今回は、山梨県で蔓延していた「地方病」に関する記事になります。
皆さんは地方病って聞いたことありますでしょうか?私も、ここに訪問するまでまったく知らなかったんですけどね(^-^;
ん~今まで多分聞いたこともなかったので今回のスポットを訪問して衝撃を受けたのですが、山梨県はかなり長い間、この「地方病」という病気に苦しめられた背景があるんだそうです。んで、その地方病に関して学べる博物館が山梨県昭和町という場所にあったので、そこに訪問して地方病の歴史を学んでまいりました!
今回も、結構学べる記事になりましたぜ!!
本記事のポイント
・山梨県の甲府盆地の住民は、長い間「地方病」に苦しめられた。
・杉浦醫院は、「地方病の病院」といわれ地方病にかかった多くの患者が訪れた
・杉浦醫院の杉浦建造と杉浦三郎は地方病撲滅に大変貢献された方々
見出し
昭和町にある「杉浦醫院」
そんな地方病の歴史を学ぶことができるのは、「昭和町風土伝承館 杉浦醫院」というスポットっす!「杉浦醫院」とは「杉浦医院」という意味です。”醫”は”医” の旧漢字に当たるのです。しかし、画数多すぎてページ上で見るともはやなんて書いているのかわからないほど複雑な漢字っすね( ;∀;)
ただ、「杉浦医院」といってもあくまで昔病院だったということで、その場所を博物館にしたというスポットであり今現在は病院ではありません。そんな杉浦醫院は、山梨県の昭和町という場所にあるのですが、昭和町は甲府盆地の真ん中にある場所。甲府駅からは少し南下した場所っすね!!
ということで、そんな杉浦醫院へレンタカーをぶっ飛ばしていってきた次第であります!
そしてやってきました(*’▽’)
こちらが杉浦醫院。庭もとっても広く風情がありそうで、なんだかすごい威圧感がある博物館ですな!これは期待が高まりますわ~↑↑
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館長さんから地方病の背景をみっちり学んだ!
そんな杉浦醫院の入り口はこちら!ちゃんと入り口の脇に「杉浦醫院」の看板が掲げてありますね。かなり年季が経っているっぽいので当時のものをそのまま使っているのかしら。
最初は人気を感じなかったので開館しているのか不安でしたが、恐る恐る扉を開けてみることに!
中に入ると、センサーが「ピンポーーーーーン」と鳴って、中から館長さんがお出迎えしてくれました。どうやら、事務室にいたようで私以外にお客さんは来ていないようです。これはラッキー。
館長さんから「お時間はどのくらいございますでしょうか?」と聞かれ、「はい、いくらでも時間あります(*’▽’)」ということで、館内を案内していただきながら地方病の解説してもらったので、以下でその詳細を載せたいと思います!
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「地方病の病院」といわれた杉浦醫院
今回の大きなテーマである「地方病」という単語を聞いたことはございますでしょうか??
ちなみに、「地方病」というのは山梨県特有の呼び方であり、正式な病名は「日本住血吸虫病」となります(※以降は、地方病で統一して書きます)。ここ昭和町は地方病の患者が大変多かった病院で、この杉浦醫院は「地方病の病院」と言われたほどだったそうです。
▲杉浦醫院を作ったのは杉浦建造氏
この杉浦醫院を作ったのは杉浦建造(けんぞう)という方でした。この建造さんは、地方病の原因を突き止めた方なのです。一方息子さんである杉浦三郎さんが、地方病の治療法を確立した方でした。
杉浦醫院は1929年(昭和4年)という世界恐慌の年に誕生した病院で、1977年(昭和52年)に後を継いだ三郎さんが亡くなるまで実際に使われていた病院とのこと。そして、この建物はその当時のままなんですね!そんなわけで、とっても時代を感じることができるスポットなんですわ!!
杉浦建造さんは、この地で代々続く杉浦家の8代目の方なのだとか。西洋医学を学ぶために、横浜の野毛で開業医のもとで修行。明治の初期は大学で勉強しなくても西洋医学の開業医のもので数年間修行を積めば国家試験を受けられる制度だったのです。この時の当時、医学部の定員は東京大学と京都大学しかなかったらしい。
▲建造氏の息子である「杉浦三郎氏」
息子の三郎さんの時代は、大学の医学部も増え始めて「医者になるには大学で医学部に入る」という時代だったこともあり、新潟大学医学部卒業した後、地方病の治療法の確立にあたります。
二人の詳細を簡単に書くと以下のような感じです!
杉浦建造(1866-1933)
杉浦醫院を作った方で、地方病の原因を突き止めた方。
杉浦三郎(1866-1933)
杉浦建造氏の息子(直系ではなく婿入りしている)。趣味はタバコを吸うことだけだったらしい。地方病の治療法を確立した方でした。
この二人が、山梨県では地方病の神様と言われたんですね!
1977年からは杉浦医院は手つかずのままになっていたそうです。しかし、あるときの昭和町長が立候補する際のマニフェストに「杉浦醫院を買い取って博物館にする」ということを掲げ、その方が当選したことから昭和町がこの建物を8年前に買い取って、2010年から今のような博物館のような形で開館しているという。つまり、昭和町営の博物館なんですね!
博物館に関してはこんな感じで!館長さんからは入り口の待合室から案内してくださいました!!
待合室に入りきらないほど患者が来た!
▲待合室だった、杉浦醫院の入り口
私が入った入り口から解説が始まりました。こちらの入り口は、待合室でした。左側にあるのが受付だったのですね。しかし、夏場などの患者が多い時期はこの待合室には入り切れず、外にテントを組み立ててそこでも患者がスタンバっていたそうです。
入り口の前にはこんなものが置いてありましたが、これは1箱に50枚入っている番号札の箱で全部で5箱あるそうです。今の現代では整理券とかですもんね。なんか、下駄箱の札みたいだ(笑)
▲欅の木に囲まれた杉浦醫院
ちなみに、この杉浦醫院は「地方病の病院」と言われていた他にもう一つの呼び名がありました。それは「森の病院」。この周囲は住宅地ということもあり、田畑が広がる場所でありましたが、杉浦醫院は上の写真の通り欅(ケヤキ)の木に囲まれた病院なのです。
ということで、患者の方はこの森を目印にしてこの病気を訪問していたそうですよ(*’▽’)
地方病を救う劇薬「スチブナール」
待合室に次いで案内していただいたのが、調剤室。右から書いていますし、漢字も古い感じが使われていますね!ちなみに余談ですが、この右から左方向に書いているのは戦前から使われているという証。
日本語の文字は、元々縦書きだった影響で右から左に書いていましたが、欧米の影響により戦時中頃から徐々に左から右に書くようになっていました。新聞も読売新聞が昭和21年、朝日新聞が昭和22年に左から右を採用しているのです!!
なんで欧米の影響かって??
・右から左
I am Toshiki Tanji.
。すで樹俊治丹、は私
・左から右
I am Toshiki Tanji.
私は、丹治俊樹です。
ね。英字と合わせて書くと日本語が読みづらいっしょ!なので、英字に合わせて左から右にしたそうですよ。
あ~すみませんすみません。話を調剤室に戻しましょう!今は医薬は分かれていて、病院では医師からの処方箋が渡されて、近くの薬局で薬(医薬品)を受け取りますよね!でも、昔は病院で薬を作って渡していたのです。
▲地方病に効く薬「スチブナール」
その調剤室で注目したいのがこの薬。この「スチブナール」という薬が万有製薬から発売されて、命を落とす方が激減した特効薬でした。しかし、この薬は劇薬だったこともあり、スチブナールの副作用により山梨県内で5人の方がショック死するという事件がおきてしまいました。そのため、県がスチブナールの使用禁止令を出したのです。
しかしこの薬は確実に効くため、杉浦三郎氏は安全な投与方法がないかを模索。その結果、生理食塩水で薄めたスチブナールを時間をかけて投与する方法を編み出したのです。時間をかけてとは、1本のスチブナールを20日間に分けて投与するという方法。
そのため、地方病の患者さんは1/20本分のスチブナールを注射で1回打ってもらうことで通院しており、これによって杉浦醫院には多くの患者さんが訪れたんだそうですよ!!
上の写真に写っているのは、当時のままのスチブナールです。
スチブナール以外にも本当にたくさんの医薬品が並べられていました。私は薬品に関する知識はないのでこの部屋にあるものから話を広げたりはできませんが、見ているだけでなんか楽し〜
続いて案内していただいたのは診察室。この部屋で、地方病などの診察が行われていたそうです。当時使っていた器具や杉浦先生に宛てられた手紙などが残っており、結構当時の雰囲気をそのまま感じられた気がします!リアルでしたよ(*’▽’)
こちらは杉浦先生のデスク。ここで果たして何名の地方病の患者の診察をしたのでしょうか??
アメリカ軍と関りがあったりということで、書簡の中には横文字のものも含まれているという。
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戦後にアメリカの軍医がやってきた!!
▲終戦後すぐに杉浦醫院へやてきた「マクマレン氏」
診察室にはとあるアメリカ人の写真が飾られていました。この方は、マクマレンという方。日本が太平洋戦争で敗戦した後、GHQの医薬総合部隊のマクマレンがジープを運転してこの杉浦醫院にやってきたのです。そして、医師の杉浦三郎氏に英語でとあるお願いをしに来たのです。
「これからアメリカの軍医をここに送り込むので、彼らに地方病の治療法を教えてやってくれないか??」
太平洋戦争の時に日本と連合国が地上戦を最初に行ったのはフィリピンのレイテ島でした。そこでアメリカの軍隊の方にやられて日本軍は沖縄まで撤退したわけですが、レイテ島でアメリカ軍の方がお風呂代わりに水浴をしていたところ、なんと地方病に5,000人近くが感染してしまったのです。
ただし、この病気はアメリカに無いため彼らは治療法が分からない。。そこで、アメリカ軍がこの病気について徹底的に調べたところ、この病気に関しては山梨県にいる杉浦三郎医師に聞くのが早いと突き止めていたため、戦争が終結した後にここへやってきたとのこと。
1945年9月になると軍医の方がやってきて、2〜3週間ほど杉浦三郎氏から地方病の治療法を学んだそうです。そして、この地方病の撲滅を願ってGHQは山梨県に当時のお金で500万円を寄付したという。
▲洗面台は低く、鏡が異様にデカイ(笑)
母屋は全て畳の部屋でした。そのためアメリカ人が来るとなると、文化の違いからいろいろ修復しなくてはいけない点が出てきたんですね。
「アメリカ人は風呂に入らない代わりにシャワーを浴びる」ということでシャワーを取り付け、そして洗面台とトイレも様式にリフォームしたのです。ちなみに、杉浦さんは背が低かったこともあって、アメリカ人からしたらこちらの洗面台は低すぎて不便だったとのこと。。さらには、「アメリカ人はデカイらしい・・」という噂を聞いて、鏡はめっちゃ大きいのを頼み、とてつもなく大きなものが部屋に貼られることになったのでした。
この部屋は、鬼畜米英と言われたアメリカ人を受け入れるために、杉浦家が慌てた名残とも言えるのです。
甲府駅には「寄生虫列車」が停車していた
東京から衛生車の3両編成を甲府駅に1年間停めて、列車の中で研究を行った。甲府市内では寄生虫列車と呼ばれていました。
▲甲府駅に停車していた寄生虫列車
そして、寄生虫列車が甲府駅にやってきたときには、地方病の始まりから終わりまでのサイクルはすでに解明されていました。では、この列車では何の研究を行っていたかというと、ミラシジウムの中間宿主であるミヤイリ貝を効率よく殺せる薬の研究が行われていたのです。
(※ミラシジウムやミヤイリ貝に関して、詳しくは次ページにて!)
当時は生物を殺す薬品としては、消石灰や石灰窒素をまくくらいしかなかったんですね。んで、この列車で研究をし続けた結果、PCP(ペンタクロロフェノール)という農薬を開発したのでした。この薬をばらまくとザリガニなど田んぼの水中に暮らしていた生き物は一気に死滅してしまう薬だったのです。
そんなことからアメリカはこの甲府盆地で、ベトナム戦争のDDTなどの化学薬品を開発したと言われているそうです。いや、実はアメリカはそれが本来の目的だったのではとも言われています。つまり、これはどういうことかというと、以下になるわけですわ!
表向きの研究目的
→ ミヤイリ貝を効率よく殺せる薬を開発して、地方病を撲滅させること!
本来の裏目的
→ 今後の戦争で使うための殺傷剤を開発しよ!
アメリカ、恐るべし!!
昭和天皇も地方病に関心を持った!!
▲杉浦三郎さんが昭和天皇に説明
昭和町には、昭和天皇も訪れました。杉浦醫院にはその様子が写された写真が何枚か展示されており、これは昭和天皇が戦後に行った全国巡幸の一環での訪問であり山梨県には1947年10月14日~15日の間に訪問されています。
実はスチブナールによって患者が助かっていた地方病ですが、太平洋戦争の頃は資金不足もあって地方病対策にお金が回らないことから、また患者が増え始めていたそうです。まだ当時は「山梨県=地方病」と言われた時代だったこともあり、昭和天皇はその実態を知りたいということで、戦後に訪問されたそうです。
ミヤイリ貝は流れのない土の水路を好んで生息していたとのこと。そのため、その様子を視察した昭和天皇は「これはなんとかしないといかん!!」ということで、山梨県に予算をつけて土の水路を水が流れるコンクリート製の水路に改修したのです。
▲宮光園を訪問している昭和天皇
そんな昭和天皇は、山梨県に訪問された際に宮光園というワイン醸造所も訪問されています。この宮光園は宮内庁ご用達のワイン醸造所であり、皇室関係の方や総理大臣も訪問されているとても歴史あるスポットなのです。
ここは訪問して記事にしてありますので、以下も見てみてくださいね(*’▽’)
日本に3台しかないピアノがある!
▲日本に3台しかないピアノ
診察室の隣の部屋にはピアノが置いてありました。ただこのピアノ、そこんじょそこらのピアノとは異なり、とっても珍しい貴重なタイプなのですよ。というのも、今上天皇が生まれたのは1933年(昭和8年)になるのですが、当時の皇太子(天皇が昭和天皇の時なので、今上天皇は次期天皇になるため)が誕生したという記念に楽器メーカーのYAMAHAが皇太子生誕記念ピアノを100台だけ製作したものなんだそうです。
しかし、日本中にあった100台のピアノはその後戦時中の空襲で焼けてしまうなどしてほとんど無くなってしまったんだそうです。今現在残っているのは、皇居に1台、名古屋のはずれに1台、そしてここに1台ということで3台のみなんだそうです。
鍵盤は全て本象牙で出来ており、譜面台には鳳凰が描かれてあり、さらには天皇家の家紋である菊も描かれているというもの。
この建物を町が買い取った当時は、ずっと建物自体が放置されていたため最初は埃(ほこり)をかぶっていて音も狂っていたそうです。そこで、山梨県の調律師の方達に修復をお願いしたところ、「これはなかり特殊でハンドメイドで作られているものだから、下手に触ると収拾がつかなくなる」ということで皆さん遠慮されたとのこと。
しかし、辻村さんという富士吉田市辺りに暮らしている調律師であった方が、名乗り出てくれて無償でこのピアノを復活させてくれたとのこと。ここでは、春と秋に小規模ながらコンサートを行ったそうです。
2階では地方病関係の映像が見れる!
1階で杉浦醫院の背景を説明していただいた後は、2階へ上がることに。2階は展示物が並べてあるわけではなく、大広間となっており、ここで杉浦醫院に関する映像を見ることができます。
しかも、そのDVDが結構な数あるんですね!これらは、過去の地方病関連の貴重な映像らなんだそうですが、全部見らた余裕で日が暮れてしまうでしょうね。今回は、最近テレビで地方病に関して放送された映像を館長さんから見せていただけました。
ここにある、DVD全部は見ることができなかったので、また訪問して見せていただこうかしら。
▲地方病を子供たちに伝えるための絵本
部屋の壁に目を向けると、何かの絵が並べられています。これ、何かというと地方病に関して書かれた絵本なんだそうです。地方病のことを子供達にも知ってもらいたいということから作られた絵本。
ふむふむ、確かにミヤイリ貝を採集している様子が描かれたものもありますね!
こちらがその表紙らしい。
ということで、杉浦醫院の内部の紹介はこんな感じですかね!では、次のページでは杉浦建造氏がいかにして地方病の原因を究明したかの背景を探っていきましょう!!
続きはこちら!地方病はいかにして解明されたのか!?
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