区小七区寄留総計」に拠る、松岸遊郭で働いていた女性の年齢構成です。年齢は、13歳~45歳と非常に幅が広いですね。
というか、13歳って今でいう中学一年生くらいの子ですよね。そんな幼い子が遊郭にいたとは、、もはや現代では考えられませんな。。( ;∀;)
太平洋戦争直前に無念の解散
▲廃業を翌日に控えた大阪の松島新地
日本中の遊郭に終止符が打たれたのは、1946年にGHQにより公娼制度が廃止されたことに起因します。その後は、遊郭という形式は無くなったものの、特殊飲食店という形式で売春を行うことになり、公的に特殊飲食店を設置していい場所は赤線と呼ばれました。
しかし、赤線に関してもその後の1958年4月に完全施行された売春防止法によって歴史に幕を下ろすことになります。日本全国の赤線地帯では、特殊飲食店が廃業し、その後は寮や旅館、さらには病院などに転業していくことになるのです。
日本中の遊郭は、多くはこのケースに当てはまりますが松岸遊郭は少し違ったそうです。この遊郭に終止符が打たれたのは1941(昭和16)年11月15日であり、この日に解散式を行うことになったのです。
その理由としては以下!
1. 女性が極度に少なくなった2. 手軽なお茶屋が、垣根(三軒)、本城(三軒)、田中(二十軒ほど)に現れた3. 戦争が始まる
大きな理由は、利根川水運が衰退して鉄道輸送が主流になってきたこと。松岸は銚子市の中心部からは離れていることもあり、水運が衰退したとなると立地的にも人の往来は極めて少ない場所なのです。
▲私娼窟として銚子の男を癒し続けた田中
そして、その他の理由としては田中など銚子の中心部に近い色街に人が流れていったことも大きく関係しています。大正時代に茶屋が誕生した田中では、1935(昭和10)年頃には芸者や酌婦斡旋業などの花街が形成され栄え始めることに。公娼である松岸とは違い私娼である田中は値段が安く手頃に遊べるということで、銚子の男どもは田中へと流れていくことに。
私娼と公娼があると、私娼の方が手軽でお客がそっちに流れていくケースは、神奈川県横須賀市の安浦(私娼)と柏木田(公娼)のように割とよくあるケースなのかな。
最後に、戦争とは1941年12月8日に開戦した太平洋戦争のことです。遊郭が戦争中に工場の人たちの寮になるケースは神奈川県の川崎遊郭などいくらか見られ、松岸の場合は二軒の貸座敷は軍事工場の工員寮になったとのこと。
続きはこちら!遊郭時代の中庭が今も残っていた!
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コメント
今晩は。30年前家系図調査士と言う勉強を
しました。先祖供養したくても銚子へ行けな
かった。銚子は父方の先祖が住んでおられました。
江戸時代などの情報はなかった。
一番遇ったのは第二次世界大戦で空襲でなんかも
消えてしまいました。市役所に納まった除籍謄本
が燃えてしまった。改制謄本なので悔し涙です。
山梨県山奥なら空襲遇わなくて古い物があります。
こんにちは
興味深く拝見させて頂きました。
この場所に同級生がアパートとして間借りしていましたので何度か遊びに行っていました。
アニメの千と千尋の神隠しを見る度に当時を思い出します。まるで小学校時代に見た光景と同じ!って
外から見上げる外観は、木造で3階建、手すりが付いた部屋が並んでいた。
(昭和40年頃は木造3階はここだけでした)
建物の中は中庭があって、中庭を囲むように配置された幅広い廊下。中庭には井戸もあり、その廊下の周りに配置されている部屋は幼いころの不思議な光景として残っています。
当時から”ゆうかく”と呼んでいましたが、小学生の頃は<遊郭>という漢字も意味も
分からない歳でした。
今、残っていたなら聖地になっているのでは?と思えるほどです。