今回は洞窟に関するお話です。
といっても、山奥にある自然が作り出したとかそういった洞窟ではなく、人工的に作った洞窟に関するお話。
その洞窟である「無窮洞(むきゅうどう)」は長崎県の佐世保市にあるんですが、それはいわゆる本土空襲に備えて掘られたものだったんですね。今は保存会の方々の尽力によって、無料でその洞窟を見学出来る場所になっているんです。
ということで、その無窮洞とはどんな洞窟なのか?
以下で紹介しますね〜( ̄▽ ̄)
二年かけて人力で掘り続けたんだって!
今回のターゲットがあるのは、長崎県の佐世保市。
神奈川県に住んでいる私からすると、めちゃんこ遠い場所にあるわけですが、ここは博物館の本の取材で全国を旅しているときに寄ったという感じなんです!
んで、今回のテーマである洞窟にも色んな歴史的背景がある場所は全国を探すとたくさんあるんですよね。その大抵が太平洋戦争関連な気がしてますけども。。いわゆる本土空襲の防空壕として掘ったとか、単に逃げるというだけでなく、そこに機能を移しちゃうってやつとか。
機能の移転といえば、例えば長野県長野市にある松代象山地下壕が挙げられますかね。軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すために掘られたってわけっす。
ここも無料で見学できるんすよね〜。
それ以外にも、長崎には「とんねる横丁」とか「三菱兵器住吉トンネル工場跡」とか洞窟関連のスポットって探せばたくさんあると思いますけどね。
ということで少し話が逸れてしまいましたが、今回の洞窟である「無窮洞」は、本土空襲に備えて当時の国民学校の生徒たちを避難する場所を確保するために掘ったという洞窟になります!
その場所がこちら!!
この洞窟、普段は上の写真奥の管理室に常駐している無窮洞顕彰保存会のスタッフの方が洞窟内を案内してくれるようなのですが、私が訪問したときは新型コロナウイルスが世間を賑わしていた時期ということもあって、洞窟の外で軽く説明を受けて、洞窟内は自分で鑑賞するというスタイルとなっておりました。
コロナの時期は仕方ないっすよね。。
ということで、資料を見せていただきながら軽く説明をしていただきました。その資料の一つがこの平面図。洞窟の中はこんな感じになっているとのことです。
ささっと歩けば一瞬で見れてしまいますが、中には主洞と副洞の二つのメイン通路があって、教壇、書類室、台所、便所、避難道(非常階段)なども作られているって感じですね!
もう一つ資料を見せていただきましたが、この絵は1933(昭和7)年の今の場所を再現したものっす。この場所には、今でいう小学校一年生から中学二年生の生徒が通っていた国民学校があったんですね。
旧宮村国民学校(現:市立宮小学校)っていう国民学校みたいですけど。
んで、この洞窟は当時の校長の発案で1943(昭和18)年の8月から1945(昭和20)年8月15日まで、二年かけて掘り続けられました。何で1943年からなのかというと、この頃には太平洋戦争の戦いぶりから、もう日本の敗戦色が濃い時期であり、空襲の話も聞こえてきていたとのことでした。
空襲から生徒を守る策として、当時の校長は防空壕を掘ったというわけっす。
そして時は経ち、佐世保市の100周年記念事業として、洞窟の内外を綺麗に整備して2002(平成14)年に一般公開されたって流れみたいですよ。
ということで、スタッフの方から一通り説明を聞かせていただいたので、早速入り口に入ってみますか!
中に教室を移す計画だった!?
おお〜、中に入るといきなりこんな光景が飛び込んできます。
上の写真に写っている箇所がこの洞窟の主洞であり、幅が5m、奥行きが19mっす。そんで、奥にあるのは教壇なんですね〜。
ちなみにこれ、高さが5mということですが掘り方としては上から下(高いところの部分から徐々に低いところ)に向けて掘ったんでしょうね。ここの岩盤は凝灰岩で出来ており、その岩をツルハシなどの道具を使って人力で二年かけて掘っています。
人力って、、、半端ねぇな。。
下を見てみると、床は木の幹みたいな形をしています。これは排水路ですね。写真の奥から手前に向かって水が流れるってことっす。
洞窟とかトンネル工事をすると出水というのは大方発生する事象で、水抜きというのが大きなネックになるわけです。
青函トンネルとか、静岡県の丹那トンネルなどなど昔のまだそんなに技術が確立していなかった時代は工事中の出水事故で亡くなるってのがザラに起こっていたわけですからね。
ふと、右の壁に目を向けてみると、こんな数枚の写真が展示されていました。
当時の掘削時の風景っすね!
こんな感じで洞窟を掘り続けていたんですね。。
掘っていたのは、当時の高等部、今でいう中学生の生徒たちでした。というのも、先生たちは戦地などに召集されていたこともあって、生徒にやってもらうしかなかったそうです。
男子はツルハシなどで掘り、女子が洞窟の整形を、そして女子や下級生が崩された瓦礫の運び出しをしていました。
そんで、実際に掘り進む際に使用していた用具もありましたよ。。これはマジで実際に使われた本物とのこと。
使われていたのは、今から75年ほど前ということもあって、かなり時代を感じますね。しかし、こんなもので岩盤を掘り進むってのはマジで尋常じゃないっすわ。。掘り進んでいる際に、事故とかは起きなかったんだろうか。。
主洞の突き当たりには教壇がありますが、これが無窮洞の大きな特徴なんですよね。
というのも、この洞窟を掘った一番の目的は空襲で生徒たちが被害にあわないようにすることなんですが、「ここで勉強を出来るようにする!」ということも別の目的としてあったとのこと。
なので、机を並べるスペースだけでなく、こうして教壇も作られたというわけです。
何かあった用の避難口も!?
ちなみに、この無窮洞に訪れる方々の多くは小学六年生の修学旅行生とのこと。
まさに、この洞窟を掘っていた同時の子供達とほぼ同じ年齢ということもあり、今の子供達に、「先人の同級生が、当時こういうことをせざるを得なかった」ということを学ぶ平和学習の一環として訪れるそうです。
あ〜ハイハイ、こういった防空壕的な洞窟の場合は御真影棚はあるものですよね。いわゆる天皇皇后の写真を掲げる棚っす。
ここは重要書類を置く棚だったとのこと。
あ、あとここは禁煙ね(笑)
飯を食う必要もあるため、洞窟の奥にはかまども作られていたというか、このかまどは未完成の状態で使われることはありませんでした。作っている最中に終戦となってしまったためです。
おっ、そのかまどの隣にはこんな道がありました!
何か起こった時のために避難する必要もあるということで、こういった抜け道も用意されてたんですね〜。
という感じですね。
再び主洞に戻ってきてフィニッシュ!
見ていただいても分かる通り、そんなに大きな洞窟ってわけではないっすね。そのため、空襲の時には、全校生徒600人が避難しましたが、酸欠状態になったために農家の方から「唐み(農機具の一種)」を借り出して、入り口から空気を送っていたというエピソードもあったんですって!
今から75年ほど前に、ここでそんなことがあったとは、、本当に考えられない。。
おわりに
以上になります!
しかし、防空壕を中学生くらいの生徒たちが掘ったということで、本当に大変だったでしょうね。でも、こうした遺構を今でも語り継いでくれる方がいるからこそ、後世に伝えることができるわけですから、無窮洞顕彰保存会の方々には本当に感謝感謝でございますm(_ _)m
ということで、無窮洞に関して書いてみましたが、ここはアクセスがちょっと悪いっすからね。。なかなか行きづらい場所ではあるんですが、無料で大変勉強になる場所なので、よければ行ってみてくださいね!!
参考文献
詳細・地図
住所 | 長崎県佐世保市城間町3-2 |
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入館料 | 無料 |
開館時間 | 09:00~17:00 (見学受付時間は16:30まで) |
休館日 | 年末年始 |
駐車場 | 無料 |
電話番号 | 0956-59-2003 |
アクセス | <車>佐世保大塔ICから約20分 <バス>JR佐世保駅から西肥バス「川棚バスセンター行」約45分、宮支所入口下車徒歩約3分 <JR>JRハウステンボス駅からタクシーで約5分もしくは徒歩約30分 |
リンク | https://www.sasebo99.com/spot/61274/ |