こんちわっす!
今回の記事は、またまた老舗旅館を取り上げます。
その旅館とは、群馬県安中市にある明治17年創業の「金湯館(きんとうかん)」なんですね。とにかくこの旅館、何が凄いって場所がめっちゃくちゃ秘境なんですよね。
もう本当に山の中過ぎて、都会での仕事とか人間関係とか何もかもイヤになったら逃げこみたい。そんな場所にあるんですよ。
とはいえ、明治憲法の草案も作成され多くの著名人も訪れた歴史ある場所でもあるのです。とにかく、ネタはたくさんあるので、早速以下で紹介していきますね~~(*´▽`*)
凄まじい秘境に位置する老舗旅館
今回の旅館は、行くだけでもいくらかのネタがある旅館なんですよね。
まず、あまりに秘境にありすぎて来るまで旅館まで行くことが出来ません。。そのため、宿に行くためにはいくらかの段階を踏む必要があります!
1. 朝になると旅館から電話が来る
2. ドライブイン玉屋まで来たら旅館に一報を入れる
3. ドライブイン玉屋から金湯館の駐車場まで20分くらい走る
4. 金湯館の駐車場まで宿の方が車で迎えに来てくれるので、自分の車は駐車場において宿の車に乗り換える
5. 宿の車で20分ちょい走ると金湯館に到着
温泉のみ利用の場合
1. 金湯館の駐車場まで車で向かう
2. 金湯館の駐車場から金湯館まで、山道を30分くらい歩く(宿の方の迎えは宿泊客のみ・・)
私は車で向かったので、金湯館の駐車場まで自分の車で行き、金湯館の駐車場から宿の車に乗り換える感じで向かいました。ただし、電車で来た場合は横川駅まで宿の方に迎えに来てもらえるとのことです。
マジでお客さんの送り迎えだけで宿の方もかなりの重労働な気がしますが、場所的に仕方ないっすよね。。(;・∀・)
とりあえず、私は車で行ったので、まずは自力で金湯館の駐車場まで行く必要がありました。んで、駐車場で宿の車に乗り換えるわけですが、ちょうど同じくらいの時間にお互いが到着するように駐車場の近くまで来たら宿の方に連絡する必要があるんですね!
自家用車で行く場合は、「ドライブイン玉屋」が目印になり、ここに到着したら「玉屋に到着しました!」と宿に一報を入れます!
ドライブイン玉屋~駐車場までの時間と、宿から駐車場までの時間が同じくらいなのでここで連絡入れるのが好都合なんすね!
ちなみに、この「ドライブイン玉屋」は明治26年創業の老舗ということでこの店も色々調査したいんですが、それはまた次の機会ということで(;・∀・)
ということで、先ほどの「ドライブイン玉屋」から20分ちょいくらい走って駐車場に到着。この時点で、既に私のスマホは電波なしです。。金湯館は、ドコモとKDDIであれば通信可ですが、ソフトバンクは電波入らないっす。
んで、宿泊ではなく金湯館の温泉に浸かりたい人は、駐車場から山道を30分くらい登る必要があります。
宿が駐車場まで迎えに来てくれるのは宿泊客のみ。そりゃそうだ、温泉のみの方が来るたびに迎えに行くのは無理だわなww
ということで、私は宿泊のため宿の方が車で下りて来てくれて乗り換えることに!!
駐車場でさえ結構な奥地ですが、この車でさらに20分ほど奥に入って行きます。
入って行く道はココ!!
普段はバーが下りていて、金湯館の車とか特別な事情がないとこっから先は一般車も入って行くことが出来ないっす!
ここから20分くらい道を進んでいくと金湯館の建物にようやく到着するわけです。
ネットが繋がらない世界へ!
宿の方の車でひたすら山奥に入って行くと、やっと建物が見えてきました!!
思った以上にデケェ・・。
しかし本当にすごい場所です。ここに来る方は皆が同じような感想を持つそうですが、よくこんな場所で今の時代まで旅館が続いてるものですよ。
階段を下りて、この橋を渡ると旅館です。
いや~なんか来るとこまで来たって感じですよ。
蛍光灯だけでなく天井に吊るされたランプにも明かりが灯されており、旅館というか山小屋という雰囲気。
とりあえず、受付の宿帳に記入をして部屋まで案内していただきました!
私が宿泊したのは、こちらの襖があいてる部屋。この奥には新館があるんですが、私は古い建物のほうが良いということで旧館を選択!
部屋はこの襖で仕切られてるのみで、鍵はありません(笑)
んで、私が宿泊した部屋はこちら!
既に布団は敷かれており、ポットとテレビ、あとはストーブがある感じです。金湯館には、かつて伊藤博文もやってきており、この部屋にて明治憲法の草案を作成したんだそうですよ!!
それだけ歴史がある部屋ということで、もう歴史好きには大満足の部屋であります。
ちなみにテレビはブラウン管。
老舗旅館に行くと、こういう懐かしい家具とかが今でも残っていてほっこりするんですが、ここにも残ってましたか(*´▽`*)
天井には、ぶっ太い梁がクロスしてました!!
あと、部屋にはこんな注意書きも!!
そういえば、車で金湯館の駐車場へ行くときにサルの群れに逢いましたわ。。宿の方に聞くと、さすがに山奥ということもあって鹿や熊、さらにはキツネなどいろんな動物を見かけるそうですわ!
ということで、秘境の宿にチェックインしたわけですが、私が宿泊した様子は一旦ここで区切って、宿の歴史の方に話を移しますか。
山津波から奇跡の生還
では、ここからは金湯館の歴史を紹介していきたいのですが、まずは「山津波から生還した話」から行くことにしましょう!
そもそもですが、金湯館がある場所は、明治時代までは霧積温泉といわれる温泉が湧く避暑地でした。この温泉地の歴史は西暦1200年代に遡り、そのころに見つかったといわれています。
霧積の温泉の発見は西暦1200年代と伝えられています。その当時、霧積山中で、猟師の連れた犬が傷を追い、その犬が水の溜まりに傷口をつけていたところを猟師が不思議に思い、その水を調べたところ、温泉と判明しました。犬が発見した温泉として、暫くは“犬の湯”と呼ばれていました。
金湯館HPより
https://www.kirizumikintokan.com/secret/secret2.html
金湯館のHPには上記のように、霧積温泉の始まりについて書かれていました。
金湯館から麓に向かって川に沿ったような形で旅館が徐々に立ち並び、明治初期から霧積山一体には、旅館や別荘など42軒が点在したそうです。
金湯館には昔の霧積温泉の様子を描いた絵図がありましてですね、この図は明治22年に発行されたもののようで、旅館や別荘などが立ち並ぶ様子が描かれてるんですよね。
ちょっとよく見えないので拡大すると、、、
こんな感じですかね!!
すげぇ大雑把ではありますが、地図に落とし込むとこんな感じですかね。
当時はどんな雰囲気だったんだろな~~。
ちなみに、以前の記事でも紹介した超有名駅弁『峠の釜めし』で知られる荻野屋も、元々は霧積温泉で旅館を営んでいました。
↑上の記事でも説明してますが、荻野屋は「高崎~軽井沢間に信越本線が開通する」という話を後の首相である桂太郎から聞いたことで、麓にある横川駅へと拠点を移すこととなるんですけどね。
そんな温泉地でもあり避暑地だった霧積温泉ですが、1910(明治43)年に悲劇が起こります!
なんと、大洪水による山津波(土砂崩れ)が発生したことで、霧積温泉に建ち並ぶ旅館や別荘が次々に飲み込まれて壊滅的被害を被ったのです。。
ところが、そんな壊滅的な山津波が温泉地を襲ったものの、金湯館だけが奇跡的に被害に遭わず生き残ったんですね。金湯館は霧積温泉の中でも奥地に位置しており、それが功を奏したようです。
ということで、霧積温泉は金湯館が残ったものの、避暑地としての歴史は突然終えることとなるのです。。
そして、群馬県と長野県の県境辺りに位置する避暑地は、すぐ近くの軽井沢へと移ることになります。
今でこそ、別荘地や避暑地として知られる軽井沢ですが、ここが避暑地として定着するまでの間、霧積温泉が旅行客を迎えていたんですね。軽井沢は私はあんまり深堀り出来てないので、また勉強しに行きたいんですが、ここは”軽井沢の父”といわれるアレクサンダー・クロフト・ショー の存在が大変大きかったようです。
軽井沢には、ショーハウスという彼にまつわる建物があり、銅像も建てられていました。
彼は明治18年に軽井沢にやってきて、この場所に大変魅せられて多くの人にこの地を紹介したみたいですね。まっ、軽井沢の発展に関する歴史はまた軽井沢に特化した記事で紹介するとしますかね。
では、ちょっとここで記事を区切ることにしますか!
このページでは、金湯館がすげぇ場所にあるということと山津波があった歴史を紹介しましたが、次のページでは金湯館を訪れた著名人、あとは金湯館に湧くひなびた温泉などを紹介したいと思います(*´▽`*)♨