こんにちわ!
日本中の知られざるスポットを取材して記事にしている『知の冒険』。今回は、「日本のワイン王」と言われ日本初の本格的なワイン醸造所を誕生させた神谷傳兵衛という人物に焦点を当てたいと思います!
皆さんは、神谷傳兵衛(かみや・でんべえ)という人物をご存知でしょうか?
彼は日本のワインの歴史を語る上では欠かすことのできない人物で、茨城県牛久市にある牛久シャトーの敷地内には彼の功績を知ることができる「神谷傳兵衛記念館」があるんですね!
首都圏からもそんな遠くない場所にありますし、ココはマジでオススメのスポットなので、この記念館について以下で紹介していきたいと思います!
牛久に佇む巨大煉瓦造りの醸造施設
今回紹介する神谷傳兵衛記念館は、牛久シャトーというワイン醸造施設内にあるんですが、「茨城県ってワインのイメージないわ〜〜」と思われる方が多いかもしれません。
牛久というと、やはり牛久大仏のイメージが強いと思いますが、、、
あとはロードサイド沿いにやたら目にする山岡家の1号店もあったりするんですが、こっちは結構マニアックなネタですかね(笑)
話をワインに戻しますが、現在の日本のワイン醸造日本一の県は神奈川県であり、これは藤沢にメルシャンの工場があるからです。ここは、外国産の輸入ワインを醸造しまくっている関係で神奈川県が日本一となってるんですが、国産ワインの醸造に絞ると山梨県が日本一になります!
ワインというと、ブドウの生産が日本一である山梨を思い浮かべる方が多いですかね。確かに、山梨の勝沼に行けば死ぬほどワイナリーたくさんありますし。
でもでも、牛久にはこんな立派なワイン醸造所が今も残されているんですよ。この事務所の建物をはじめ、敷地内にはたくさんの見所があるんですわ!
敷地内にある、かつてワインの醗酵室だったこちらの二階建ての建物は、神谷傳兵衛記念館として創業者、そして牛久シャトーが歩んできた歴史に触れることが出来ます!
館内に入ると、結構インパクトある光景が広がってますよ!
ワインを眠らせていた樽が「これでもかっ!!」ってくらい並んでるじゃないっすか。こんだけ樽を見るのって、ドンキーコングか神谷傳兵衛記念館くらいしかないんじゃないっすか?ww
んで、二階にはこんな感じでいろんな資料や昔の写真も多く、じっくり見ると結構見応えあるんですよ。
ではでは、ここから神谷傳兵衛記念館の館内を紹介しながら、神谷傳兵衛と牛久シャトーが歩んできた歴史を紹介して行きますねー!!
ワインに救われた日本のワイン王
一部は前回の神谷バーの内容と被りますが、本記事ではその歴史をもっと深堀して書いていこうと思います!
1856(安政3)年に愛知県西尾市にて生まれた神谷傳兵衛。
幼少期に一家は困難に陥り、そのため丁稚奉公として桶屋の見習い、雑貨商の手伝いなどを経験したのち、縁あって17歳のときに横浜外国人居留地のフレッレ商会(フランス人の経営する洋酒醸造所)に雇われることになります。
そこで様々な洋酒製造法を習得し、幼い頃から造り酒屋になるのが夢で、一生懸命働いた傳兵衛。
しかし、働き過ぎたことから過労になり、遂には倒れてしまいます。医者にも見放されるほどの過労だったものの、そんな傳兵衛を救ったのがフランスの葡萄酒でした。
このワインの爽やかな後味から気分も爽快になり、どんどん回復。こうしたことでブドウ酒に魅せられた伝兵衛は、日本人の口に合うブドウ酒を作ることを決心したのです。
愛知県西尾市にて生まれる。
1873(明治6)年頃
横浜外国人居留地のフレッレ商会(洋酒醸造所)に雇われる。
1880(明治13)年
浅草にて「みかはわ銘酒店」を開業。
1893(明治26)年頃
輸入ブランデーに改良を加えた電気ブランを開発。
1900(明治33)年頃
日本人向けのワインとしてハチブドー酒を開発し、大ヒット!
1901(明治34)年3月
本格的なワイン醸造所である牛久醸造所(現:牛久シャトー)を開業。
1912(明治45)年4月
みかはわ銘酒店の内部を西洋風に改造した『神谷バー』を開店。
そして、1880(明治13)年4月に彼は独立を決意!
にごり酒の1杯売りを始めることになり、ここが東京の「はかり売り」の元祖ではないか?とも言われているお店。店名は愛知の出身ということで「みかはわ銘酒店」と名付けられました。
日本人向けに開発したバチブドー酒
ハチブドー酒が誕生した大きな理由は、”日本人は甘めの味が好き”というのが大きな要因でした。先ほど、神谷傳兵衛は本場のフランスと同じ本格的なワインを製造するために牛久シャトー開設したと書きました。
でも、、、日本人は本場フランスの苦いワインはあまり好まない傾向にありました。苦いのよりかは、甘い味を好む傾向にある様なんですよね。
そこで、傳兵衛は明治14年に香竄葡萄酒(こうざんぶどうしゅ)を開発。香竄葡萄酒は薬草ワインに仕立てた甘口のブドウ酒であり、甘味果実酒、ハチミツを入れた提供したら、ヒットしてしまった。
この「蜂印香竄葡萄酒」は、近藤利兵衛の優れたマーケティング活動によって、1900(明治33)年頃には全国の人気商品になりました。販路はどんどん拡大し、国内のみならず朝鮮、中国、南洋方面にまで広がっていきました。
こうして日本人向けワインの販売を成功した傳兵衛は、ここからさらにワインづくりに磨きをかけます。国内でブドウ栽培からワイン製造までを一貫して行いたいと考えたのです!
広大な原野を求め、牛久を開墾!
明治時代の日本におけるワイン産業を支えた神谷傳兵衛の功績の一つが、牛久シャトーです。ここは、”日本初のワイン醸造所”ではないものの、”日本初の本格的なワイン醸造所”なんですね!
そこで、伝兵衛は婿養子に迎えた傳蔵(でんぞう)を結婚式のわずか三日後にフランスに留学させ、フランス産ぶどう苗6,000本を持って帰国。一方、伝兵衛はブドウ農園に最適な土地を探すなど事業の計画を進めていました。
記念館には国内から採取した土も展示しているように、土壌を調べ、どこの場所でブドウを栽培するのが良いかを傳兵衛は模索していたようです。
そうした中で見つけたのが牛久でした。そして1901(明治34)年3月、傳兵衛は本格的なワイン醸造所である牛久醸造所(現:牛久シャトー)の建設に着手することになるのです。
既にブドウ園を作っていた場所に醸造所を建てたわけですが、その面積は尋常じゃないデカさでした!
この図は牛久シャトーにあるものですが、こんなにデカい縦長な土地が全部ブドウ園だったそうです。初期は、120ヘクタール、東京ドーム約25個分くらいで、最盛期は160ヘクタールの広さ。
それだけデカかったこともあり、常磐線からはブドウ畑が広がる景色が見えたそうです。いや~私もその景色見たかったですよ、本当に。
ブドウ園では、ひと区画を3つに区切って近隣の出身の夫婦に栽培を任せていました。”夫婦”というのがミソで、一人だとサボりだすし、夫婦だと励まし合うからいいんですって。夫婦二人で暮らす分には十分な報酬を出していたおり、従業員持株制度を三菱と同時期にやり出すなど、経営のセンスも持っていた傳兵衛。
いい栽培方法、醸造方法、収穫方法を発表する場を設け、良い発表をした方、成果を出した方には、園の経営権の株をも分け与えていました。そうすることで経営者の一員としての自覚、モチベーションをもたせていたんですって!
26万本分もの大量のワインを貯蔵
先ほども書いたように、傳兵衛はブドウ栽培からワイン醸造までを一貫して行おうとしました!では、広大なブドウ園から収穫したブドウを、どのようにしてワインにしていたのか??
東京ドーム25個分の面積もあったということで、収穫したブドウを運ぶのも大変になるわけですよね。そこで、園内にはレールが敷かれ、トロッコによって集めていました。
園内のブドウをトロッコで運び、その終着駅が発酵室の入口だったわけです。
一つ前の写真に写る建物は今もこうして現存して、今は記念館になっています。この建物の二階部分に扉があると思いますが、運んできたブドウは小型の手動クレーンによって二階の扉から館内に持ち上げていました。
小型の手動クレーンは、今も記念館に展示されています。
二階に上げられたブドウは、機械で絞られて果汁となり下の階に移されました。移したというか、二階の床下には落とし口が多数残っているので、二階から一階にある樽に直接注ぎ込んでいたようです。
なので、今は一階にはこうして樽が横に倒された状態で展示していますが、これは展示のためであって、稼働していた当時は立った状態だったそうです。二階から注ぎこまれた果汁は、この樽の中で発酵されることになります。
大樽で発酵したワインは、この貯蔵樽に移されて熟成されます。
ビン詰めする機械などが並ぶんですが、そのほとんどがフランス製。あと、館内にあるワイン醸造に関する機械は、ほとんどがフランス製。一部ドイツ製のものもありますが。
ブドウを収穫してワインにするまでの流れは、ざっとですがこんな感じですかね。では、ちょっと長くなってきたので、ここで一旦記事をぶった切ることにします!