今回の記事は、山口県周防大島(すおうおおしま)にある『日本ハワイ移民資料館』という博物館に関する記事になります。
「何で山口県にハワイや移民に関する博物館があるんやねん?」と思いながら博物館を訪問したんですが、この周防大島からは、まだ日本人がハワイへの憧れを抱く前から移民としてハワイへ向かった方が大勢いたという歴史があるんですって!
「山口県にそんな歴史があるんだったら掘り起こさなきゃいかん!」ということで、早速訪問しに行って色々と調査してきました!
ということで、山口県とハワイにはかつてどんな歴史があったのか、博物館の方への取材なども含めいろいろ勉強してまとめたものを以下で放出したいと思います(*’▽’)
日本とハワイ交流の歴史が学べる博物館
今回の目的地は、山口県にある周防大島といわれるちょっとデカ目の島。そもそも山口県自体、一回しか訪問したことがない私にとって、この島の存在は全く知りませんでした。。
「何でこんな場所に日本とハワイの交流に関する博物館がるんだ?」って疑問を抱きながらレンタカーを運転して向かったわけですが、逆に、まだ知らぬ歴史があると思うとワクワクもしてくるわけです!
こういう好奇心が私のブログの原動力だったりもしますからね〜!
超デカイ橋を渡って、本州から周防大島へと向かいます。
そして到着!
これが、今回の調査対象である日本ハワイ移民資料館っす~~!
私が訪問したのは2019年4月。もうちょっとしたらゴールデンウィークということで、壁面には鯉のぼりが貼り付けられておりますな!
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ハワイと関係がある資料館と言えども、外観はアロハ要素というか楽園感はない建物ですね。地元の方の住まいだった建物を資料館に活用したって感じなのかな?
早速入ってみましょ~~!
おお~中はこんな感じになってました!
入館すると、アロハシャツを着たスタッフの方が出迎えてくれて入館料をお支払い。そして、この資料館がある周防大島とハワイのつながりについていろいろ説明してくれましたよん!
他にお客さんはいなく、私の貸し切り状態(*’▽’)
ということで、そんな周防大島とハワイの歴史にあわせてこの資料館の内部も紹介していきたいと思います~~!
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日本人のハワイへの憧れ!
今でこそ、芸能人が毎年のようにハワイに行って芸能リポーターが「今年はハワイで、どのように過ごされたんですか~?」という報道が毎年お馴染みの光景となっていますが、そもそも日本人はいつからハワイに憧れを持つようになったのか??
日本がハワイの真珠湾を奇襲して1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発しましたが、その後の1945(昭和20)年に終戦しましたよね。
それからわずか三年後には、『憧れのハワイ航路』という歌謡曲がヒットしたのですから、それはそれはすごい話。この歌謡曲は後に映画にもなり、美空ひばりさんが主演をつとめていたとのこと。
その後、1961(昭和36)年には「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の宣伝コピーも流行りました。その他、新婚旅行でもそうですし、何かの特典にもハワイ旅行がつきものですよね!
あとは平成18年に公開された映画『フラガール』は、本州最大の常磐炭鉱(福島県いわき市)が大幅な人員削減に迫られた昭和40年に、楽園ハワイをモデルにした大型レジャー施設をつくるプロジェクトを描いた作品です。
衰退する炭鉱町を蘇らせることから、ハワイをモデルにした常磐ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)を作る物語ですが、山ちゃんと蒼井優さんが結婚するきっかけにもなった映画ですよね!
この他にもハワイを題材した物ってたくさんあったと思いますが、こうして今では多くの日本人が楽園気分を味わうなどでハワイに行くようになったわけです!
そんな楽園をいち早く生活の舞台に選んでいたのが、周防大島を中心とした瀬戸内海沿岸地域の出稼ぎ者たちでした。
なぜハワイへ移民したのか?
では、なぜ彼らはハワイへ移民する必要があったのか??
その発端は、元々、明治元年には明治政府公認ではありませんでしたが、150人くらいの方が既にハワイへ渡っていたことでした。
何で渡ったのかというと、「アメリカの南北戦争が原因でハワイでのサトウキビ栽培の労働者が不足していたから」っす!
そのため、ハワイからは「日本さん、労働者の方をうちに送ってもらえまへんかね~」とお願いをされていました。
そこで、明治になった日本では近代化(西洋化)の波が押し寄せていた時代でもあり、外務大臣だった井上馨(いのうえ・かおる)は、これからさらに近代化を進めるために以下の四つの観点からハワイへの出稼ぎ者が必要だと考えていました。
・西洋式の労働を学んだ方が帰国すると、日本国内の労働市場の近代化が図れる
・出稼ぎ労働者が直接的な外貨獲得手段になる
・海外の情報収集ができる
このような背景があり、明治18年にハワイ政府と日本政府が正式に労働者をハワイへ送る契約したことで誕生したのが官約移民だったのです、いわゆる公的に認められた移民制度ですね!
第一回の要請では944人中420人が山口県民で、その中の300人が周防大島出身でした。これは、当時この周防大島の方々が大変貧しかったということで当時の外務大臣だった井上馨(いのうえ・かおる)の配慮があったと言われているそうな。。
旅費はハワイ国が負担、一か月に26日働いて男子が9ドルの給料に食費6ドル、女子が6ドルの給料に食費4ドル。日本の5,6倍の給料だったということで、移民に行った方は、それはそれは稼いだそうです。
ところが、そんな官約移民は長くは続かず、第二次ハワイ革命によって王制が終わりハワイ共和国になったことで官約移民は中止に。。翌年の明治27年からは、民間による移民会社と契約を結んでいたため私約移民の時代になりました。
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厳しいハワイでの労働生活
日本に比べて給料は非常に良かったとされるサトウキビ栽培生活ですが、その労働生活はいかがなものだったのか??
その暮らしぶりに関しても、資料館の中に展示がありました。
ちょっと、かいつまんで見てみましょう~!
労働者の方々は、労働契約の条件として住居、医療、調理用の燃料は無料で支給されましたが、その生活はみじめなものでした。自分たちの手で日本の家屋に近い草ぶきの家を建てた人は恵まれていた方で、多くはバラックのような建物に集団で暮らしていました。
サトウキビ耕地の労働者となった大半の日本人移民は最も安い給料で、しかも最も苦しい仕事を強いられました。彼らは1日10時間、製糖工場では12時間の労働が契約により課せられており、朝は4:00に起床で仕事は6:00開始、昼食休みは30分間で16:30まで仕事は続きました。
さらにルナという労働者の監視役が目を光らせていて、息を抜く間もないような環境下。病気になったとしても多くの場合は休めず、こうした不平不満から日本人移民は各地で紛争を起こし、より正当で公平な報酬と扱いを訴えていました。
ハワイではアメリカ系白人によるハワイ革命(いわゆるテロww)などで日本人の生活は圧迫され、自暴自棄になる方もいました。
そんな中でも、日本人の方々は共済会という組合を作り、出稼ぎ者が病気になったときの入院費用や亡くなった時の葬儀費用を共済組織で賄うようにしていたそうです。
そんな暮らしの中、サトウキビ栽培のさなかに口ずさんだ一つの民謡が、日本人移民者の心の支えとなっていたようです。
それは『ホレホレ節』!!
七七七五調のハワイならではの日本民謡。題名になっている「ホレホレ」という言葉の由来が気になりますが、これはサトウキビ栽培における「キビの枯れ葉を 手作業で掻き落とす 」という作業をハワイアンの方々がホレホレと呼んでいたことが由来になっているそうです。
このホレホレという作業は、炎天下に立ちっぱなしの状態でキビの葉のイガやトゲが容赦なく手に刺さり、汗と共に背中まで流れ込むというかなりきつい作業。。
出稼ぎ者たちは、白人が支配する過酷な耕地労働を『ホレホレ節』で歌い流していました。貧しさゆえ、彼らは生き抜くために稼ぎがいいこの過酷な労働を耐えるしかなかったんですね。
日本語教育に尽くした中村一三郎
さらに奥へ進むと、中村一三郎という方のコーナーがありました。
解説を読んでみると、中村さんはハワイで日本語学校の教師をし続けた方だったようです。ちょっと展示内容などを見てみましょ~!!
1906(明治39)年にハワイ島に生まれた中村一三郎さんは、いったんは両親とともに帰国しましたが、24歳の時に日本語学校の教師として再びハワイに渡り、65歳の定年退職までハワイ日本語教育に尽くされました。
師範学校を卒業した後は山口県の小学校の教師になり、その後、24歳の時にハワイに渡って日本語学校の教師に。しかし、日本がハワイの真珠湾を奇襲して太平洋戦争が勃発した際には、その日の夜に抑留されてしまいます。
その際、「君は日米どちらが勝つことを望んでいるか?」との問いに、「どちらも勝たないで平和になることを望んでいる」と答えると「君は戦争が終わるまで米大陸の安全地帯に送る」と宣告されました。
その後、大工になったり販売員になったりするも、再び教育の世界に復帰して、定年まで日本語学校の仕事に携わり続けたようです。
ここに展示されている品は、太平洋戦争のさなかに本土の収容所に送られた際に作った木工製品や当時の写真が張られたアルバム、教務資料、移民関連の新聞気になどが展示されています。
この資料館がオープンする際に、「移民の歴史を伝えてほしい」ということで中村さんが所持していた350点ほどの品を寄贈されたそうです。
という感じで、周防大島とハワイの関係を館内の紹介に合わせて紹介してみましたが、まだまだ話は尽きません!!
次ページでは、ハワイへ移民した方々は、写真を頼りに日本から婚約者を選んでいたというお話です。