今回は、山梨県の清里高原にあるポール・ラッシュ記念館に関する記事になります。
今まで、二記事にわたってポールがどんな生涯を送って来たかに関する記事を書きましたが、それは清里高原の発展に捧げた生涯でした。
ポールは清里高原に多大な貢献をしたことから、ここにはポール・ラッシュ記念館が佇んでいて、その背景などを学ぶことが出来るんですね!
ということで、今回の記事ではその記念館がどんなところなのかを以下で紹介していきますね~(*’▽’)
自然豊かな清里に佇む博物館
今回紹介するポール・ラッシュ記念館があるのは、山梨県北西部にある清里高原です~~。天気が良ければ雄大な八ヶ岳連峰が姿を現す、本当に清々しい場所ですね!
標高2,899mの赤岳を最高峰とする八ヶ岳は、名前の通り八つの峰で構成されており、その姿は本当に美しい。。普段東京のコンクリートジャングルに身を置いてる私からしたら、本当にこういう場所は定期的に言っておかないと精神を破壊されますな(笑)
ちなみに、私は大学院一年生の時に赤岳を登頂したことがりますよん(*’▽’)
そんな場所にひっそりと佇んでいるのがポール・ラッシュ記念館っす!
ただこの記念館、場所的にわかりづらいということもあり、そんなに知られている記念館なのか疑問。。多くの方に知っていただきたいんですけどね。。
まっ、早速館内には行ってみましょ~!
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館内はこんな感じ。私が訪れたのは平日ということもあってか、結構閑散としていてました。ちなみに、訪問したのは2019年5月くらいの時期です。
さっそく受付の方に入館料を払って館内を鑑賞するわけですが、この記念館はポールの功績や清里の発展の歴史を学べるエリアと、ポールが晩年暮していたポール邸の内部を鑑賞できるエリアに分かれています!
まずは、清里の発展の歴史を学べるエリアに行ってみましょ~!!
その前にビデオ鑑賞を出来るエリアがあったので、じっくり鑑賞!!
このビデオはとてもわかりやすく、これだけでも大まかなポールの人生を学ぶことができますよ!!
そのさらに奥へ進んでいくと、ポール・ラッシュに関する経歴が詳しく展示されていました!
展示してる内容は、彼がアメリカで誕生してから日本で亡くなるまでの生涯に関してっていうのが主ですかね。ちょっと、いくつかかいつまんで見てみますか。
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恩師の想いを引き継ぎ貢献の未知へ!
ポールは、もともと一流のホテルマンになるのが夢でした。
ところが、1923年に発生した関東大震災の影響で、東京と横浜のYMCA会館を再建するためのの基金が十分な額に達し、その再建委員の一人に指名されたんですね。
その再建の仕事を終えた後も、帰国してホテルマンになるはずが、とイスラ―博士に説得され日本に留まることになります。その後は、立教大学の教職に就き大学の発展への貢献、関東大震災で被災した聖路加国際病院復興のための募金集めなど、様々な功績を残すことになるのです!
そんなポールにはトイスラ―博士、マキム主教、さらには群馬県草津温泉でハンセン病患者のために多大なる貢献をしたメリーコンウォールリーなど、他者への貢献に精を尽くす偉大な方が周囲にいました。
その影響もあって、ポールは日本の地で、キリスト教の精神に基づいて日本の貧しい方々へ様々な形で貢献することを生涯貫いたわけです。
その中でも、トイスラ―博士がポールに話した言葉が、特に彼の原動力にもなっていました。
「ラッシュよ、お前がもしキリストの名のもとに何かしようと思ったら、一流のものを築け。二流のものは絶対だめだ。一流でなければ人々がモデルとして模倣し、受け入れることができないからだ。それに一流の仕事が出来ないなら、何のために日本に来たのか、人生のすべてが空しくなってしまうじゃないか」
このトイスラ―博士が放った「最善を尽くし一流たるべし」という言葉は、ポールの座右の銘となりました。
博物館の壁にも、しっかりその言葉が残されておりましたよ!!
トイスラ―博士やポールを見習って私も頑張らなきゃな!
私も一流の人間になるぞーーーーー!
そして昭和の初め頃、ポールは清里高原の開発に着手することになるのです。
ポールが清里高原の開発に携わったのは、先ほど紹介したトイスラ―博士やマキム主教など彼の師たちが亡くなり、博士たちが実践していた「貧しい日本のために人生を捧げた」という思いや理想を継いでいくことを使命と感じていたことが背景にありました。
そこで、日本キリスト青年会の方々にキャンプ活動を通じて一人一人が協調性を持つ民主主義社会を作ること、さらにはキャンプ地に選んだ清里を日本の農村伝導モデルにすることに邁進していくことになるのです!
詳しく説明すると長くなるので、気になった方は前回の記事を読んでみてくださいね(*’▽’)
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大きなきっかけを作ったトラクター
こんなものが、デーーーーーーンと展示されておりました!
このトラクターは、ポールの計画に共鳴したラッセル・ラムソンという方から1951年に送られたもの。
1960年代になると、農機具としての役目を終えて原形をとどめないほど破損していたそうです。が、清里に住む篤志家の手元に置かれ、アメリカのジョンディア社の修理工場に運ばれて、このような姿に復元されたとのこと。
このトラクターは、清里と世界有数の農機具メーカーである「ジョンディア社」との縁を結び、八ヶ岳南麓が大規模農業生地となる先駆け的な存在だったようです。
ちなみにこれ、乗って写真撮影もできるよん!!
でも、動かないけどね。。(笑)
あとはこんな昔の清里高原の写真が展示してあったり、、
昔の資料も色々展示してあったり、、
ポールが所持していた愛用品も展示されておりました。
清里に誕生した診療所
館内をウロウロしていると、こんなものも展示してありました。
これは1950(昭和25)年10月に開設した、清里聖路加診療所の看板ですね。貧しい村だった清里ということもあり、村に住む方々は医師に診てもらうこともなく暮らしていたわけです。
そのため、この診療所は清里の方々によって大きな希望の灯をともしました。
この診療所も、ポールが行った農村伝導事業の一環で誕生しました。
というのも、ポールは清里の事業を行う前、現在も東京の築地にある聖路加国際病院が関東大震災で被災した際の復興事業に携わっていました。彼の師ともいえる、ルドルフ・B・トイスラ―博士と共に、アメリカへ渡り募金活動を行っていました。
そう言った背景があり、ポールはトイスラ―博士が掲げていた「困窮者に対する神の福音としての近代医療の伝導」を実現させたのです!
山梨県の高原地に、東京の有名病院である聖路加国際病院の医師が交代で出張診療してくれるなんて、清里の方からしたらもう本当に願ってもないこと!
戦後間もない頃の清里村の衛生状態はかなりヤバい状態だったらしく風呂に入るのは一か月に一度で、10日に一度という家族は良い方だったという。このため、栄養状態の悪さとも重なってトラコーマ皮膚病も多く、受診者のほぼ全員から回虫の卵が検出されたという。
村民たちは貧しく、診療費を出せない家も多かったようです。食卓にはどんぶり一杯とたくあんだけ。たまにサンマを買っても一匹を家族全員で分け合って食べる。鶏を飼って貴重なたんぱく源の卵はあるものの、お金に換えるため家族では食べない。
そんな状態での生活だったため、診療所があったことは本当に救いになったでしょうな。
アメフトを広めた功労者
さらに奥に進むとこんなコーナーがありました。
入り口には「日本アメリカンフットボールの殿堂」と書かれていますね!
中に入ってみましょ~~!
おう、こんな感じになってましたか!
周辺にトロフィーみたいなものなどが展示してありますが、ちょっと見てみましょう!
このポールの写真と一緒に展示されているのは、「ポール・ラッシュ杯」と刻まれたトロフィーっすね。
ポールは日本へのアメフト普及に大きく貢献したことで、1961(昭和36)年には日本アメリカンフットボール協会より、「フットボールの父」の称号がポール送られることになります。
また、サッカーの天皇杯、みたいな感じで、1964(昭和39)年には全日本選手権ライスボウル最優秀選手に「ポール・ラッシュ杯」が贈呈されました。
賞状やトロフィー、さらにはユニフォームや防具など、アメフトに関するものがいっぱい!
防具を付けてる人形は、なんか動きそうでちょっと怖い( ;∀;)
ポールが東京蹴球連盟を設立したのが1934(昭和9)年でしたが、この頃は満州事変が起きた後でもあり、日本が国際連盟を脱退したころでもあるため、日本とアメリカの関係もなかなかシビアな時期でした。
ポールは、アメリカの国技を日本で行うことで日米青年の相互理解と親善を図っていたわけです!
ちなみに、私はラグビーとアメフトって未だに違いがよく分かっていません。。
ラグビーはラグビーワールドカップで日本が盛り上がった時、ちょっとだけ試合を見て何となくわかった気でいますが、アメフトとラグビーってどう違うんすかね??
ということで、一旦ここで一息つくことにしますか。
このページではーるの事業や生涯に関する内容の展示を簡単に紹介しましたが、この博物館にはもう一つの目玉があって、それは彼が晩年暮していた邸宅も公開しているんですね!!
ということで、次のページではそちらを紹介しますね~!!