宮崎県の有名漁港「油津」に、かつてあった遊郭史を探究した話Vol.2〜東遊郭の歴史

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今回の記事は、宮崎県の港町である油津(あぶらつ)の遊郭史、第二弾っす( ´ ▽ ` )ノ
前編の記事では、「あさひや」というお店に訪問することで、油津の遊郭史を知ることができたと書きましたが、今回は油津にあった2箇所の遊郭のうちの一つである、東遊郭に関してのお話です。

まずは、東遊郭の場所からや!

東遊郭は上の地図の青エリアの場所にあったようです。そもそも、油津になんで上の地図の様に離れた場所に2箇所出来たのか??
その辺の歴史はもう誰もわかんないでしょうかね。『あさひや』のお母さんからは東遊郭の話も多少聞くことが出来たため、この遊郭跡の周辺も散策してみることにしました。

痕跡が何も残っていない東遊郭跡

東遊郭があったと思われる場所を訪問っす。東遊郭があった油津港辺りは、昭和に入ったすぐのころは埋め立てされていなかったため、今の海沿いの道路は無かったようです。そのため、その当時は東遊郭の建物は海に面して建っていたとのこと。
昭和に入ったばかりのころには、『油津 海と光と風と』によると菊屋、大黒屋、丸山楼、布袋屋、石坂屋の五件があったそうです。
ここが遊郭跡だったという可能性を示すものとしては、これらの看板くらいですかね。「花街通り」と書かれた看板がかろうじて残っておりました。といっても、倒れてましたけどね( ;∀;)
ここのようです。ここが花街通りなんですって!ただ、ここが昔は花街通りということで、遊郭以外に料亭や芸者屋みたいなものもあったのでしょうか??
今はもう住宅街になっており、スナックなどの店も一切なし。ここを知る地元の方から聞くくらいしか方法はないのでしょうかね。
花街通りの端っこにも、看板がフェンスに張り付けられていました。ここももうちょっと調査時間があればここの歴史に関して聞き込みもできたかもしれないですが、、また今度ですかね。

東遊郭は京都の女性が多かった!

『あさひや』のお母さんの話だと、東遊郭にいた女郎は、京都から売られてきた方がほとんどだったとのこと。そして、売られた女郎の親は、飲んだくれてしまったり障害を持っていてろくに働けない親だった方が多いという。
なので、いわゆる家庭に問題があって借金を背負わされて、ここに売られてきたって流れかと。なんで、ここ宮崎県に京都の女性が送られるようになったかは謎ですけどね。。
そんな売られてきた女郎達の中でお母さんが知っている話としては、ある日ここに売られてきた二人の姉妹に関する話。妹さんには京都に恋人がいたが、油津に売られるため別れ離れになりここで働かざるを得なくなったのです。
お姉さんの方はかなりのべっぴんで、今回話したお母さんの知り合いの方と熟年結婚。しかし、その後は夫が病気か何かで働けなくなり、彼女が夫を養ったという。その時は、他の男と待ち合わせをして(目撃されている)飲んでいたという。そのおこずかいをもらうために飲んでいたのか、不倫をしていたかは不明。

東遊郭周辺に残った京都弁!

東遊郭の女郎が京都から売られてきたからか、その後このあたりに住んでいる子供は「うち」というように、油津では使わない方言を使う子が多かったというのです。実際に、女郎達が誰かに教えて広まったのか、京都から来たということで都会に憧れて子供達が女郎の方言を真似したのかは不明ですが、その影響だったと言われているそうです。
取材したお母さんによると、小学校などの小さい頃は、この東遊郭周辺に住んでいた子ども達は他の場所に住んでいた子供と違って、上で述べたように「うち」というようなあまり油津の人が使わない言葉を使っていた記憶があるとおっしゃっていました。

おわりに

今回は、油津にあった遊郭のうち、港の近くにあった東遊郭に関してまとめました。簡単にですけどね!次回の記事では、旭通りの遊郭史を書いていきたいと思います。

参考文献

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詳細・地図

住所 宮崎県日南市油津
リンク https://www.kankou-nichinan.jp/

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