今回ワインに関する記事になります。
皆さんはワインをお飲みになるでしょうか?ワイン、おいしいですよね?って言っても、私はお酒をほとんど飲まないためワインはほぼ飲まないんですけども( ;∀;)
で、そんなワインは日本でいうと山梨県で多く生産されているのですが、日本で初めてワインを作ったのも山梨県になるのですね!んで、今回はそのワインの歴史が学べる山梨県勝沼市にある「宮光園(みやこうえん)」さんを訪問して取材してきました!!
日本におけるワインの歴史、以下で思う存分紹介していきたいと思います~(*’▽’)
本記事のポイント
・宮光園は、宮崎光太郎が作ったワイン醸造所
・宮内省ご用達の醸造所であり、昭和天皇も訪れた
・山梨県は国産ワインの生産は日本一であるが、総合的には神奈川県が日本一
見出し
日本のワイン製造が学べる「宮光園」へ!
▲勝沼町にある「旧田中銀行博物館」
2018年の夏は山梨県を攻めようと、7月と8月の土日は山梨県内をレンタカーでうろうろしている私。もうね、行きたいスポットが鬼のようにあるので怒涛の如く取材を繰り返しているわけですが、その中で勝沼町にある「旧田中銀行博物館」というスポットを訪問していたときのこと!
この田中銀行は、元々銀行だった建物を今では博物館として公開しているスポット。かなりマイナーな博物館であり、長い時間取材させていただいたわけですがそこで周辺のスポットに関して色々教えていただいたうちの一つだったのが「宮光園」だったのです。
元々、宮光園は訪問する予定がなかったというかそもそもその存在自体を知らなかったのですが、日本のワイン製造の歴史が学べるということだったので、もういてもたってもいられなくなった私はここでの取材を終えた後、速攻で宮光園へと向かったのでした!!
▲宮光園の風情ある入り口
ということで旧田中銀行博物館から車ですぐだったので、予定を変更して速攻で宮光園を訪問!事前に何も調べていないため、どんな博物館なのか全くわからないものの、スタッフの突撃取材が出来ればいいやというぶっこみ具合でした!!
おお~結構大きな建物ですな!!庭も広く、結構な施設だったのではないかと思わせる風貌ですわ。期待が高まりますな~~~。
▲宮光園館内の展示物
館内は、2階建て。1階部分はビデオ鑑賞をする大広間といくらかの展示があり、主なワインの歴史の説明が展示されているのは2階。
私が訪問した時は、観光バスのツアーらしき団体がいたもののその方たち位しか訪問客がおらず、大きな資料館ではあるものの穴場的スポットに感じました。今回は、スタッフ二名の方に宮光園を含む日本のワイン製造の歴史を教えていただいたため、館内の様子も踏まえながらその詳細を以下に示していきましょう!!
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明治時代から始まった日本のワイン製造
▲高野正誠(左)と土屋助次郎(右)
日本のワイン製造は明治時代から始まりました。日本で初めてワイン製造を行った民間会社は「大日本山梨葡萄酒会社(祝村葡萄酒醸造会社)」でした。この会社が設立したと同時に、会社から「会社で1年間面倒を見るから勉強をして来いや~」ということで、高野正誠(まさなり)・土屋助次郎(後に龍憲)という二人の青年がフランスへと渡り、そこでブドウ栽培や醸造っ技術を学ぶことにしました。
しかし、フランスへ行くといってもまだ当時は中央線が開通していなかったということもあり、勝沼から歩いて横浜まで移動し、その後に船に乗ってフランスへと向かったのです。そのため、今では山梨からフランスだと2日もあれば行けると思いますが、この当時は片道でも50日ほどはかかったという。
そして帰ってきてワインを作ったものの、その当時の日本では本格的なワイン文化が浸透しておらず人々に受け入れられなかったことで会社が倒産してしまったのです。。
▲宮光園を生み出した宮崎光太郎
この時、宮崎光太郎は12歳だったのでフランスには行けなかったのですが、自分で独自にワインづくりを研究していたという。そして、会社が倒産した後に高野さんと土屋さんは各々でワイン作りをしていたところ、宮崎は土屋さんと一緒にワイン作りをすることになります。
しかし、明治十九年に会社が解散すると、土屋とワイン醸造を引き継ぎますが、明治二十三年に土屋と別れて独立することになりました。
宮崎が独自に作った施設ワイン醸造所「宮光園」
宮光園が誕生したのは1892年(明治25年)の時でした。宮光園は、明治二十三年に土屋と別れて独立する際に、宮崎光太郎が指定に整備したワイン醸造施設群と住宅などの総称で、「旧宮崎葡萄酒造場所施設」として72名の方が出資して作られたそうです。
宮光園にはいくつかの建造物群が残されており、宮崎光太郎の住宅であるとともに、宮崎葡萄酒醸造所の遺構があり、敷地内には江戸から明治、大正、昭和期の建築が残されています。現存しない建造物や施設も、近年の発掘調査による所在が明らかになっているそうです。
今現在の宮光園には、発掘調査の際に発見された出土品がいくつか展示されていたりもします!
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宮光園で売られていた「大黒葡萄酒」
▲宮光園で製造していた「大黒葡萄酒」
そんな宮光園で作られたワインは「大黒葡萄酒」というブランドでした。大黒天は七福神の一つに含まれる神であり通常は米俵に乗っていますが、大黒葡萄酒のマスコットに使われている大黒天はワイン樽に乗っています!
なんで大黒様を使ったのかというと、宮崎光太郎が好きだったからだとのこと(笑)
宮崎光太郎は宮光園にて自らワイン醸造を始めるとともに醸造器具の改良。そして、ブランデーの生産だけでなく、ブドウジュースの生産法も確立したのです。
そんなこともあって、館内にも小さい大黒様が展示されておりました。確かにワイン樽の上に載っていますね!隣に置かれているのはフラスコ的な何かでしょうか?この組み合わせがとっても斬新(笑)
さらには庭にはもっと大きな大黒様がとってもご機嫌な様子でおられました。でもなんかとても演技がよさそうなワインだし、商売繁盛しそうですね!縁起よさそ~~!
ワインの販路を確保するため東京に直売所を作る!
勝沼でワイン製造を行っているものの、そのワインを売らなければ意味がない。つまり、ワインを売る販路が必要だったのです。そこで、宮崎は東京の日本橋にワインの直売所である「甲斐産商店」を開くことになりました。
しかし、それには大きな難点があったのです。山梨から東京までどうやってワインを運ぶのかという点っす!!
▲甲州街道最大の難所であった笹子峠
今ではJR中央線が開通しているため、東京と山梨の移動は容易になっていますが、中央線が通る以前は、甲州街道には難所が多く東京都の行き来はとっても大変でした!宮崎光太郎は甲州でワインを作って日本橋にお店を構えたため、東京へワインを運ばなくてはいけなかったのですが、勝沼で生産したとしても甲州街道(現:旧甲州街道)は笹子峠を含む難所が多く、東京まで運ぶのは超絶な重労働だったそうです。
甲州街道は厳しいため、昔は富士川を使うルートを採用していました。そのルートは上図のような流れだったそうです。まずは、勝沼・甲州から鰍沢(かじかざわ)まで陸路で運搬し、鰍沢からは富士川を使って静岡県の岩淵というところまで流し、そこから蒲原駅まで陸路で運んだ後に東海道線で東京まで運ぶという流れ。いや〜すさまじいっすね!!
東海道線は1890年頃の明治の頃にはすでに開通していたので、このルートを使っていましたが、勝沼駅が1913年に開業するようになると勝沼駅から中央線を使って東京まで運ぶようにしていました。
なんと、宮光園は宮内庁ご用達だった!
この宮光園はただの醸造所ではなく、なんと宮内庁ご用達でした。そのため、皇室関係者の方が多数訪れていた醸造所だったのです。スタッフの方にその背景を聞いたところ、なぜ皇室と関係を持っていたかに関しての背景は不明なようですが、1892年に宮内省ご用達の命を受けたという。
そんな背景があるため、宮光園の館内には皇室関係の方が訪問した際の写真が多数展示されているんですな~~。
▲宮光園を訪問した昭和天皇
お~昭和天皇も宮内庁ご用達ということもあってこの地に訪れているんですね。訪問している時期は1947年10月15日ということで戦後間もない時期ですね。そして、昭和天皇は植物学者という一面もあるということもあってか興味津々そうですね!!
この訪問は昭和天皇が戦後に行った全国巡幸の一環での訪問でした。昭和天皇は、太平洋戦争で日本が敗戦した後に日本全国の巡幸を行っています。それは、敗戦によるショック、虚脱状態の国民を慰めるための旅でした。1946年から1954年まで続いたこの巡幸の中で山梨県には1947年10月14日~15日の間に訪れているんですね!
▲昭和天皇専用の特設トイレ
こちらは1階にある、昭和天皇専用の特設トイレです。ただし、内部に便器はなくおまるを置いただけのトイレなのですが、実際に使われたかは不明だとのこと。。
鉄道開通で様々なアイディアを生み出す!!
また、大正二年にはJR勝沼駅が開業。今まで川やら馬車やらでとにかく輸送が大変だったわけですが、東京へ中央線が開通したことでだいぶ輸送が楽になりました。そして鉄道に寄ってワインが運ばれるようになったわけですが、鉄道開通に伴って様々なアイディアが生まれたのです。
そのアイディアの一つはこれっす!鉄道開通にあわせてブドウ狩りとワイン工場見学を行う観光事業を企画するなど、勝沼地域の遊覧ブドウ園、現在の観光ブドウ園の先駆けとされたのです。これは宮崎光太郎のアイディア。
そして、明治時代から宮光園には多くの皇族・賓客や著名人が遊興に訪れています。
▲鉄道で飲むように作られた小瓶
アイディアはまだまだ尽きません。こちらは大黒葡萄酒が入っていた小さなビンっす。何でこんなコンパクトなサイズのビンを作ったのかというと、これは中央線の開通によって電車でも気軽にワインを飲めるようにと、少量のサイズを作ったんだそうです。
この当時は、今のように機械で作る技術がなかったので全てお手製!つまり、どのビンも同じものは存在しないのです。
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勝沼駅までワインを運ぶため「祝橋」が誕生
▲勝沼駅誕生によって作られた「祝橋」
そして、勝沼駅が開業すると醸造所からワインを勝沼駅まで運ぶようになり、途中に川があったりするとつり橋を作って道を作ったしていました。上の写真に写っている橋は「祝橋」という橋で、1931年に作られた当時は吊り橋だったようですが今ではコンクリート式の立派な橋になっています。ちなみに、今現在は三代目の橋です。
って言っても、今は車も通る主要道路というわけではなくて歴史を語る証人としてその役割を果たしています。1997年には国の登録有名文化財になってもいます( ´ ▽ ` )ノ
明治三十七年には、事業の拡大を図るため、自宅南側に宮崎第二醸造場を建設し、「海老印」「丸二印」「大黒天印」の「甲斐産葡萄酒」を世に出し、ワイン製造を産業として確立していく上で大きな貢献を果たしました。そのワイン醸造の歴史は「メルシャン株式会社」へと受け継がれています。
続きはこちら!ワインは戦争のため大量に作られた!?
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