今回は、日本の発展に生涯をささげた偉人の物語です。
山梨県北杜市高根町という町には「清里高原」という観光地があります。農場や宿泊施設等、八ヶ岳の麓に広がるこの高原は、ポール・ラッシュという一人のアメリカ人によって開拓された背景があるんですね。
ただ、ポールの活躍はそれだけではなく、たぐいまれなるビジネスセンスを武器に病院建設の寄付集め、美容界への貢献、そしてアメリカンフットボールを日本に広めたりと多岐に及んでいるんですね。
今回はそんなポール・ラッシュの激動の人生について、以下で紹介したいと思います(*’▽’)
見出し
ポールの生き様が学べる博物館
山梨県北西部に位置する清里高原。
雄大な八ヶ岳連峰の麓に位置する標高1,200mの高原地帯は、今では避暑地として別荘が建てられている他、酪農も盛んで多くの観光客が訪れる場所。
さらに、清里駅前に関していうと、バブルの頃はタレントショップが建ち並び、ファッション雑誌の表紙もここで撮られるなどで多くの若者が集結。 まるで原宿のようだったと多くの方が語るこの街も、今となってはこんな感じでシャッターが目立つ状態に。。
私も、以前この辺を訪問して周辺のお店の方々に聞き込み調査をして記事にも書いたりしていましたよん!
そんな清里高原に佇むのが「ポール・ラッシュ記念館」。
このポール・ラッシュという人物を知っている方はどのくらいの方がいるのかは不明ですが、この方は大変貧しかった清里高原を発展させました。んで、そんな背景があったことで、清里にこのポールの博物館が建てられているんですね!
ということで、いつものようポール・ラッシュ記念館という博物館に関する記事を書こうと思ったのですが、その前にポールがどんな人生を送って来たか、どんな偉人だったのかを先に紹介したいと思い、今回はその前編としてポールの人生に焦点を当てた記事を書いてみました!!
ポール・ラッシュはいかなる生涯を送って来たのか、以下で説明いたします!
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訪日は関東大震災がキッカケ!
では、ここからポール・ラッシュの人生を紐解いていくことにしましょう。
そもそも、アメリカ人だったポールが日本と関係を持つキッカケは何だったのか??
それは全くの偶然によるものでした。
日本とアメリカの交流というと、1854年に結んだ日米和親条約が大きなきっかけでした。その後、鎖国を解いて開港をすることによって様々な国と交流を持つようになる日本ですが、ポールが日本を訪れるきっかけになったのは1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災だったのです。
東京の密集地が瓦礫と化し、田園都市線や小田急線が町田や秦野方面に延びて、住宅地が郊外に広がるきっかけにもなるなど、首都圏の生活に大変大きな影響を及ぼした大災害でした。
そのころ、アメリカにいたポールは1923~24年にかけてオハイオ州にあるホテルの副支配人をしていました。この仕事を通じて「私は偉大なホテル支配人になる野心を抱くようになった!」と、彼は後に回想しています。
そう、ポールは元々一人のホテルマンだったわけです!!
その後、1925年1月に、ニューヨークのザ・ボウマン・ビルドモア・ホテル・チェーンで支配人を目指して働き始めると、彼の野心を知る知人から「国際YMCA(キリスト教青年会)のスタッフとしてエルサレムに行ってはどうか?」という話が舞い込んできます。彼はこの話に乗り気になり、エルサレムに向けて出港することになりました。
し、か、し、、、
その直後に「あのさ~、エルサレムに行こうとしてるところ申し訳ねぇんだが、日本へ行ってもらえないっすか?」という声がかかります。関東大震災で破壊された東京や横浜のYMCA会館を再建するために基金が十分な額に達したため、その再建委員の一人に指名されたのです。
ちなみに、YMCAとは、、
1844年にイギリスで誕生しており、キリスト教の精神を基盤にはしているものの、布教活動のための団体ではない。
って感じの意味です!!
そこでポールは、「自由と冒険にあこがれてるし、まぁ~日本でもエルサレムでもどっちでもいっか!」ということから日本行きが決定。1925年5月3日に、横浜港にてポールは初めて日本の土を踏むことになるのです。
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立教大学で大活躍!
来日から一年が経過すると、YMCAの再建活動がひと段落したため、ポールは「ニューヨークに帰って、一流ホテルマンへの夢を実現するぞ~」と思っていました。
しかも、ニューヨークのボウマン・ビルトモア・ホテルは、帰国後のポールの採用を約束してもくれていたんですね!
ところがどっこい、、、
そんなポールに、帰国を引き留める事案が出てくるんですね。。
それが、東京六大学の一つでもある立教大学の体制整備でした!!
立教大学は、米国から派遣されたチャンニング・ムーア・ウィリアムズ主教が、明治7年2月に築地明石町に開設した英語塾が発端でした。んで、ポールが来日したころは、大学としての体制整備が急ピッチで進められていた関係で、優秀な人物が必要だったわけです!!
「ポール、マキム主教とライフスナイダー主教が会いたがっている。日本へ残るかどうか、これを最後の話し合いとするので、来てくれ!」
マキム主教は、ポールにとっては神に等しい存在でもあり、結局口説かれてポールは帰国を断念。日本に留まることになったわけです。
そんで、ポールは立教大学商学部の教職に就くことになります。
母国アメリカで一流ホテルマンを目指すはずが、立教大学の教師をしているというわけで、人生何が起こるか本当にわからないもんですな( ;∀;)
ただ、この昭和初期の頃は「大学は出たけれど・・」が流行語で、親元が破産する学生が多く、ポールは盟友のブランスタッドと共に、大学構内にある五番館で貧しい生徒たちと酒盛りをしたり三度の飯を食べさせたりと師弟関係を超えた関わりをもつことになるんですね!
そうしたことから、”五番館ボーイズ”という青年団体が結成されていき、彼らはやがてポールの清里開拓をはじめとする社会事業の母体となっていくのです。
ポールが立教大学に貢献した爪痕は、今でも大学の応援歌「St.Paul’s will shine tonight」として残り続けているのです。
ちなみに、私は受験生の時に立教大学の科学部を受験していました。合格はしたものの、最終的に早稲田大学に合格したのでそっちに行ったんですがね。。
聖路加国際病院の復興に尽力!
そんなポールに、またもや新たな仕事が舞い込んで来ることになります。それは、今でも東京の築地にある聖路加国際病院に関するお仕事!!
聖路加(せいるか)国際病院という病院を皆さんはご存知でしょうか??
日野原重明(ひのはら・しげあき)さんという名医師がいた病院でもあり、1995年の地下鉄サリン事件では、館内の礼拝堂を急遽開放して多くの患者が運び込まれた病院としても知られています。
この病院は元々、ルドルフ・B・トイスラー博士によって築地のバラック小屋のような木造施設で貧しい人たちを対象に医療の充実を図ってきた病院でした。
ところが、1923年の関東大震災によって被災。。。
以後は復興のために新病院建設計画案がまとまったものの、この病院の建設と医療設備に必要な資金は今の価値に換算すると百数十億円という超莫大なものでした。。この額を、トイスラ―博士は米国市民、民間団体から寄付して賄う計画を立てたのです。
百数十億という額からしても、かなり無謀な募金ではありましたが、トイスラー博士はこの募金活動に、ポールにぜひ協力してもらいたいと願っていました。ポールは最初は「えっ、マジかよ・・」みたいに思ってはいたものの、後の手記には「私の日本での経歴を形成するうえで、この期間は重要な意味を持っていた」とも述べるほどの経験となったんですね。
そして、ポールとトイスラー博士は聖路加国際病院建設の募金のため、1928(昭和3)年3月にアメリカに出発。その壮行会には、明治の超有名な実業家で、壱万円札に載ることが決まっている渋沢栄一も出席していました。
このとき、渋沢は88歳で自宅静養の身でありながら、「会わなければ後悔する!」と言って周囲の反対を押し切って参加したという。
アメリカでのトイスラー博士による募金集めの手口は生易しいものではありませんでした。1929(昭和4)年10月8日、ニューヨークタイムズ紙にトイスラー博士の募金活動が紹介され、「トイスラー伝」には以下のように引用されています。
世界を結ぶ医療センターチェーン
「この提案はトイスラー博士によって行われた。大規模な医療チェーンの中身はニューヨーク医療センター、ハーバード医科大、北京医科大、ベルトーイのアメリカ大学医学部、パリのアメリカ病院、そして東京の聖路加国際病院などを結ぶ構想だ」
第一次世界大戦後に急速に発展を遂げたアメリカの近代医療を世界に伝えるための医療チェーンを作ろうという主張を大新聞に載せ、「病院建設は日本への福音伝道のためであり、貧しい人たちを救うためだ」と壮大な理想を訴え、その実現のために市民の協力を要請したのです。
当時のアメリカでは排日運動も行われていたことから、「 日本の聖路加病院の募金だ!」と正直に書いてしまうと募金は集まらないかもしれない。。そのため、建前として「第一次世界大戦後に急速に発展を遂げたアメリカの近代医療を世界に伝えるため」「貧しい人たちを救うため」として募金をしたのです。。
すげー、すげーよトイスラ―博士!!
今ある聖路加国際病院はこのような方々の貢献があって、今も残り続けているんですな!
そして、ポールは後に清里農村センターの建設資金を米国での募金に頼ることになるわけですが、それは、トイスラー博士のこの募金手法を踏襲することになるのです。
聖路加国際病院の復興事業を終えたころのポールは、もうアメリカでのホテルマンの夢はどこへやら、、日本のために全生涯を懸ける決意が固まったようでした。
というのは、ポールの周囲には自ら安楽な生活を放棄し、生涯を懸けて貧しい日本の民衆のために黙々と働き続ける伝道者たちが数多くいたことが大きく影響していたのではないですかね。
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アメフトを日本に広めた功労者!
まだまだ、ポールの功績はこれだけにとどまりません!
なんと、日本にアメリカンフットボールを広めた功績もあるんですね。
そのキッカケになるのは、立教大学野球部に関わったことでした。
昭和六年度の東京六大学リーグでは、立教大学野球部が制することになり、リーグの慣例によって翌年の春にアメリカへ遠征することになりました。そして、この遠征の日程作りをポールが担うことになり、それからポールの関心はスポーツの分野にも広がっていきました。
その後、ポールは「FATHER OF FOOTBALL(フットボールの父)」とも言われるように、日本にアメリカンフットボールを広めた功労者でありますが、なぜ広めたのかに関してはアメリカから日本に留学していた日系二世にあった深刻な問題が背景にあったのです。
この当時、日系二世は日本円が暴落したことでアメリカにいた日系人はその子弟を日本の大学に留学させれば教育費が安上がりになるため、早稲田大学や明治大学、立教大学に多く進学していました。ただし、彼ら留学生は言語が不自由なことや生活環境の違いなどがあったのです。
そして、明治大学や早稲田大学にいた二世たちは、昭和9年の春頃に母国で親しんできたフットボールのゲームを防具無しで行っていました。
この話を聞いたポールは、日本へのフットボールの普及を話し合う準備会を開き、防具無しのタッチフットボールではなく本式のフットボールを普及すべきだということで、立教大学五番館にて東京学生アメリカン・フットボール連盟が誕生。
そこで、初代理事長にポールが選ばました。
そして、昭和9年11月29日に、日本で初めてのアメリカン・フットボールの公式試合が明治神宮外苑競技場で行われることになります。
開催されたのが平日(木曜日)ということもあり、ポールは「まぁ、二、三千人くらい来りゃ良いっしょ!!」と思っていたのが、観客は一万五千人にも及び、中には秩父宮様が来賓として観戦に来られました。
しかし、連盟は発足したものの、活動資金が無いうえに競技者もごくわずか。。
ところがどっこい、
ここでもポールの募金活動の腕が振るい、聖路加国際病院や在日外国人教師連盟など今まで培った人脈によって資金援助を図ったのです。
この頃は、アメリカの批判をよそに日本の中国での軍事行動が拡大し、国際連盟をも脱退するというかなりヤバい状態でした。。日米間が怪しい時代に、アメリカの国技を日本で行うことに、ポールは平和への願いを込めていたのです。
ポールが支援し続けた「澤田美喜」
そしてポール・ラッシュを語るときには、澤田美喜の事も書かなくてはいけません。
今現在、神奈川県の大磯町には「エリザベス・サンダース・ホーム」という施設があります。この施設は、三菱財閥の創設者である岩崎彌太郎の孫にあたる澤田美喜が、戦後に生まれ、街で捨てられていた混血孤児たちを保護する目的で作られた養護施設です。
また、彼女は隠れキリシタンに関する品々のコレクションもしていて、それらはエリザベス・サンダース・ホームの隣にある澤田美喜記念館に展示されています。
↓↓エリザベス・サンダース・ホームに関して書いた記事はこちら
実はこの養護施設事業にはポールの多大なる協力があったんですね!
澤田美喜は、戦後に米軍が進駐して一年が経過した頃から、街で捨て子として発見される、黒い肌をした混血孤児たちの救済に心を巡らしていました。
それは、戦前、外交官の夫である澤田廉三(さわだ・れんぞう)の任地イギリスで、孤児院セント・バーナドス・ホームを見たことがキッカケで、日本にも同様の明るいホームを作ろうと思っていたから。
そのころ、ポールは澤田家の麹町にあった自宅をCIS事務所として接収するとともに、大磯の岩崎邸に引きこもっていた澤田一家に個人的な援助をし続けていました。
そして、いざ美喜が大磯の邸宅を施設にしようとしても、その屋敷は昭和22年に財閥整理委員会によって父である岩崎久彌の財産税物納の対象となっていました。しかも、岩崎家三代は買い戻すことが禁止されていたため、ポールと美喜はあわててGHQと交渉して、ホームの事業を日本聖公会の事業とすることで、大磯の邸宅を美喜が使用することを認めさせたのです。
しかし、財産税物納のかわりに昭和23年2月末までに政府に361万円の現金が必要でしたが、この資金が用意できず美喜はポールに泣きつき、結局アメリカの二世が現金を貸し付けてくれることで難を逃れることに。
その後、無事にエリザベス・サンダース・ホーム事業はスタートし、混血孤児を受け入れて育てていくことになりました。
ですが、、、まだまだ問題は残っていました。
それは「施設にいた混血孤児の彼らが大きくなった後、果たして彼らはどこで働けるのか?」という問題。
混血孤児たち、肌が黒い彼らを受け入れてくれる企業はほとんどなかったため、一時は清里のキープ教会に世話になってしのぎ、最終的にはブラジルの新天地に開拓地を設けて、ホームから移民することになったそうです。
30年から40年代にかけては清里農村センターでホームの卒業生が常時働いていたようで、女性は聖公会が経営する看護学校を出たものは清里聖ルカ病院、男子は清泉寮や農場で働いていたそうです。
そう、ポールは彼らの一時的な職場を提供してもいたんですね!
ポールと澤田美喜に関してはこんな感じ。彼らはお互いが困難になった時に助け合い、固い友情で結ばれていたのです。
まっ、中には「友情以上の感情もあったのでは??」という話もありますが。。
↓↓エリザベス・サンダース・ホームに関してはこちらの書籍が大変参考になるので、気になった方は読んでみてはいかがでしょうか??
おわりに
という感じで、ポールの様々な偉業を紹介してきましたが、こういったベースがあって、清里高原発展の話へとつながっていくのです!
ということで、今回の記事はここまで!
清里高原発展の話も引き続き各つもりだったのですが、ちょっと記事が長くなりすぎるため記事自体を分けることにしました!!
↓↓続編の記事はこちらになりますm(__)m
参考文献
詳細・地図
住所 | 山梨県北杜市高根町清里3545 |
---|---|
営業時間 | 10:00~17:00(最終入館16:30) |
入館料 | 大人 500円 小中学生 200円 |
休館日 | 基本は無休 ・11月~3月は水・木曜休館 ・4月~6月は水曜休館 ※水曜日が祝祭日の場合は開館 |
駐車場 | 無料 |
電話番号 | 0551-48-5330 |
アクセス | 甲府南I.Cから車で5分 |
リンク | https://www.seisenryo.jp/spot_paulrusch1.html |