小津監督が愛した湘南の老舗旅館「茅ヶ崎館」に迫る!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

うっす!

今回は神奈川県茅ケ崎市にある老舗旅館「茅ヶ崎館」に関する記事になります。
茅ヶ崎というと”湘南”とか”海”というイメージが強いかと思いますが、この街にも調べがいがある歴史が眠っているんですね。

今回紹介する茅ヶ崎館は創業120年近くになる老舗旅館。大船に松竹の撮影所があった関係で、小津安二郎をはじめ映画関係の方に親しまれた旅館だったんですね~。

今回は旅館に宿泊して女将さんや社長さんからいろんな話を聞いてきたので、茅ヶ崎館がどんな歴史を歩んできたかについて、以下で紹介していきたいと思います(*´▽`*)

本記事のポイント

・大船松竹撮影所の脚本家などの定宿として利用されていた
・二番の部屋は、小津安二郎監督が滞在していた人気の部屋
・現在も多くの小津監督ファンが泊まりに来る

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住宅街に現れる湘南の老舗旅館

サザンビーチモニュメント「茅ヶ崎サザンC」

今回の舞台は茅ヶ崎市になるわけですが、来るの久々っすね。私は実家が鎌倉にあるということもあって茅ヶ崎は結構身近な場所だったりするんですよ。

海というイメージが強いこの街は、全国的にはどのくらい知名度があるんですかね~。まぁここは夏になると多くの海水浴が訪れるものの、目立った観光地というと特には見当たらないかもしれない。。

とはいえ、先日も記事にしたBRANDINというサザンの桑田さんの幼馴じみであり、あのサザンオールスターズの名付け親でもある宮治さんが営む喫茶店があったり、”東洋一のサナトリウム”と言われた南湖院、さらには海軍の演習場だった茅ヶ崎演習場などなど、歴史は深いんですよ(*´▽`*)

そんな茅ヶ崎駅の南口を出て、海側に向かって20分くらい歩いていくと、今回のターゲットである茅ヶ崎館が現れるんですね!

茅ヶ崎館の入り口

こちらが茅ヶ崎館の入り口。この旅館、庭もあり結構広い敷地を持つ旅館なんですが、周囲が住宅地なんですよね。

温泉地でもなければ観光地ともいえない、マジでがっつりの住宅地にある珍しい旅館っす!

とっても綺麗な茅ヶ崎館の玄関

館内はすんごくきれいに維持管理されているものの、昔の雰囲気を漂わせるような和な雰囲気もある感じ。扉を開けるとさっそく仲居さんが迎えてくれて旅館の中へ!

どんな空間が広がっているのか楽しみやな~。

ここで受付を済ます

まず通していただいたのがこちらのロビー。

ここは家具や照明などを見ると、洋風チックな雰囲気が漂う空間になっていますね。歴史ある旅館ということもあり、茅ヶ崎関連の歴史書や小津安二郎監督関連の品々や映画作品のポスターなども展示されておりました。

小津安二郎関連のポスター

チェックインを済ませた後、いつものように取材してブログに載せたくて旅館に泊まりに来た背景を伝えると、女将さんや社長さんを呼んでいただきいろんな話を聞くことができましたぜ!

ということで、その辺の話を書いていくことにしましょう~。

茅ヶ崎館誕生の背景

茅ヶ崎館が誕生したのは、1899(明治32)年6月24日のこと。

名古屋の織物の街である現在の稲沢市に生まれた創業者の森信次郎(もり・のぶじろう)は、東京に出ると、外国に行ける船乗りに憧れていたことから日本郵船に入社。
その後は御用船の機関長になり、相模湾を通るたびに湘南・茅ヶ崎に広がる海岸沿いの光景を見ているうちに、「あの景色の良い海岸に旅館を開いて暮らそう!」と夢を膨らませており、明治32年に開業することになります。

昔の茅ヶ崎館

女将さんからこんな絵葉書を見せていただきましたが、創業した明治の時代、まだ茅ヶ崎は住宅地という感じではなかったことから、周囲は建物も少なく閑散としていたんでしょうね。

茅ヶ崎館が創業したころ、茅ヶ崎という町は、市川團十郎などが別荘を構えたり、避暑地ということから結核の療養にも向くということで南湖院が建てられることになります。明治の頃、茅ヶ崎は別荘や結核療養所が建つ、そんな場所だったんです。

信次郎は「この茅ヶ崎の海岸は、海水浴場で栄えるはずだ!」と思い、旅館も繁盛すると目論んでいました。

ところがです、いざ開業してみると茅ヶ崎の海は太平洋に正対しており波が高いし荒く。磯は急深で、8月の盆を過ぎると土用波が押し寄せる場所。梅雨が長引き冷夏にもなると海水浴客向けの商売は非常に限られた時期でしか商売ができなかったのです。

土用波とは・・

夏の土用のころ、海岸に打ち寄せる大波。はるか沖合にある台風の影響によるうねりがやって来たもの。

https://dictionary.goo.ne.jp/word/土用波/

これではどうやってお客を集めればよいのか・・。

そんな中です、この茅ヶ崎は世間から忌み嫌われていた病によって全国的に有名になるのです。結核の療養所として開業した「南湖院」によってね!

南湖院が茅ヶ崎を有名に!

ここでちょっくら茅ヶ崎市の話を挟むことにしますね。

湘南と言われる地域に位置する茅ヶ崎市。今では海水浴客が訪れ、サザンオールスターズの歌詞にも”烏帽子岩”とか”HOTEL PACIFIC”など茅ヶ崎市にゆかりのある名称が出てくることでも知られていますね。

江戸時代に遡ると、茅ヶ崎は藤沢宿と平塚宿の間宿だった場所。元々は半農半漁だったこの場所を有名にしたのは、さっきもチラッと登場した『東洋一のサナトリウム』といわれた南湖院でした。

明治の頃、不治の病として恐れられていた結核の治療にあたるべく、比較的温暖な気候である湘南地区には、平塚に開業した杏雲堂病院をはじめ多くの結核療養所が開業していったんですが、南湖院はその流れで誕生したようです。

昔の南湖院の光景

南湖院は、東京帝国大学(現:東京大学)でベルツ博士に学んだ青年医師・ 高田畊安(たかた・こうあん)が開いた結核療養所でした。茅ヶ崎の南湖(なんご)という場所に建てたから南湖院。

そんな南湖院には名が知られた方もここに入院しており、明治41年に国木田独歩(くにきだ・どっぽ)がここで死去したことで、茅ヶ崎の名を全国に知れ渡ることになります。

明治33年6月26日の横浜貿易新報

読売新聞が6月26日の記事に「茅ヶ崎である南湖院で国木田独歩が亡くなり、その後は茅ヶ崎館にて葬儀が行われた」という内容が報じられたんですね!

この当時、新聞に記事が載るというのは大きな広告効果があったと思います。創業者の信次郎はこうした宣伝手法に優れていた方なのかもしれません。

独歩の死後、茅ヶ崎館には南湖院への見舞客、同病院の空きベッド待ちの患者など予期しなかったお客さんが増えたそうです。

当時の形をそのまま残した第一病舎

そんな南湖院、元々は14棟もの病棟が建っていたようですが現在は一棟が残るのみ。今後市財を投じて一般公開する流れになっているようなので、その時までしばし待機ですかね!

南湖院に関しては以前記事にしているので、より詳しくはこちらをご覧になってみて下さい<m(__)m>

大船松竹撮影所と茅ヶ崎館

茅ヶ崎の発展に貢献した南湖院について話しましたが、茅ヶ崎館にはもう一つ話したいことがあるんですね。

それは、大船にあった松竹撮影所っす!

1965年頃の大船駅周辺地図
※「今昔マップ on the web」を元に作成

大船というと、東海道線、横須賀線、京浜東北線が通るアクセス面の良い住宅地ですよね。ところがです、この場所には1936(昭和11)年に東京の蒲田から松竹撮影所が移ってきた歴史がありました!

上の地図は1965年ころのもの。

赤枠で囲った場所、現在はイトーヨーカドーや鎌倉女学院になっておりますが、2000年の6月までは広大な敷地に松竹撮影所があったんです。

それにより、箱根の清光園や二宮の二宮館などが大船脚本部の仕事場、定宿になり、茅ヶ崎館もその一つに選ばれたのです。

茅ヶ崎館にある小津監督の写真

映画の世界と結びつきが強くなった茅ヶ崎館。その中でも、一番語り継がれているのが小津安二郎監督に関するエピソードなんですね。

1946年、まだ戦後の混乱期の時、相模線のホームには厚木キャンプ から来た米兵を乗せたジーゼル・カーがついて彼らが投げるチューインガムやチョコレートを子供たちが押し合いながら拾う光景が広がっていた茅ヶ崎。

そんな場所に、当時では非常に目立った紳士服姿で茅ヶ崎館へと訪れた小津監督。

続きはこちら!小津監督が泊まり続けた、二番の部屋に宿泊!
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