今回は、前回に引き続き、清里高原の発展に多大なる貢献をしたポール・ラッシュに関する記事になります。
前回は、ポールが関東大震災を機に日本に来日してから清里高原発展以外のことに関する話をまとめましたが、今回は、いよいよ本題の清里高原に関する内容です!
↓↓前回の記事はこちらになりますm(__)m
見出し
清里高原発展のキッカケは恩師の死!
前回の記事では、様々なポールの偉業を紹介してきました。
聖路加国際病院の復興、アメフトを広めた功労、エリザベス・サンダース・ホーム設立の援助などなど。
そんな中、なぜポールは清里高原を開発することになったのか??
それは、ポールが尊敬する恩師の方々の存在が大きな要因でした。
ポールには自分の人生に多大な影響を与えた恩人として四人を挙げています。 日本聖公会の最高首脳であるジョン・マキム主教、聖路加国際病院院長のルドルフ・B・トイスラー博士、立教学院総長のC・S・ライフスナイダー主教、群馬県草津温泉にハンセン病療養所を運営するメリー・コンウォールリー教母です。
ところが、昭和の初期頃にマキム主教とトイスラー博士が亡くなったことで、ポールはこの二人が貧しい日本のために命を投げ出して人生を終えたことが頭に残っており、その二人の理想をつなぐ事の重大な使命を感じていました。
そこで昭和8年夏、ポールは初めて日本聖徒アンデレ同胞会指導者訓練キャンプを静岡県御殿場の東山荘で開催しました。青年会員を対象にした夏季キャンプは、同胞会が提唱する「キリストの御国を男子、特に男子青年の間に拡張する」という目的を達成するためには重要な事業でした。
突然”キャンプ”という単語がでてきたため、「えっ?何で、ここでキャンプなんだ?」と思うかもしれません。。
今でこそ、キャンプは青少年の夏休みに欠かせない野外レクレーションとして一般化されていますし、多くのYouTuberがネタの一環でレジャーとして楽しんでる様子を配信していたりしますよね。
ところが、ポールにとって、キャンプは単なるレクリエーション以上の意義を持っており、これはポールだけでなくアメリカ人はキャンプを民主主義と市民としてのリーダーシップの訓練場と考えていたんですね。
キャンプに参加した子供たちは、全員が平等にキャンプ場を清掃し、食事を作り、皿を洗い、仲間が川で遊んでいるときには交代で安全の見張り役をする。このように、アメリカ人にとってキャンプは自然環境の中で行う重要な、青少年に集団教育の場となっており、目標達成のための様々なプログラムが工夫されてきました。
そしてこのキャンプをきっかけに、ポールは「農村伝道事業」を行う計画を立てることになります。日本人の大部分が住居する農村社会に教会を設置することでキリスト教が入り込み、各農村が自立するだけでなく援助するというキリスト教の精神をも盛り込みたかったわけです!
そこで、ポールは十分なキャンプ施設を作れる場所を探すことになりました。
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キャンプ地に選ばれたのが清里だった
キャンプ地の建設地としては、北海道から九州までの広範囲から参加者を募れるアクセス面を考慮して、日本列島の中心であり富士山が望める山梨県内に決まりました。
そしてもう一つ、ポールは日本の象徴でもある「富士山が見える」という点にもこだわったのです。
当時はインターネットもないため、富士山麓を歩き回っての候補地探し。そして最初に選ばれたのが、富士五湖の一つである本栖湖の西岸でした。この場所は、日本銀行も風景面で注目した場所で、この付近から見える富士山が千円札の図案にも採用された場所なんですね。
しかし、残念ながらこの場所は山梨県から開発許可がおりませんでした。そう、本栖湖は今現在も開発されていない場所であり、その頃から特別景勝保護地区になっていたんですね。
ということで、本栖湖は断念。 。
次に選ばれたのが、清里高原でした!
ポールの下に八ヶ岳の山麓である「清里」という場所がいいのではという案が浮上し、ポールも現地を視察したところ「軽井沢のようで富士山も見える場所。さらに、ここは今後観光地として注目されるはずだ!」と確信し、この地にキャンプ地を建設することにしたのです!
そしてポールは、キャンプ地建設のための資金繰りに没頭することになります。そう、募金活動の開始です!
そこで活きたのが、聖路加国際病院再建の募金活動をトイスラ―博士と行っていた経験でした。今まで築いた人脈などをもとに、聖路加国際病院の募金の際に作成したアメリカ人献金者リストを再び取り出して寄付依頼状を作りまくったのです。
しかし、この時の国際情勢は残念な状況でした。
日本は満州事変を起こしており、さらには国際連盟も脱退しているというようにアメリカから見たら敵視されまくりのやべぇ状態。それでもポールは「日本人は本来は温和で礼儀正しい民族だ!」と言い張り、募金を募り続けたのです。
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もう一人の清里の父「安池興男」
そんな清里高原という場所。当時からすると、人が住むにはかなり過酷な環境でした。
ポールによって清里キャンプの建設が開始されたころ、清里村の県営八ヶ岳念場ヶ原開拓地に北都留郡丹波山村、小菅村から28戸、62人の家族が入植してきました。
何で彼らはこんな場所に移住してきたのかというと、その時。現在の奥多摩湖である小河内ダムが建設されることよって先祖伝来の土地を湖底に失ったからなんですね!
そこで、清里村内での念場ヶ原の県営開墾が1936(昭和11)年8月13日に事業が着手。清里駅から徒歩五分ほど南下した地点に八ヶ岳開墾事務所が開設され、その所長には、京都府から山梨県耕地課に転勤してきた青年農林技術師の安池興男(やすいけ・おきお)が着任しました。
入植者たちは住み慣れた土地を離れた悲しみと将来の不安焦燥に満ちている状態。。しかも、水没保証金は借金返済で使い果たした方も多く、彼らに帰るべき家はなかったようです。
清里では、入植の当初は住む家も建設されておらず、開墾事務所の事務室と倉庫にムシロを敷いてゴロ寝の生活が続いていました。標高1,200mということで冬の厳しさは想像を絶しており、あまりの寒さに家族が体を寄せ合って寝ていたようです。
そこで安池所長はダム犠牲者たちの過酷な境遇に同情を覚え、やむなく自ら営農指導、さらには学校が遠いということで八ヶ岳分教場の創設などの大役を買って出ることになります。
入植者たちにとっては全くの未知の場所でしたが、安池所長の多大なる貢献のおかげで自立への道を進むことができたのです。その後、安池所長は昭和16年に奈良県へ転勤となりますが、清里の人々との交流は生涯にわたって続いたのです。
キャンプ地の名称は「清泉寮」
八ヶ岳山麓に清里キャンプの建設計画が決まり、施設の名称はキャンプ地を建設する「清里村」と、隣にある「大泉村」を一文字づつ取って「清泉寮」と命名されました。
しかし、日本語がわからないポールはポカーーンとしていたそうですが、「清泉寮とはピュア・スプリング。つまり、清らかな泉が湧いているキャンプ地という意味だ!」と英訳すると、ポールはすっかり喜んだという。
清泉寮の建設工事は進んではいたものの、その道のりは厳しいものでした。
そもそも戦時中だったということもあり物資や人手が失われ、さらには梅雨季に入ると記録的な長雨が山麓一帯を襲い、キャンプ地建設は絶望的だったという。
しかし、ここで立教大学の学生たちから「清泉寮を助けようじゃないか!」という声があがれば、教会からも援軍がやってくることに。
さらには、戦前の日本を代表する製糸産業だった片倉工業、三井財閥の岩崎家からも資金援助が寄せられるなどで、1938(昭和13)年7月24日に無事に落成式となりました。
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清里を農村伝道のモデル拠点に
しかし、その後の1941年12月8日に太平洋戦争が勃発。日本にいたアメリカ人はこれによりほとんどの方が帰国してしまうことになります。ポールは帰国を拒んだものの、敵国の人間ということでスミレキャンプ収容され、後にアメリカに帰国。
これにより、清里村事業は途中で頓挫してしまいます。。
戦争が終わった後は、清泉寮は伊豆大島の障害者養護施設・藤倉学園に売却されてしまいます。しかし、学園の運営は過酷な清里の冬の寒さに適合できず、大島へと戻ってしまい清泉寮は放置されていました。
その後、ポールは日本に戻り、もう一度、清泉寮再建へと動き出すことになり、戦前から尊敬していた佐々木主教より「清泉寮を明日の平和国家日本の再建のために、農村伝道のモデル拠点としてほしい」という言葉を受けます。
「清里を日本の再建モデルに」という言葉はポールを身体の底から激しく突き動かせました。これにより、”聖地清里”の建設をするために、清里村の方々にはポカ~~~んとしてしまうほど壮大なビジョンが誕生したのです。
2. 新しい農産物を北巨摩郡に紹介する実験農場を造る
3. 牛、ミルク、バター、チーズの実験酪農計画をスタートする
4. 観光客のための休暇施設設備として山荘、学生ホルテルの建設、また道路改良、村を結ぶバスを運行する
5. 地域教育の向上策として、幼稚園から職場学校までを整備する
6. 地位行き文化向上のため、各村に公共図書館を設け、村民歌謡祭を奨励し、毎夏に著名な交響楽団のコンサートを開く。
7. 地域保健の向上のため三十床の八ヶ岳病院を建設する
8. 地域住民の精神生活を向上させるため、日本聖公会の協会を設立し、礼拝堂を作る。
清里高原での酪農にも貢献
ポールは日本の自立は、国民の食料供給の自立からスタートすべきだと説きました。というのも、日本は国土の8割近くを山岳が占めており、耕作地は国土の16%しかないため、食料生産を自力で確保しなくてはいけなかったのです。
そして清里では、戦後高冷地開拓は当初雑穀作りを主眼としていましたが、清里開拓地の標高は1,200m。この時はまだ清里のような高冷地ではうまく酪農ができる技術が確立されていませんでした。 。
ということで、ポールはアメリカのような高水準の酪農を日本でも出来るよう、アメリカ国内での募金集めの際に、酪農技術の収集も行うようにしていたのです。
そして昭和26年の夏、ポールはテネシー州のセント・ジョン教会で酪農家たちと話し合いなどを通じ「酪農には乳量の多いホルスタインもあるが、山間の高冷地なら体が丈夫で粗食に耐えるジャージー種が一番良い」という情報を得ることに。
そこで、テネシーの農民はたちは、清里にジャージー牛を送ることを決めました。さらには、大型トラクターと付属のすき(鋤)などの耕作機具一式も送られることになり、これこそが開墾不能と言われた高冷地に酪農開発の可能性を示したのです。
そしてこれだけではなく、新しい高原野菜としてアスパラガス、ブロッコリー、キャベツなどの栽培も行うようになりました。こうして、清里高原は高冷地での酪農や全国でも有数の高原野菜の産地として発展していったのです。
清里農村センターの成功を見て、日本では農林省の高冷地開拓方針は昭和20年代末から急速に雑穀農業から酪農へと転換されていきました。
ジャージー乳牛の緊急輸入、酪農振興法公布のように、山間林野を牧野に転換して、草食高能力牛のジャージーを導入していったのです。そのため、清里は近代酪農の理想を掲げる聖地として注目されていったのです。
今でもジャージー牛乳が飲めるよ
ポールの尽力もあって、高冷地での酪農が始まった清里高原。
今でも酪農の歴史は続いており、いくつかの施設ではジャージー牛乳やその牛乳を使った料理などもいただくことができます。その中で、私が訪問したのは上の写真にも写っている清泉寮ファームショップ。
ちなみに、訪問したのは一年くらい前っすね!
館内はこんな感じっす。訪問したのは平日だったということもあってまばらでした。。
人が多くなくてゆったりできたけどね(*’▽’)
いろいろお土産は売ってましたけど、今回紹介したいのはこちらの乳製品ね!!
ポールの努力によってここでジャージー牛の牛乳が飲めるわけだ!
感慨深いぜ!!
ってことで、ジャージー牛乳とヨーグルトを購入。牛乳はさすがに1リットルは多すぎるので500mlのものを購入(笑)
私が訪問したのは夏の涼しい時期。一人ベンチに座りながら、清里高原発展に捧げたポールの事を思いながら牛乳とヨーグルトをいただきましたよん。
援助には自立を促すのが大事
清里は戦後日本の新しい農村のデモンストレーションとトレーニングのモデルセンターとして注目され、全国の地方自治体から「本県にも清里農村センターと同じものを建設して、農村を指導してほしい」という要望が寄せられました。
その中で、清里に次ぐ第二のモデルとして北海道日高国新冠(にいかっぷ)でまた農村モデルが誕生しかけたましたが、こちらは資金難により途中で頓挫。。
その後、山形県の矢島町にも影響を与え、ジャージー種のみを飼育したことで「ジャージー酪農の町」と言われるようになりました。
ポールは清里にて、”持てる者”が貧困や飢えに苦しむ人々を援助する最も望ましいノウハウを日本の人々に示したのです。
アメリカには、人を援助するにあたって「help people to help themselves」という言葉があります。これは、単にお金や物資を寄付するのではなく、”相手の自助努力を促す援助のあり方が最善である”という意味。
これ、コンサルでもよく聞く話で、「あの人にコンサルしてもらったから今がある、本当に感謝です!!」と言われるのは二流であり、「あの人に相談しなくても自分で出来たじゃん、相談しなくて良かったかも。。」と思われる方が一流のコンサルタントっていうね。
つまり、答えだけを教えて、相談相手がいないと物事を解決できないのであればいつまで経っても頼り続けなくてはいけない、、。本来のコンサルタントは、その人が自分で物事を解決できるようにそっと背中を押すことが大事って話っすね!
ポールの願いとして、アメリカ人の方が清里のために行った支援は、今後、清里の人々も同じようにその恩返しとして、アジアなどの貧しい地域の貧困や飢えに苦しむ人々が自立できるように援助してほしいという思いが込められているのです。
先ほど、記事の中でも「各農村が自立するだけでなく援助するというキリスト教の精神をも盛り込みたかった」というのは、ポールや彼の師であるトイスラ―主教が行ったような援助をする心を受け継いでほしかったということ!
ポールは最終的に十以上の公的な団体や法人を生み出し、石橋湛山、澤田美喜、田中穂積、吉田茂など多くの著名人とも親交があった方でした。
生涯独身を貫き、82歳で亡くなる最後の最後までアメリカ人の誇りを忘れず、日本人以上に日本を愛した生涯を送り、最後は聖路加国際病院にて、人生を終えることとなりました。
おわりに
以上のように、ポール・ラッシュは日本にいろんな影響を及ぼした偉人だったわけです。んで、この辺の彼の人生や清里高原の歴史に関しては、ポール・ラッシュ記念館で学ぶことができるんですよ!
私はここに訪問したのは2年くらい前でしたが、今こうして記事に書き起こすとまた行きたくなってきますわ。本当に。。
ということで、次の記事では二記事にわたって紹介したポールの人生を踏まえつつ、この博物館を紹介していきたいと思いま~す(*’▽’)
ということで、次の記事までしばしお待ちを!
参考文献
詳細・地図
住所 | 山梨県北杜市高根町清里3545 |
---|---|
営業時間 | 10:00~17:00(最終入館16:30) |
入館料 | 大人 500円 小中学生 200円 |
休館日 | 基本は無休 ・11月~3月は水・木曜休館 ・4月~6月は水曜休館 ※水曜日が祝祭日の場合は開館 |
駐車場 | 無料 |
電話番号 | 0551-48-5330 |
アクセス | 甲府南I.Cから車で5分 |
リンク | https://www.seisenryo.jp/spot_paulrusch1.html |