こんちわっす!
日本中の知られざるスポットを取材してブログにしている『知の冒険』。今回もまたまたマイナーな資料館を取り上げるわけですが、今回のターゲットは、神奈川県の明治大学登戸キャンパス内にある『登戸研究所資料館』っす。
この資料館はメッチャ勉強になる場所でですね、かつては陸軍登戸研究所があった場所であり、戦時中は偽札や風船爆弾の製造、さらには化学兵器の研究も行われていました!
こうした歴史は表にも出ることが少なく、知られざる歴史でもありました!
そんな歴史を語り継ぐ大変貴重な施設ということもあり、今回もガッツリ資料館を訪問して学んできたので、以下でこの資料館について紹介していきますね~!
見出し
秘められた知られざる戦争の歴史
今回のターゲットである『登戸研究所資料館』は、その名の通り神奈川県の登戸に位置しています。私は、この資料館がある川崎市に住んでいるものの、予約が必須だったり、見学にも結構時間がかかると思ってたので、後回しにしてたんですよね。。
でも、土曜日の午前中に時間が出来たので、早速訪問してきました。
そして、この資料館は明治大学生田キャンパスの敷地内に位置しています。明治大学懐かしいな~。
ちなみに私も大学受験を経験した人間でですね、生田キャンパスにある農学部は受験して浪人の時に合格しましたわ。結局早稲田に行きましたが、ここに受かってたらまた違った人生になってたんすかね~。というのはさておき、一般人が勝手に敷地内に入ることはできませんが、予約したので早速入って行くことにします。
この生田キャンパス内には、研究所当時の遺構などがいくらか残っており、見学することが出来ます。
とはいえ、私が訪問したのはまだコロナの蔓延防止等重点措置が解除されたばかりの時ということもあって、資料館以外の構内見学は控えてくれって状態だったので、この弾薬庫くらいしか見れませんでしたけどね。。
その弾薬庫跡からすぐの場所に、今回のターゲットである資料館の建物がありました。何とも飾りっ気のない地味な建物ではありますが、それは当時、対動植物生物化学兵器を研究開発していた建物だったからっす。
こじんまりとした資料館ではあるものの、メッチャ学びがある資料館ということもあり、私は見学に二時間半くらいかかりましたかね。
ではでは、早速建物の中に入ってみることにしますか!
中に入って受付を済ませます。
館内はこんな感じになっているんですが、廊下の両側にある各部屋にて、テーマごとに解説が書かれたパネルや資料が展示されている感じっすかね!
館内の様子はパンフレットの図がわかりやすいのでこちらをお借りします。第一展示室から第五展示室まで、この研究所の成り立ちや、どのような研究が行われていたのか、そして最後にはこの資料館を通じて来館者の方に伝えたいことがまとまっています。
ということで、本記事でも、第一展示室から第五展示室の順に沿って、「登戸研究所の全容」「風船爆弾と第一科」「秘密戦兵器と第二科」」「偽札製造と第三科」「敗戦とその後の登戸研究所」の内容を以下で紹介していきますね~~(*´▽`*)
登戸研究所の全容とは!?
はい、ではまずは第一展示室の「登戸研究所の全容」からいきましょう!
第一次世界大戦は本格的に科学技術を動員した戦争であり、総力戦という新しい戦争形態の誕生をもたらしました。この戦争では毒ガス、航空機、戦車などの新兵器が登場し、そんな第一次世界大戦をキッカケに、日本では科学技術の戦争への動員に関心が高まったことで、1919(大正8)年に陸軍科学研究所が設立することとなります。
そして、国力のない日本では、秘密戦への傾斜が深まったこともあり、1937(昭和12)年に登戸実験場、そして1939(昭和14)年には「陸軍科学研究所登戸出張所(正式名称は、第九陸軍技術研究所)」が設立。登戸研究所では、欧米の秘密戦技術を参考にしながら、研究が進められていくことになります。
そうして陸軍の兵器開発がどんどん進んでいき、太平洋戦争のさなか、陸軍にはこれだけ多くの研究所が存在していたようです。ってかこんなにたくさんあったんだ。。( ;∀;)
登戸研究所は、数多く存在した陸軍の研究所のなかでも特別な存在でした。それは、登戸研究所が予算面では陸軍省から巨額の資金提供を受け、毒物研究や偽札製造など増えてきて、太平洋戦争になると大規模なものとなり、最盛期の1944年頃には1,000人近い方が働いていました。
最初は電波研究を行っていたものの、最終的には風船爆弾
第二科:毒物、薬物、生物兵器の研究
生物兵器とは、主に細菌やウイルスの研究。植物を枯らしたり、動物を殺傷するような生物兵器。
第三科:偽札製造
中国の蒋介石政権の偽札を製造していた。
第四科:兵器化・量産化
一科、二科で開発したものを実際に兵器化・量産する。特殊な実験道具を作る。
先ほど、この資料館では各部屋にてテーマごとに紹介していると書きましたが、登戸研究所では上記のように四科に分かれていて、テーマごとに研究が行われていました。
1939年頃にこの体制となり、これが終戦の頃まで続く形となっています。
登戸研究所について簡単に説明しましたが、続いては「なぜ登戸に研究所が誕生したのか?」について触れてみましょう。
なぜ登戸で電波兵器を作ってたの?
そんな第九陸軍技術研究所が、なぜ登戸という場所に誕生したのか?
キニナルところですよね。。
元々、この登戸の場所には、ブラジル(アマゾン)開拓移民の指導者を教育する日本高等拓殖学校がありました。1931年の満州事変から国策として満州移民が進められていくなか、ブラジルへの移住を志望する者が減ったことからか、同校は1937年の卒業生をもって閉校となります。
その学校が閉校した後、同地を陸軍が買収し、1937年に登戸実験場(陸軍登戸研究所の前身)が開設したようです。登戸実験場・登戸研究所では、日本高等拓殖学校の校舎を「本館」として使用していました。
1937年に登戸実験場が誕生し、最初はレーダーだったり電波を使って敵を殺傷する兵器を開発していました。
登戸に誕生した大きなポイントだったのは、都心へのアクセス面でした。
陸軍の研究所は、中央線や総武線沿線などの比較的アクセスが良い所が多かったみたいで、登戸も、当時は小田急線もあったことから新宿からのアクセスが良かったんですね。
そしてもう一つのポイントとしては、電波兵器を開発してたことから、高台である必要があったという点です!
高台から電波を発射して、例えば富士山に電波を当てて跳ね返して距離を測るとかそういうことをしてたみたいですね。
2. あまり目立たない高台だったこと
ということで、まとめると、登戸に研究所が出来たのは上記の二点が主な要因だったようです。
第一展示室のテーマである登戸研究所の全容については以上ですかね。ではでは、続いては風船爆弾を開発していた背景を展示している第二展示室へ!
アメリカ大本土を攻撃した風船爆弾
続いては、第二展示室の「風船爆弾と第一科」になります。
この展示室では、主に風船爆弾に関しての解説が詳しく書かれています。風船爆弾って名前がユニークなだけに、名前を聞いたことがある方は多いかもしれないですが、その風船爆弾についてちょっと詳しく学んでみることにしましょう!!
登戸研究所に風船爆弾開発の要望があったのは、1942(昭和17)年8月のことでした。
その背景には、1942年半ばから戦局の悪化があり、風船爆弾は、日本本土から直接アメリカ本土に攻撃を行うための「決戦兵器」として開発が要望されたのです。
その風船爆弾は、和紙でできた気球、高度維持装置、搭載兵器から構成されています。
元々は、牛疫ウイルスという細菌兵器を使ってアメリカ本土を攻撃する計画があり、第一科で気球部分を開発し、第二科で細菌兵器を大量生産することを考えていたんですね。
とはいえ、細菌兵器を積んでアメリカ本土を攻撃すると、アメリカも化学兵器を使って日本を攻撃するだろうということから、結局は焼夷弾を積みましたww
そんな気球を作ったわけですが、これを作るには材料としてゴムが必要になりますよね。ところが、 この気球の材料は和紙だったのです。
「何でゴムで作んなかったの?」と思うわけですが、ゴムは国内では生産できず南方の資源地帯から運んでくる必要があります。風船爆弾の開発が行われたのは1943年であり、戦時中ということもあり日本に運ぶのは難しかったことから、国内で確保できる材料で製造する必要があったわけです。
とはいえ、和紙一枚だとペッラペラなので、これらの和紙を張り合わせて頑丈にする必要があります。
そこで、粉末にしたこんにゃくを水に溶いたものを糊(のり)にして和紙を張り合わせ、 和紙を三層、あるいは四層ほどに重ね合わせていました。
風船爆弾は直径10mもの巨大な気球だったため、一つの気球に大量の和紙とこんにゃくが使われていたのです。
ということで、これだけデッカイ気球を作りまくっていたため、和紙やこんにゃくは軍が買い占めており、戦争中は一般には流通しなかったといわれています。
そんな風船爆弾は、千葉県から福島県の太平洋沿岸から放球されました!
その打ち上げ基地は、福島県勿来町、茨城県北茨城市、千葉県一宮町の三か所にあり、太平洋戦争末期には風船爆弾をここから太平洋上を吹く偏西風に載せて飛行させ、アメリカ本土を直接攻撃しました。
放球した数はおよそ一万発ほどで、そのうちの1,000発ほどがアメリカ本土に到達したと考えられています。
何で千葉県から福島県の太平洋沿岸で放球したのかというと、それには偏西風の影響が大きかったんですね。上手く偏西風にのせてアメリカに到達させるには、千葉より南だと偏西風が弱く、福島より北になるとソ連の方に逆流してそっちに飛んでしまう可能性があったことから、千葉から福島までの太平洋沿岸にする必要があったのです。
発射台があった三か所には放球台の跡や碑などが建てられておりまして、、、
だいぶ前ですが、私は千葉県一宮市と茨城県北茨城市に足を運んだことがあります。北茨城市には、こうした放球台の跡が残っていたり、、、
跡はこうした慰霊碑もありました。。放球基地でも、事故はあったんですね。。
そんな風船爆弾は、実は季節限定の兵器でした。。冬以外は、アメリカ大陸まで飛ばすことが出来なかったんですね。。(;・∀・)
というのも、日本から8,000kmも離れたアメリカ大陸まで飛ばすには、冬場の11月から3,4月頃までの偏西風の強い時でないと作戦実行できなかったんですね。。
風前爆弾って、名前が凄くおもちゃっぽい名前ですけど、紙に科学的な処理を施して弾力性を持たせており、高度でも破裂しないように、高度が下がった時に重荷を下ろして高度を維持する高度維持装置もあるというハイテクさがあったんですって!
んで、実際に風船爆弾によってアメリカ本土を攻撃した戦果はいかがだったのかというと、その影響はわずかなものでした。。
日本としては、風船爆弾のことをアメリカが市民に公表して、アメリカ市民が不安を抱いて混乱させることも狙いだったんですが、アメリカ側はその狙いを成功させないよう、何事もなかったように市民に知らすことはありませんでした。
とはいえ、アメリカ本土では風船爆弾の影響で山林火災が起こったほか、落下した風船爆弾に触れて六名が亡くなりました。アメリカ側も、最初はこの気球に何が乗っかっているのかわからなかったので、結構神経を尖らせていたようです。
という感じの内容が、第二展示室で開設されているんですよ。私は風船爆弾についてちゃんと知ったのは初めてだったので、これはこれは勉強になりましたわ!
では、続いての部屋に移動することにしますか!
人体実験という忌まわしき過去・・
続いては、第三展示室の「秘密戦兵器と第二科」になります。
こちらの部屋では、第二科で生物化学兵器、毒物、薬物、スパイ用品と多岐にわたるものを開発していたことについての説明が書かれています。
この第二科については、長きにわたりその実態が不明だったものの、第二科に勤めていた技術将校の伴茂雄(ばん・しげお)さんによる証言、そして彼が本にも記したことから、ここの実態が明らかにされていきました。
伴さんがいなければ、第二科での出来事は闇に葬られてたかもしれません。。こちらは私も購入して読んでみましたが、めっちゃくちゃ面白かったです!
気になった方は購入して見て下さいね~(*´▽`*)
さてさて、この第三展示室で「秘密戦兵器」ですが、そもそも「”秘密戦”ってなんや?」と思うかもしれません。
日露戦争のように第一線の武力戦によって行われた戦争形態は、第一次世界大戦から国家総力戦へと変わっていきました。武力だけでなく、戦略、経済、思想など国力の全てを挙げて遂行する方向に戦い方が変わっていきました。
敵の国内を混乱させ、敵の情報をどうにかして収集する。そうした必要性が生れていき、これを”武力戦”に対して”秘密戦”と呼んだのです。
いろんな兵器を開発していましたが、例えばスパイが使う小型カメラなどのスパイ用品、時限爆弾、暗殺用の毒薬などなど。
あとは諜報器材という情報の獲得、収集などを目的に用いられるものとして、優先無線通信の傍受、盗聴録音のための器材、あとは”秘密インキ”といって、書いただけではその文字が見えず、赤外線などを当てて初めて文字がわかるなどのインクの開発なんかも行われていました。
あとはスパイが忍び込んで誰かを殺害するための毒薬とかとか。しかも、その毒薬もすぐに効果が出るとばれてしまうため、後で効果が出て来る遅効性の毒薬
“青酸ニトリール” なんかを開発してたみたいっす。
そして、その青酸ニトリールは、日本の犯罪史上でも特筆すべき大量殺人事件である「帝銀事件」に使われた毒薬ではないかとも疑われている毒物なんですってね。
以前、登戸資料館ではその帝銀事件をテーマにした特別展示も行っていたみたいですが、戦争によって生み出された化学兵器がこうした事件をも生み出したらしく、大変興味深い。。帝銀事件ってあまり詳しくは知らないので、今度時間とって勉強してみようかしら。
あとは細菌なんかも研究していたみたいです。731部隊は人をターゲットとしたペスト菌などの開発を行っていたみたいですが、登戸研究所では動物や植物をターゲットとした最近の開発を行っていたみたいです。
つまりは他国の家畜、穀物つまり食料を壊滅させるための生物兵器で、小麦、トウモロコシ、ジャガイモなどを枯らす細菌を兵器化していました。そして、中国大陸ではこれを散布して実験してもいたそうです。
以上のような内容に展示パネルに加え、先ほど紹介した伴さん遺族が提供した陸軍技術有功章賞状や勲章、ストップウォッチなどの資料も展示されてます。
第二科においては、『雑書綴』という貴重な資料があるので、最後にこちらも紹介しておきます!
写真でだけ見ると全然貴重な資料に見えないかもしれないですが、登戸研究所における日常の活動を残す唯一の資料なんすわ!!
というのも、これは第二科のタイピストであった関さんが、自分が打ったタイプの控え、打ち間違いなどをとっておいたもの。本来は廃棄しなければいけないものですが、戦争が終わった時に「青春の思い出として持って帰りたいんですが、いいっすかね?」と聞いたところ、それがなぜか認められて持ち出すことが出来たってわけ。
登戸研究所で残された数少ない資料ではあるものの、その枚数は900枚ほど。
秘密性の高いものは内容としては書かれてないものの、どういう薬品を購入したのか、誰がいつどこに出張に行ったか、そういう内容の記述が多いとのことです。
という感じで、第二科についてはこの辺で!
続いてはニセ札を作っていた第三科について学んでみることにしましょ~~
大量のニセ札を作りまくっていた!
記事は、まだまだ続きますww
続いては、第四展示室の「偽札製造と第三科」になります。
続いてはこちらの展示室になるわけですが、ここの部屋のテーマは”ニセ札”っす。
ほうほう、日本は太平洋戦争のさなかに他国の偽札を作ってたんだそうですな。
しかも、この第三科は登戸研究所の中でも非常に特別な存在だったみたいです。印刷工場を中心に板塀に囲まれていたようで、一科や二科の方ですら、ここへ入ることを禁止されていました。
それを示しているのが、こちらの板塀。屋内のドアや水道栓、あと右側に見えるのは第三科の建物だった26号棟の梁(はり)っすね。
そんな26号棟にて、ひたすら他国の偽札を作りまくっていたわけですが、他国とはいえ、主に中国の蔣介石政権の貨幣を作っていました。偽札を作った狙いは、大量にばらまいてインフレを起こし中国経済を混乱させることだったようです。
実際に太平洋戦争がはじまると、中国は香港でイギリスの技術を使って印刷していました。そこを日本軍が占領し、印刷機や原版を押さえて登戸研究所に持ってきてお札を刷っていたので、限りなく本物だったようです。
ニセ札を刷りに擦りまくり、その総計は当時の額で40億円相当だったそうです。そして、そのうちの25億円ほどを実際に中国で使ったといわれています。
1945年の日本の国家予算は200億円なので、そう考えると日本の国家予算の1/5を製造していたと考えると凄い額。とはいえ、中国経済をインフレにするほどの影響はなく、日本軍が現地でいろんな物資を購入するという点ではずいぶん役に立ったとのことです。
このニセ札、資料館の解説のビデオによると、最初は中国の裏社会へと流して秘密に物資を購入するという目立たないことをやりながら流通させ、その後はヤリ口が大胆になっていったそうです。
そうして大量にばらまくと、遂にはばれることもあったようです。そうなると、より精巧に作るという方向から、エイジングと言って、しわくちゃにしたり汚したりして、既に使われているように見せかける方向に工作をしたんですって。
中国紙幣を45億円も擦りまくっていたものの、それ以外にはドル紙幣やインドルピーも製造していました。
ドル札ではマカオで石油を購入したという証言があり、ルピーはインドに工作員を潜入させる際に持たせたという話を、資料館のビデオで聞いたりもしています。
ということで、第四展示室の内容としてはこのくらいですかね!
続いては、最後の展示室である第五展示室を紹介しますよ~~
本土決戦を控え長野に退避
はい、いよいよ第五展示室の「敗戦とその後の登戸研究所」が最後の展示になります。
この展示では、太平洋戦争の戦局が悪化し、いよいよ本土決戦になった時に考えられた、軍の施設や首都機能の移転計画に関する話になります!
それは、登戸研究所だけでなく日本陸軍の主要機関、さらには国家機関までもが長野に移転すると考えられていたのです。
一番有名なのは松代大本営で、本土決戦となると日本の首都機能・皇居を松代に移転するという計画でした。
本土決戦になると、長野県はどの海岸線からも一番遠い位置にあることで、そう簡単に米軍が侵攻できないと考えていたからでした。また、松代は岩盤が硬く、そこにトンネルを掘るとちょっとの空襲でも耐えられるだろうということが背景にありました。
そして、陸軍関係の工場なども長野県に集まってくることになります。
そこで、登戸研究所では、偽札の印刷機が動かせないことを除き、第一科、第二科、第四科が全て長野の駒ヶ根一体に移転し、研究や生産を始めたのですが、始めたばかりの頃に終戦となったようです。
終戦後、駒ヶ根に移転した研究所は接収され、関係者は取り調べを受けてどんな兵器を開発していたのかなどの情報の提供を求められました。戦犯となるわけではなく、実験データの提供と引き換えに免責されるという感じだったそうです。
という施設の移転に関する話と、あとこの部屋ではこの資料館の誕生に大きく関わった伴茂雄さんに関する話もテーマになっています。
この登戸研究所に関する話は記録に残ってないことからずっと闇の中に包まれていたものの、第二科で研究していた伴茂雄さんという登戸研究所の全貌を知る数少ない方の話があったことで、その全貌が分かってきたみたいです。
そのきっかけとなったのは、戦後は駒ヶ根に住んでいた伴さんを、地域の歴史を掘り起こすということで地元の高校生たちがインタビューしに行ったことでした。
とはいうものの、最初は何も話してくれないし、伴さんは元々は登戸研究所の話は墓場までもっていくつもりだったそうです。ところが、高校生たちが人間関係を作るべく足しげく伴さんのもとに通い、「君たちには話そう」となったんですな~。
登戸研究所資料館の意義とは
伴さんは家族にすら話さなかったように、国家も自分たちが行った秘密戦に関する詳細については一切記録を残すことはありませんでした。秘密戦について手の内を明かしてしまうことは、非合法の部分、人道的に批判される部分があるわけです。
こうした加害の部分を含んだ戦争の記憶は、誰かが意図的に掘り起こさないと残らないんですね。
科学技術が戦争に取り入れられると思わぬ方向に走ってしまうこともあるようで、回想の中には、人体実験はイヤだったもののやってるうちに趣味になってしまったなんて証言もあったそうです。戦争という大義名分があると、科学技術が暴走して人間性を失ってしまうんですね。。
第五展示室にあるビデオを見ていた時にそうした話を耳にしたんですが、そのビデオの最後にはこんな言葉がありました。
「科学教育というのは、人間性を維持して常にそこを原点として見つめなおしていかなくてはいけません。そうしたことを伝えていくことが、この資料館の存在意義だと思うんです。」
この研究所で働いていた方々には、家族にも地域に人も言えない葛藤がありました。
「こんなもの作って何になるんだろうか」「私たちも戦争に参加してしまったのか」
中には、戦後にそうした複雑な気持ちを抱えたままの方もいたようで、戦争について改めて考えさせられるものがあります。
太平洋戦争について、また改めて考えさせられましたわ。。
おわりに
はい、以上になります!
日中戦争、第二次世界大戦における、世に知られていない真実が詰まった博物館でしたが、いや~これは勉強になりましたわ!
ここは予約制ということもあるし、生田って観光地でもないので行くのはちょっとハードル高いっすよね。でも、歴史好きであれば絶対オススメなので、少しでも気になった方は、ぜひ足を運んでみて下さいな(*´▽`*)
ではでは、また次の記事でお会いしましょ~
参考文献
詳細・地図
住所 | 神奈川県川崎市多摩区東三田1-1-1 明治大学生田キャンパス内 |
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入館料 | 無料 |
開館時間 | 10:00~16:00 |
休館日 | 日曜~火曜 |
駐車場 | なし |
電話番号 | 044-934-7993 |
アクセス | 小田急線「生田駅」から徒歩10分ほど |
リンク | https://www.meiji.ac.jp/noborito/ |