かつて山梨県上野原市にあった紅灯の一廓「関山遊郭跡」を訪問し、その歴史を調査した!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
今回は久々の遊郭に関する記事になります。
今まで、全国の遊郭跡を調べては記事にしてきましたが、今回の記事は山梨県の遊郭だった「関山遊廓」という遊郭の記事です。
山梨県の遊郭だと甲府市にあった「穴切遊廓」が知られており、こちらはあまり知られていない遊郭ではないかと。そんな関山遊廓を調べられるだけ調べたので、以下にて書いていきたいと思います~!
本記事のポイント

・山梨県には甲府の穴切遊郭と上野原の関山遊郭の2つの遊郭があった
・関山遊郭は遊郭設置運動や中央線の工事に関わった方々の労務上の対策が背景としてあるらしい
・戦後は赤線になり連合軍が押し寄せる慰安施設となった

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関山遊廓ってどこにあったの?

山梨県の関山って言われてもいったいどこを指してるのかほぼわからないっすよね。。場所でいうとJR上野原駅の北側に位置しているのですが、まずは上野原がどこにあるかからっすね!
上野原は山梨県の東部に位置していて、神奈川県の県境にかなり近い場所に位置しています。甲州街道の途中にあり、昔は甲州街道の宿場町である上野原宿で栄えた場所でした。
多分大抵の方は、中央自動車道か国道20号線でスルーしてしまうエリアかと。目立った観光スポットも特にないっすからね~。
上野原のエリアを拡大するとこんな感じですわ!旧国道20号線沿いに上野原宿がありこの辺りが中心地でした。
そして遊郭はというと、赤く塗りつぶした場所で、もともとは桑畑だった場所に、新たに遊郭を作ったようです。中心地から少し離れた住宅地でもない平らな場所を開拓して遊郭を作るのはよくあるパターン!

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実際に行ってみた!

と、簡単な背景はこのくらいにして、実際に関山遊廓跡を訪問しに行きました。いつもは神奈川県外への取材だとレンタカーを使って移動するケースがほとんどですが、今回は珍しく電車移動っす(^O^)
ま、関山遊廓は上野原駅から徒歩圏内にあるので「電車でも行けるっしょ!」って思ったのでね( ̄▽ ̄;)
こちらが上野原駅。今まで中央線で東京-甲府間は何度も通過してましたが、この駅を降りるのは今日がはじめてですわ!
最近は南側を工事したようで、だいぶ立派なロータリーができております。
んで、私が降りるべきは南側じゃなくて北側!なんか先が行き止まりになっている珍しい作りになってましたわい。
駅を降りて北に進めば遊郭跡にたどり着くのですが、高低差があるので階段で上ります。30代に突入し、おっさん化した私には酷ですわ。。しかも夏真っ盛りってこともあってクソ暑いし。駅の反対側には桂川が流れているんですが、マジで飛び込みたい気分でしたよ( ̄▽ ̄;)
そんで歩くこと10分ちょい!ここから先が遊郭跡になるようです!ただし、私がたどり着いた場所は大門があった入り口ではなくその反対方向だったので、入り口側へと回ってから探索することにしました!!

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ほとんど名残は残っていない遊郭跡

ということで遊郭の逆側に回ってきました。こちらからが入り口になるわけですが、関山遊郭の入り口はL字になっており、上の写真を用いて説明すると、正面に見える角を曲がって進んで行った先に、大門があったとのこと。
▲かつて大門があった場所
ここっすね!この付近に入り口の大門があったようです。門をくぐると、左側には派出所があり、正面には大鷲神社(おおとりじんじゃ)があったようです。そして、遊郭内のメイン通りは大門を通った後にL字の角を曲がると現れます。
▲関山遊廓のメイン通り跡
そして、角を曲がって現れたメイン通りがこちら。遊郭のメイン通りは広くなっているケースが多少見られますが、ここはそうでもないようです。そもそも、関山遊郭の通りはここだけで、この通りの両側に遊郭や飲食店などが軒を連ねていたようです。
電柱を見ると「関山」の文字が書かれています。今現在、遊郭がある場所の住所は「山梨県上野原市上野原」であり、関山という住所は存在していないようです。バス停で「関山」という停留所はあるものの、関山の地名はほとんど残っていないようです。
住宅の脇には細い道が残っているが、こういうのって割と遊郭後には多いっすよね!!名残と言えるかはちょっと分からんですが(⌒-⌒; )
そして、この遊郭内には一軒だけ旅館が残っています。中屋旅館という旅館で、こんな場所に旅館があるとなると転業旅館と読んでしまうのですが果たして??
それ以外には名残って言えるものはないですかね。新しく建てられたっぽい一軒家もあったり、ここから先はもういたって普通の住宅街ですわ。
そしてメイン通りを抜けきって遊郭後の訪問は終了。。ほんの5分くらい。完全に住宅街だし、こんな場所でキョロキョロしながら歩いていると完全に変質者なのでもうやめました(笑)
せっかくなので、メイン通りだけでなく遊郭跡の周りの道も散歩して見ることに!
遊郭跡は少し高台になっているようですね。下に目を向けると、中央高速道路の上野原ICが見えたりします。

大鷲神社では酉の市も行われていた

▲数年前まで大鷲神社があった場所
遊郭のすぐ入り口のこの場所には、数年前までは大鷲神社(おおとりじんじゃ)がありました。そして、11月には酉の市も小規模ながら行われていたそうです。ただし、今ではもはや何もなくただの駐車場と化しており、名残は無し。。
この神社は1935年にこの土地の人々が造営した神社なんだそうです。2005年頃はまだ酉の市は行われたそうなので、割と最近まで神社はあったようです。
▲酉の市発祥の浅草にある鷲神社
そんな酉の市は、吉原遊郭跡の近くにある鷲神社(おおとりじんじゃ)が発祥になります。今現在も、11月になると商売繁盛を願って多くの方が熊手を購入しているんですね。実際に遊郭があった時代には、普段は入ることができない一般の方も遊郭の中の通りを通って、鷲神社に向かうことが出来ました。
この神社をまねて、横浜遊郭、藤沢遊郭、平塚遊郭など様々な遊郭跡に神社が作られ、そこで酉の市が行われていたのです。
▲真金町郭跡で今も行われる酉の市
歌丸さんの生家があった横浜の真金町郭跡(永真遊郭跡)では、今でも結構大規模に酉の市が行われています。普段は閑静な住宅街であるこの場所も、このお祭りのときは人でごった返して通り中が屋台と人で埋まるんですね(*’▽’)
↓真金町郭跡の関する内容は以下をご覧くださいm(__)m

遊郭跡にある旅館に突撃取材した!

▲遊郭跡にある「中屋旅館」
遊郭の入り口をちょっと進むと、左側には一軒の旅館が姿を現しました。遊郭跡には、遊郭だった建物を旅館に転業して存続するケースが多いため、この旅館もそうではないかと踏んだ私。他に名残がなさそうなので、意を決して突撃取材してみることにしました!!
「ピンポ~~ン」とインターホンを押すと、中から女将さんらしき方が迎えてくれました。そして女将さんにここの遊郭だった背景を何か知らないか聞いてみたところ、女将さんは何もご存知ないとのことでした。。
そして、その他にもこの辺を散歩していた方に聞いたりしてみたところ、ココが遊郭跡だったという事実は聞いたことがあるものの、その背景などに関しては何も知らないとのこと。そもそも、旅館の女将さんも「ここには当時から暮らしている方はもういない」とのことなので、この辺で聞き込みは断念。。
その他にも上野原周辺で聞き込みを行ったところ、今現在は4人くらい色街だった頃の様子を覚えている方がいるようで、遊郭内に配達をしたことがある方(配達というのは新聞とか牛乳とかだろうか・・)や実際に妓楼(それか赤線時代の特殊飲食店)の受付をした方がまだいるとのこと。
▲明治44年に全面開通した中央線
あと遊郭(または後の特殊飲食店)へ遊びに来たお客さんとしては、関山遊郭が誕生した翌年には上野原駅が開業したため、上野原駅からやってくる方が多かったように思われますが、中には遠く離れた道志村から歩いてやってきたり、周囲の町に住んでいる方が様々な手段でこの遊郭へやってきていたようです。

関山遊廓の歴史を紐解いてみる

現地をふらついたところで、関山遊郭にはどのような歴史があったのかを探ってみたいと思います!

養蚕により栄えていた上野原宿

上野原には一六市(いわゆる市場みたいなやつ)が開かれており、諸方から絹問屋や仲介人商人の方々が集まっていたという。「絹」という言葉が出てきましたが、日本は1859年に開港して以降、主要な輸出品目は生糸でした。
▲八王子の鑓水に建てられた「絹の道」の碑
その生糸は北関東や甲信越地方で幅広く生産され、その生産された生糸は八王子に集められ(そのため、八王子は桑都「そうと」と言われていた)、その後は絹の道(シルクロード)と言われる道を通って横浜港などへ運ばれて輸出されていました。
特に、長野県の岡谷~諏訪、山梨県甲府辺りで生産された生糸は、旧甲州街道を通っていたため、上野原もその通過点であり、さらには上野原でも養蚕を多く生産していたという!!
↓絹の道に関してはこちらにまとめておりますm(__)m
そんな上野原には、江戸時代には遊郭や私娼地などのような一廓を成す遊び場はありませんでしたが、宿場にあった旅籠屋(はたごや)がこの代用だったと思われます。この旅籠屋では、飯盛り女というお客に給士する女性が宿場女郎として相手をしていました。幕府に禁止されても、ひそかに行為が行われてもいたそうっす!!
しかし、その後の1873年に貸座敷渡世規則が発せられて、この指定を受ければ貸座敷(いわゆる女郎屋)を営業することができ、この時点で山梨県内には甲府と上野原にのみ公認されました。
上野原は甲州街道上の主要な宿場町であり、先ほども書いたように市が行われていて人の通りも多かったから許可が下りた可能性が高いそうっす!!

1900年に関山遊廓は誕生した

そんな中、1900年12月にまだ桑畑だったところに遊郭を建設して関山遊廓が誕生しました。廓内には妓楼以外に、巡査の派出所、検梅の診療所が設置されていました。入り口部分はL字になっており、一本のメイン通りにお店が立ち並ぶ形だったようです。
この遊郭はよそに比べてかなり小規模な遊郭であり、開設当時はわずか6軒ほど。その後、売春防止法が完全施行される1958年までは色街として存続していたようではありますが、昭和4年の時には、妓楼の数は3軒。
ということで、一廓を成した遊郭ではあるものの遊郭の中では小規模な遊郭だったのではと。。

なぜ、上野原に遊郭ができたのか?

上野原というと山梨県の中でも大都市というわけでもなく、工場や自衛隊も特にない街だったはず。上野原の西側にはここよりは大きな大月があるし、東側には吉野宿に4軒の遊郭(吉野遊郭)が既に存在していました。
一体なぜ、上野原に遊郭が出来たのか??
明治の中頃までは貸座敷の指定を行けて遊女稼業を行う旅籠屋が上野原には存在していました。しかし、お客は隣町にある吉野遊郭(神奈川県藤野町)へ遊びに行ったりで、お金が隣町に流れていくということを懸念していました。
▲特に難工事だった小仏トンネル
そこで、県議会議員藤田胸太郎という方が、遊郭設置運動を行ったとのこと。さらには、東京から甲信越を結ぶ中央線の敷設工事も行われており、この難工事を行う方達への労務上の対策というのも理由の一つだったらしいっす。
そんな背景があり風紀上宿の近くは好ましくないとのことで宿場から少し離れた場所に、1900年に設置されたのが関山遊廓でした。場所が上野原宿の近くだったこともあり、上野原遊郭、その他には関山新地(桑畑を開拓して遊郭を作ったと思われるため、新地とつく)とも言われていたようです。

戦後には特殊慰安施設が設置された

日本が1945年8月15日に敗戦した後、連合軍が日本に進駐してきました。その後、様々な建物を接収していき日本は連合軍の占領下となったわけですが、その時に国民の中で懸念されたのが「婦女子が乱暴されるのでは」ということ。
政府もこのことについては特別な配慮の必要性を認め、内務省が全国の警察部長に対して進駐軍に対する性的慰安施設を早急に設置するように指令を発しました。
▲甲府大空襲によって消失した甲府の街
んで、山梨県内にも慰安施設が何ヶ所か設けられました。遊郭内にはというと、甲府にあった穴切遊郭(あなぎりゆうかく)に設置を検討したんですな。しかし、穴切遊郭は1945年7月6~7日に発生した甲府大空襲(七夕空襲)によって75%近くが焼失していたため、穴切遊郭の再建を図ることになったのです。
しかし、そんな最中1945年9月7日に上野原に連合軍将兵が進駐することになったため、業者を集めて緊急に接待婦を甲府方面・富士吉田方面から招集して、関山遊廓内にも慰安所が設けられたのです。
ただし、慰安所があったころの関山遊廓内の様子は全くわかりませんでした。ただ、戦後は公娼制度が廃止されたため関山遊廓一帯は赤線地域となり、遊郭もその後は特殊飲食店として営業を続けていたようです。ここは他の赤線地帯と同じような感じですかね。
この頃は、日本人の一般民衆は遊ぶ余裕がなかったことから米兵の姿が見られており、景気が回復する1952年頃までは米兵一色の街だったようですよ。

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100年以上前に作られた「大正館」

▲1912年に建てられた「大正館」
これはおまけですが、関山遊廓が誕生した明治時代には、娯楽施設としては芝居小屋や寄席などもあったそうです。ただ、明治末期から町に寄席は無くなり、大正時代には上の写真の「大正館」が設置されてからは映画も庶民の娯楽となりました。
今現在はインターネットの普及などもあり、テレビ離れが進んでいるといわれていますが、そのテレビは庶民の映画館離れを加速させたようです。大正時代から大正館が建てられ庶民は映画を楽しんでいましたが、戦後にテレビが普及してからは映画館は庶民の娯楽としての認識は薄れ、その影響で上野原ではいくつかの映画館があったもののこの大正館のみを残し幕を下ろしていったそうです。
▲中がどうなっているかキニナル・・
今回の記事を書くにあたり、上野原宿だった辺りを放浪していて特に目立っていたのはこの大正館くらいですかね。すんげぇ廃れ具合で、中に入ることはできませんでした。中がどうなっているかとっても気になりますが。。
映画や劇場以外には戦後にパチンコ店も何店かできたようですが、今ではその名残は無く、今ではいくらかの飲食店や昔の建物が残る閑静な街となっているようです。

おわりに

以上っすかね!!
山梨県の遊郭というと穴切遊郭が有名であり、そもそも関山遊郭は規模も小さかったため、かなりマイナーな遊郭だとは思いますが、大まかな情報は今回の記事にまとめた感じになるかと思います。
もう今現在は名残と言えるものは無いに等しいため、訪問してもさほど得られるものは少ない遊郭跡にはなりますが、人伝いに色々聞いてみると多少なりとも発見はあるものですね!今後も、引き続き多方面の遊郭跡の調査を進めていこうと思いますm(_ _)m

参考文献

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詳細・地図

住所 山梨県上野原市上野原
アクセス JR上野原駅から歩いて15分程度
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