こんちわっす!
私は博物館マニアということで今回も博物館に関する記事を書くわけですが、今回紹介するのは群馬県の安中市という場所にある「おぎのや資料館」です。
前回の記事では、駅弁として全国的にも有名な『峠の釜めし』を食し、ドライブインを訪問した内容をまとめました。んで、今回の記事は、その荻野屋の資料館を訪問して、荻野屋の歴史を存分に掘り下げてみようという記事になります。
創業から実に135年もの長期にわたり駅弁を売り続けてきた荻野屋にはどんな過去があったのか、その辺を以下で紹介しますね~~(*´▽`*)
見出し
135年の歴史を語り継ぐ小さな資料館
はい、ということで前回の記事に引き続き、再び横川駅が舞台となるわけですが、「おぎのや資料館」は駅からマジですぐの場所にあります!
駅の向かいには、前回の記事で紹介した「おぎのや本店」があり、今はここでも『峠の釜めし』をかっ食らうことが出来るわけですが、ここで食事した話は以下の前編の記事にまとめてますので、良ければこちらも読んでみて下さいね(*´▽`*)
そしてそして、そんな「おぎのや本店」の向かいにあるのが、こちらの「おぎのや資料館」。たぶんほとんどの方が素通りしそうな雰囲気ですが、私はここを目当てにやって来たというね(*´▽`*)
人の気配はまったく無く、勝手に出入りしていい感じっぽいので早速入ってみましょ~~
館内はこんな感じ!
メッチャこじんまりとしていて、部屋は二つあってその周囲に荻野屋の歴史を物語るポスターや展示物が並べてある感じですね。
こっちの部屋は荻野屋に関する展示なんですが、、、
もう一つの部屋は荻野屋ではなく、信越本線に関する展示ありました。
荻野屋は駅弁を売っていたため、信越本線とは運命共同体だったわけですからね。
今回の記事では、こちらの資料館を紹介しつつ、、、
後はこちらの書籍をもとに荻野屋の歴史をまとめてみようと思いました。
『諦めない経営 峠の釜めし 荻野屋の135年』は、現社長である高見澤志和(たかみざわ・ゆきかず)氏が書いた本。荻野屋の歴史が存分に詰まっているので、記事を書く上で参考になったというか結構この本の内容をベースにまとめたといっても過言ではないほど(;・∀・)
ではでは、荻野屋がどんな歴史を歩んで今があるのか、以下で紹介しますね!
古くは温泉旅館を営んでいた荻野屋
荻野屋があるのは、日本海側と太平洋側とを結ぶ難所の碓氷峠の近く。ここには碓氷関所という関所があり、江戸時代には、東海道の箱根、新居(静岡県湖西市)、中山道の福島(長野県木曽郡木曽町)と並ぶ四大関所の一つでした。
荻野屋が位置するのは、そんな交通の要所だったんですね。
そんな碓氷には、1625(寛永2)年に三代将軍家光が計画的に作った坂本宿という宿場町があり、その一角には霧積温泉という温泉地がありました。んで、荻野屋の正確な期限は定かではないようですが、弁当を始める前はその霧積温泉で温泉旅館を営んでいたそうです。
その霧積温泉は地図で示すとココなんですが、今も金湯館という旅館だけが営業を続けています。
霧積温泉は、明治時代には静養地としてよく知られた場所だったようです。すぐ近くには、日本を代表する避暑地として知られている軽井沢がありますが、 軽井沢がまだ避暑地として開発される前の話っすね(軽井沢は、カナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーが明治19年に訪れたことで避暑地として広まっていきました)。
静養地として知られていたことから、霧積には伊藤博文、正岡子規、与謝野晶子などの著名な文化人や政治家たちが訪れたそうです。
そんな荻野屋に大きな転機が訪れたのは、元首相の桂太郎が宿泊した時のことでした。
まだ総理大臣になる前の時代、桂太郎は荻野屋へと宿泊しに来ました。この頃は、1872(明治5)年に新橋-横浜間に鉄道が開通したこともあり、人々の交通手段が鉄道へとシフトしていた時代でした。
そんな人々の移動にも変化が生じた関係で、その頃は荻野屋の客足も徐々に減っていた時期だったのです。
そんなこともあり、創業者の夫人であるトモは荻野屋の窮状を桂に訴えて、何か助言を頂けないかと相談したんですね。すると、桂はこんなことを教えてくれました!
「これからな、高崎~横川間に信越本線が開通するんだぜ!」
ってね!!
今ではネットなどいくらでも情報が手に入る時代ですが、明治の時代は人伝てでしかこうした情報は得られなかったわけです。
それを聞いたトモは、「よっしゃ、じゃあ横川の駅で弁当を売るか!」と考えます。思い立ったら即行動!!
トモは桂に「横川の駅で弁当を売りたいのですが、何とかご尽力いただけないでしょうか」と聞くと、桂も支援してくれると約束。
そんな背景があって、政吉・トモ夫婦は霧積を出て横川へと移ることになります。
横川駅開通に向けて整備を進めていた政府に対し、荻野屋の夫婦は横川駅周辺の土地を無償提供するなど、横川駅開業へ向けて積極的に尽力しました。そういった功績が功を奏して、1885年(明治18)年10月15日に横川駅が開業すると同時に、鉄道省から横川駅の構内営業権を取得して弁当販売を開始したのです!
関東大震災が発生した際、横川には東京から多くの被災者が押し寄せてきたため、横川では避難してきた人たちへ炊き出しを提供し暖かく迎え入れたようです。荻野屋も、社会貢献活動として弁当を提供し続けたようです。
荻野屋が駅弁を売りだしたのには、以上のような背景があったんですね。
ちなみに、荻野屋が旅館を構えていた霧積温泉は1910(明治43)年に巨大な山津波(土石流)が発生したことで、温泉地や別荘地は壊滅。。これを機に、霧積温泉は避暑地としての歴史は終わりとなり、軽井沢が避暑地としての地位を確立することとなりました。
ただし、土石流の被災化を二軒だけまぬがれたようで、今では伊藤博文が明治憲法を起草したといわれる金湯館が残るのみ。。
こちらは先日宿泊してきたので、次の記事で紹介したいと思います!
なかなかヒット商品が出ない・・
ということで、1885年(明治18)年10月15日に横川駅が開業したと同時に駅弁の販売を開始した荻野屋。
ただし、荻野屋は最初から『峠の釜めし』を売っていたわけではありませんでした。最初は、上の写真の様におむすび二個にたくあんを添えて竹の皮で包んだものだったようです。お値段は五銭。
決して安い値段ではありませんが、当時はよく売れたみたいですよ!
その後、荻野屋は横川~軽井沢間に鉄道を敷くための難工事に従事した作業員の方への食糧供給を行ったり、時代が昭和に入ると世界恐慌を経て日本は軍国主義へ向かうことになり「軍隊弁当」「軍弁」などと呼ばれる弁当を売ったりしていました。
兵隊向けの弁当を受注していたことで一定の売り上げは確保できたものの、庶民の旅行は制限されたことで開店休業状態だったみたいですね。。
太平洋戦争が終戦となった後、日本は経済復興へと向かっていくも、荻野屋の経営は苦しかったそうです。
その一因は、横川駅の位置にありました。信越本線は、高崎~直江津間を結ぶルートなんですが、横川駅は高崎駅と軽井沢駅という二つの大きな駅の間にあったため、ある意味通過点なんですね。
とはいえ、横川駅は碓氷峠を超えるためのアプト式機関車を連結するというユニークな駅でした。碓氷峠から先は勾配が急だったため、アプト式機関車を先頭にして引っ張らないと超えられなかったのです。
そんなこともあり、連結のために長く列車が停車する好都合な場所ではあったんですが、それでも高崎駅と軽井沢駅という二つの大きな駅のインパクトには勝てなかったんですね。。
この二つの駅の人気に押され、荻野屋の弁当販売は苦戦を強いられることになるのです。。
戦後、横浜駅では崎陽軒の「シウマイ弁当」が登場し、横川駅の近くでは高崎駅で「鳥めし弁当」、軽井沢では「信州そば」が人気を博していました。
が、荻野屋の幕の内弁当は人気を博するまでにはいきません。。荻野屋を存続させるには、他の駅にはない魅力ある新しい駅弁を出す必要がある。
「どんなお弁当が食べたいですか」
「好きな食べ物は何ですか」
新商品を作るには、お客様の声を聞かなくてはいけない。そのため、駅弁を売りながらお客さんの声を聞き続け、都度、幕の内弁当も刷新していきました。
その中で、こんな声がありました。
「もう、冷めたご飯には飽きた。温かいご飯とおかずが食べたい。」
色んな声を聞く中で、「温かい弁当」というワードが引っ掛かったようなんですね。確かに温かい弁当というのはこの当時はなかったようです。崎陽軒のシウマイだって、冷めても旨いシウマイを目指して開発したように。
そこで、温かい弁当の研究に勤しむことになります。
まずは、今ではよく見る紐を引くと水と生石灰が合わさって熱を出す弁当を作りました。反響は悪くはなかったものの、温かいだけではダメ。お客様を満足させるには、まだ何か足りない。
そんななか、1957年の夏、荻野屋の歴史を動かすとある容器が持ち込まれることになります。
利益よりもお客さんの笑顔が優先
それが、この容器だったわけです。
釜の容器は、現在の製造元である栃木県の益子焼の製造会社『つかもと』が開発・製造したものでした。つかもとは当時、弁当と一緒に製造していたお茶やそばつゆを入れる陶器の容器などを製造・販売している会社で、その会社が小さな釜の容器を開発して、荻野屋へ持ち込んできたのです。
その釜を見て、当時の社長であるみねじは、
「私が探してたのは、これや!!」
と飛びつきました。
しかし、ここで問題だったのは弁当の値段でした。
この当時、幕の内弁当は80円、サンドイッチやシウマイ弁当などの特殊弁当と呼ばれていたものは100円くらいでした。その時代に、峠の釜めしは120円で売ることになったのです。そりゃそうなわけで、なんせ容器の値段の分だけ高くなるわけっすからね。。
ただし、この釜めしは原価計算とか利益を度外視し、「お客さんの喜んでいる顔が見たい!」という思いが優先されているみたいです。
そんな流れで、『峠の釜めし』が販売されたのは1958(昭和33)年2月1日のことでした。
とはいえ、販売した当初は思ったほど売れず、さらなる問題としては「とにかく容器が重い」ということ。
こんな感じでポスターでは笑顔ですが、実際はあまりの重さに『峠の釜めし』を担いで売ろうとしてなかったみたいです。
文藝春秋の記事で突如ヒット商品に
しかし、1958年8月、『峠の釜めし』を販売してから半年ほどが経ったときに突如異変が起きました。
いつものように駅で販売していると、列車が止まった途端に突然釜めしが売れまくったわけです。今までは売れ残りも当たり前だったものの、補充しても列車が到着すると売り切れてしまう。
それは、8月に発売された月刊『文藝春秋』9月号のコラムの中で「峠の釜めし」のおいしさが紹介されたからでした。
このコラムが引き金となり、釜めしは突如爆発的なヒット商品に!
さらに追い風となったのが、1967(昭和42)年 にフジテレビ系列の土曜劇場で、池内淳子さんと田村高廣さん主演の連続ドラマ『釜めし夫婦』が放映されたことでした。
この物語は、苦心の末に釜めしを考案し、駅弁日本一になるまでの夫婦を描いた話。信越本線の横川駅で『峠の釜めし』を売る荻野屋の高見澤みねじをモデルにした物語でした。
こうした文藝春秋やドラマの影響もあり、荻野屋と『峠の釜めし』は一躍全国区となったわけです。
そんで、『峠の釜めし』は皇室にも愛されていました。昭和天皇が富山で開催される国体にお越しになる際に、横川駅で「峠の釜めし」をお召し上がりになることになったんですって!
モータリゼーションの波に乗る!
それからは戦後の復興から高度経済成長期へと突入。経済が右肩上がりになっただけでなく、荻野屋の背中を押したのはモータリゼーションの流れでした。国民の所得が向上してレジャーブームとなり、1964(昭和39)年の東京オリンピックを機に高速道路や一般道の整備が進んだのです。
人々は海や山へと繰り出し、横川も軽井沢へ訪れる人たちの通過点として賑わい、多くのお客さんが列車に加えて車や観光バスで「峠の釜めし」を買い求めて横川を訪れるようになったのです。
そんな嬉しい状況ではあったものの、荻野屋には立地的な問題が生じてしまいました。。
というのも、荻野屋があるのは旧中山道沿いという細い道沿いに位置しているんですよね。ここは民家も多く、車や観光バスの騒音などで周辺住民に迷惑をかけてはいけないということで、国道18号線沿いまで従業員が出て行って、釜めしを積み込んで観光バスを待ったそうです。
しかし、今のように携帯が無い時代のためバスの正確な到着時刻がわからず、ずっと到着を待ってその間に釜めしが冷めるなどの問題も発生。。
そこで、観光バスやたくさんの車が入りやすい場所を作るべく、国道18号線沿いにドライブインを建てることにしました!
「峠の釜めしドライブイン」という名で、1962(昭和37)年に荻野屋の新たな事業としてスタート。
オープンと同時に連日満席となり、大変な賑わいを見せたようです!
そんな「峠の釜めしドライブイン」は、数度の改修を経て今も営業を続けています。
ということで、これからは釜めしとドライブイン事業で荻野屋が延びていくと読み、1983(昭和58)年には長野県の諏訪ICからすぐの場所に「おぎのやドライブイン諏訪インター店 」を開店。
これは、中央自動車道の諏訪ICが白樺湖や蓼科高原、霧ケ峰高原や八ヶ岳を望む地域へアクセスする重要な場所と考えたため。
この諏訪インター店も、お客さんの利便性が高かったこともあり、シーズンになると駐車場は観光バスで埋め尽くされました。
さらに、荻野屋が恩恵を受けたのが1987(昭和62)年の『私をスキーに連れてって』の映画でした!
当時の人気女優だった原田知世が主演の映画で、これがキッカケでスキー場へと足を運ぶ若者が激増!
長野県は志賀高原などスキー場が多く、その通り道にあった荻野屋は大きな恩恵を受けることになったのです。
ではでは、ちょっと記事が長くなってきたので一旦ここで区切ることにしますか。次のページでは、長野オリンピックが開催となったものの、それに向けて交通インフラに大きな動きが生じたため、荻野屋にはさらなる変革が求められたというお話から紹介しようと思います!!