こんちわっす!
日本中の知られざるスポットを取材してブログにしている『知の冒険』。
今回は、超久々に青森県のスポットを取り上げます。普段は神奈川県に住んでいるということもあって、青森県は半端ない程遠く、訪れる機会がなかなか作れなかったんですが、今回はGWを利用して川崎市の自宅から800kmを爆走して訪問しました!!
んで、今回紹介するのは青森県五所川原市にある「斜陽館」っす。ここは太宰治の生家とも知られ、多くの観光客が訪れる人気スポットではあるものの、博物館マニアとしては建物がまず素晴らしいですし、太宰治が生まれた建物というネタが豊富な場所なわけです。
ではでは、ここは建物が素晴らしいということもあり、写真多めで以下にまとめたいと思います( ̄▽ ̄)
見出し
いざ、太宰の生家「斜陽館」へ!
ということで、750kmもの死ぬほど長い道のりを運転してやってきたわけですが、高速道路が永遠に感じるほどの距離でしたよ。。20代のころは無茶しても大抵大丈夫でしたが、30代の真ん中くらいに差し掛かると、長距離運転は体が堪えるようになりますね。。
地図にするとこんな感じなのですが、見るだけでもゾッとする距離。。
本州の半分近くを一気に走った感じになりましたが、、よくぞこんな距離を一気に走ったもんだ。今回車で青森に行ったのは人生で三度目ですが、、たぶん知の冒険を続ける限りはまた行くことはあるだろうな。。
そんな大変な思いをしてやってきた「斜陽館」の建物がこちら!!
木造二階建ての、見るからに素晴らしい建物っすよね。建物の中がどうなっているのか、ますます期待が膨らみます(*´▽`*)
そして外観の煉瓦も大変立派!
では、早速中に入ってみることにしましょう!
中に入ると、一階はこんな感じになっています。
廊下を上がるといくつかの座敷があるわけですが、それ以外には受付、ミュージアムショップ、解説動画などがあります。ここは基本的に建物を鑑賞する施設という感じなので、建物の解説は結構少なめ。
ということで、明治時代に建てられた素晴らしい建物をじっくり鑑賞するというスタイルなわけですが、以下でこの建物の背景から、各部屋についてじっくり紹介したいと思います(*´▽`*)
名棟梁・堀江佐吉による設計
まずはこの建物の背景から迫っていきたいと思いますが、この建物は津軽随一の大地主である津軽源右衛門が、明治39年から一年半をかけ、明治40年に建てた建物。
六代当主の津島源右衛門が、弘前市の堀江佐吉に設計を依頼したと言われています。
「堀江佐吉って誰やねん?」という方は多いかと思いますし、私も今回弘前市を訪れるまでは誰だか全くわかりませんでしたが、弘前市出身の建築家で、彼は旧第五十九銀行、旧弘前市立図書館など明治の洋風建築を設計した名棟梁でした。
私はだいぶ前になりますが、旧第五十九銀行の建物は現在「青森銀行記念館」になっていて、内部は無料で観覧できるようになっているんですよね!!
記事にもしてますので、よかったらこちらも見ていただければと思いますm(_ _)m
あとは、こちらも現在無料で公開されていますが、旧弘前市立図書館の建物も彼の設計。八角形の双塔が大変印象的ですよね~~。
こちらも内部を鑑賞してきたので、どこかのタイミングで記事にしようかと思っております!
話を斜陽館に戻しますが、この建物の設計は堀江佐吉だったものの、施工を担当したのは堀江佐吉の四男である斎藤伊三郎でした。総工費は当時のお金で四万円ほど。
津軽随一の大地主。津軽源右衛門が明治39年から一年半をかけて、明治40年に建てた建物。
あとで写真を交えて紹介しますが、内部には様々な洋風の手法が取り入れられており、旧銀行、階段ホール、応接間などの洋間、さらに洋風トラス組の工法には堀江佐吉の特徴が現れています。
そんな津島邸ですが、戦後になると持ち主が代わり、1950(昭和25)年からは旅館「斜陽館」として営業がスタート。作家・太宰治の生家として、太宰ファンに親しまれた宿だったそうです。
旅館は平成8年まで続きますが、長い年月により老朽化が深刻となり、その後は津島家の住宅保存のために町が買い取り修復工事を開始。そして1億6,500万円もの修復費用をかけて、平成10年に今のような形で斜陽館がオープンしたって流れみたいです。
斜陽館の公式HPに、詳しい略年譜が書かれているので、気になった方はこちらを参照していただければと思いますm(_ _)m
という感じで、簡単にではありますが斜陽館の背景はこのくらいにしましょうかね。続いては、館内の様子をひたすら紹介するわけですが、この建物は、一階をぐるっと見た後に二階に上がるという順路になっているので、記事の中でも一階の部屋から紹介していきたいと思います。
太宰が生れた部屋・煌びやかな仏壇
まず紹介するのは、こちらの土間。
小さい頃は、太宰が走り回っていた場所であり、収穫の秋には大勢の小作人が米俵を積み上げ、米の検査を行っていた場所でした。
天井の吹き抜けには素晴らしい梁(はり)が組まれていますが、囲炉裏の真上にある梁には、当時生活していた時の煤(スス)が付いたたままとのこと。
続いてこちらの部屋は、太宰が生まれた部屋。1909(明治42)年6月19日の夕刻に生まれました。元々は叔母・キゑの部屋でしたが、ここが産室に当てられました。
あの有名作家は、まさにこの場所で生を受けたんですな。
大きな座敷には、「仏間」「小座敷」「前座敷」「茶の間」の四つの座敷でできています。暮らしていた当時は、仕切りの襖を外しては、たびたび宴が繰り広げられていたそうです。
襖で区切ることも出来ますが、こうして開けていると広々としていていいっすね。
こちらは大広間の仏間。きらびやかな仏壇が印象的ですね。
かつて銀行だった「店」
続いて紹介するのは「店」と呼ばれる場所。
「店」と呼ばれたこの場所では、津島家の商売である個人向け金融業と総合的な事務が行われていました。
地主である津島家には、最盛期に小作人が300戸近くもいたそうです。農業には「秋払い」という秋の収穫を見越して先にお金を貸す金貸しのシステムがあり、津島家ではそうした金融業をしていたみたいっすね。
でも、斜陽館の解説によると「太宰は、家の商売はあまり好きにはなれなかった」とのことです。。
この部屋にはシャンデリアもあったりと、一階は和の雰囲気の座敷が多いものの、ここは洋風な造りになってますね。
あと、部屋を見渡すと、こうした鏝絵(こてえ)が見られるんですよね。解説にはなかったけども、これはアカンサスの葉を描いているんだろうか??
「店」の奥は座敷になっています。ここだけでも、和洋折衷な様子が垣間見えますね。
階段がとにかくレベル高い
一階を見たところで、早速二階に上がるわけですが、この階段がまた素晴らしいんですよね。
斜陽館の建物は、柱や梁には頑丈なケヤキを使い、青森の特産であるヒバをふんだんに使った建物となってますが、この階段もケヤキが使われているように見えます。
一階からも二階からも、いろんな角度から階段を撮りまくりました。
で、写真を撮ってたらここの清掃スタッフの方が「あの場所から撮るとパンフレットと同じ絵が撮れますよ!」と教えていただいたので、撮った写真になります(*´▽`*)
階段の脇のスペースの天井は、こんな造りになってました。これは何天井って言うんですかね??
初めて見ましたが素晴らしい造りですわ!!
他にも、階段をよく見ると手すりなどいろんな場所に粋な造りが見られるので、ただ上るだけではなく、細かい所までよく見てみるのもオモシロイっすよ!!
応接間、格天井が素晴らしい二階
一階は座敷が数部屋あるなど和な造りが多かったものの、二階では一階以上に洋風な造りが多々見られます。
階段を上がって正面に見えるこちらの部屋は「応接室」として使われていた洋間。
壁紙は張り替えられているものの、天井や部屋の区にあるソファーは当時のままとのことです。
この写真に左奥にはソファーが写ってますが、太宰が青森中学時代、このソファーで寝そべってサイダーをがぶ飲みしたと、小説『津軽』に記されているそうです。
天井の模様もそうですし、明かりを灯すシャンデリアも見応えありますな~
応接室の奥にあるこちらの部屋は、書斎であり太宰の母である夕子の部屋でもありました。とはいえ、子どもたちの遊び場でもあったみたいです。
そしてこの欄間が実に独特。何をモチーフにしているのかと思ったら、雪の結晶とのことでした!!
二階にある最後に紹介するこちらのお部屋は、主人室。つまりは、太宰の父である源右衛門の部屋ってことっすね。
とはいえ、源右衛門は貴族院議員になってからは東京の別宅での暮らしが多くなり、この家に戻るのは1~2ヶ月に一度だったということもあり、あまり父はこの部屋を使ってなかったみたいです。
こちらも、先ほどの居間と同様に見事な格天井になっていますね。欄間や明かりなど結構見所は多いように思います。
ということで、太宰の生家である「斜陽館」の建物を紹介してきました。あとは、ちょっと太宰の生涯に触れて、記事を終えることにしますか。
大地主の津軽家に生まれて・・
では、最後にちょっと太宰治の人生に軽く触れてみることにしましょう!
彼の本名は津島修治(つしま・しゅうじ)。明治42年に、青森県北津軽郡金木村に父:源右衛門、母:タネの六男として、新築間もないこの家で生まれました。父は貴族院議員として妻を伴い上京することが多かったことから、幼少の太宰は同居していた母の妹・キエに預けられたみたいです。
そんな太宰は大地主の津島家に生まれ、これは斜陽館からすぐ近くにある「津島家新座敷(太宰治疎開の家)」という施設に展示されている地図ですが、太宰が生れたとき津島家の敷地はこんなにデカかった(上の地図の黄色く塗られた部分が敷地)みたいなんですよね!
叔母付きの使用人である近村タケが子守となる。太宰が2歳から6歳まで子守を務めた。生家の近くには、津島家の菩提寺である雲祥寺があります。太宰はタケに連れられて、ここを何度か訪れています。
毎年6月には桜桃忌が開催される。津島園子さん。太宰は39歳という短い生涯でしたが、彼が生き抜いた明治後期から昭和20年代は歴史上まれに見ぬ激動の時代でした。
太宰が生家である斜陽館にいたのは、青森中学に上がる前まででした。この頃、父の源右衛門が病気で倒れ、家督は兄・文治に受け継がれます。大正14年に青森中学に入学し、親戚筋である豊田太左衛門宅に寄宿することになります。
兄を通して文学雑誌を手にしていた太宰は、芥川龍之介に心酔し作家になりたいという希望を抱くようになるんですが、芥川龍之介の自殺に触発されてから彼の生活は乱れるようになり、青森の花柳界に入り浸ったり、自殺未遂を繰り返すなどで破滅型の作家と言われるようになります。
高校に進学したときには、その下宿先として旧藤田家住宅(現:太宰治まなびの家)に住むことになるわけですが、その「太宰治まなびの家」にも訪問して取材済みなので、その記事は次回紹介する形にしようかと思っています」!
斜陽館は太宰治に関する施設としては有名どころだと思いますが、私が今まで訪問した太宰関連の施設は以下になります。
・斜陽館
・津島家新座敷 (太宰治疎開の家)
・太宰治まなびの家
・土手の珈琲屋 万茶ン
・大鰐温泉 ヤマニ仙遊館
山梨県
・喜久乃湯温泉
・旅館 明治
・天下茶屋
東京の三鷹にも、「太宰治文学サロン」という施設、あとは太宰関連の碑が建ってるみたいですが、そのほかには太宰の故郷である青森県、あとは戦前には山梨に滞在していたことから、山梨県にも彼に関する施設、あとは甲府に暮らしていたときに毎日通っていた銭湯なども現存しているんですな〜。
1930(昭和5)年に東京帝国大学に進学すると、井伏鱒二に師事することになるわけですが、自殺未遂を繰り返す太宰に対し、井伏は「こいつは一人でいると何をしだすかわかんないから、奥さんを作らせないとヤバい!」ということになり、昭和14年には井伏が仲人となるかたちで石原美智子と結婚。
↓こちらが、彼が毎日のように通っていた喜久乃湯温泉♨︎
↓こちらは、太宰が昭和13年9月13日から11月15日までの二か月ほどを過ごした天下茶屋。結婚した石原美智子とのお見合いのために滞在していました。
ということで、今回は斜陽館の紹介にはなりましたが、太宰関連の施設はまだまだたくさんあり、訪問できてない場所も多いため、これからも巡っていこうと思います!
おわりに
はい、以上になります。
実はまだこの記事を書いてる段階では、私は太宰の作品を一つも読んでないんですよね。。なのに、博物館マニアということから全国を巡っているうちに太宰治ゆかりの場所を訪れるようになって、そういう観点から彼に関心を持ったという結構珍しいタイプかもしれないっす!
結局は、普段、知の冒険の活動が死ぬほど忙しくて読めないってことなんですけどね。。( ;∀;)
斜陽館の紹介はこれで終わりとなるわけですが、次回の記事も太宰関連の場所を取り上げます。それは、同じ青森県の弘前市にある「太宰治まなびの家」という場所。
太宰が官立弘前高等学校に通ってたときの三年間を過ごした建物なんですが、太宰が過ごしていた部屋が残されており、ここでも太宰のことをいろいろ学べるんですよ!!
ということで、こちらの記事も執筆中ですので、しばしお待ちいただければと思いますm(_ _)m
参考文献
詳細・地図
住所 | 青森県五所川原市金木町朝日山412-1 |
---|---|
入館料 | 一般600円、高・大学生400円、小・中学生250円 |
開館時間 | 09:00~17:00(最終入館は16:30まで) |
休館日 | 12月29日 |
駐車場 | 無料 |
電話番号 | 0173-53-2020 |
アクセス | 津軽鉄道「金木駅」から徒歩6分ほど |
リンク | https://www.city.goshogawara.lg.jp/kyouiku/bunka/syayokan.html |