こんちわっす!
日本中の知られざる博物館をメインに紹介している『知の冒険』ですが、取材に出る際には古い老舗旅館に宿泊するのもライフワークとなっており、その記録も残し続けていたりします。
んで、今回紹介するのはは埼玉県、栃木県、群馬県近辺の博物館を取材した際に訪問した、埼玉県ときがわ町にある『町田屋旅館』っす。
ここは明治43年に創業した老舗旅館であり、本当に昔ながらの素晴らしい建物なんですが、それだけでなく運営しているご夫婦が超フレンドリーなウルトラアットホーム旅館でした(*´▽`*)
ではでは、そんな町田屋旅館の訪問記を以下で紹介していきますね~~!
見出し
埼玉の外れにあるレトロな旅館
今回紹介する町田屋旅館があるのは、埼玉県ときがわ町という場所。おそらく、町名だけを聞くと、どこにあるのかわかる方はほとんどいないんじゃないっすかね。。
で、地図で示すとココになるんですが、埼玉県の北西部に位置しており、川越よりも奥にあるものの、秩父よりは都会よりの場所に位置している感じですね。
私も博物館取材で埼玉県は何度も訪問していますけど、ときがわ町に滞在したのは今回が初めてなのかな??
そんな「町田屋旅館」がこちらになります!
結構交通量が多い道路沿いに突然現れる、昔ながらの建物。塀に囲まれて建物は隠れてしまってますが、良い雰囲気を醸し出しておりますな~(*´▽`*)
塀や木々に覆われているので旅館の全体像を写すことはできませんが、入り口の門をくぐるとこんな光景が広がってきます!!
ちなみにですが、私が宿に到着したときにはもう暗くなってしまっていたので、これを撮ったのは翌日の朝です。。博物館を巡りすぎて、到着がめっちゃ遅くなっちゃいましてね。。(;・∀・)
ではでは、早速、中の様子を見てみることにしましょ~
1:11:29
テレビ台は囲碁盤とラジオ!?
おお~~、入り口の扉を開けるとこんな光景が広がっているわけですが、これはこれは昔ながらの作りっすよね。
玄関で靴を脱いでこの段差を上がるわけですが、これには「上がり框(あがりかまち)」という名称がついています。上がり框は厳密にいえば「玄関や土間において、“内と外”を分ける段差に取り付けられた横木」のこと。
んで、上がり框がこうして両側にあるのは本当に珍しい造りなんですってね!
館内に入ると、女将さんが出迎えてくれてチェックインを済ませます。さっきも書きましたが、宿泊した日は結構遅い時間の到着となってしまったため、着いてそうそう荷物を置いてお風呂へと直行することとなりました(*´▽`*)
とはいえ、その前に建物の内部が気になるので、少しばかり徘徊を開始!!
本日私が宿泊した部屋は、階段を上って正面に現れるお部屋っす。上の写真に襖が見えますが、あの部屋!!
階段の脇にはちょっとしたスペースがありまして、帳場の様子がココで再現されていますね!
机の上にあるそろばんは、珠が五つあるタイプ。大抵は四つですよね、確か・・
私が宿泊したのは、こちらのお部屋。
六畳間が続く十二畳の部屋だったんですが、奥の部屋だけで十分なほどの広さでした。まぁね、十分すぎるほどの広さに泊まれるのは老舗旅館の特権ですよ!
ちなみに、部屋は襖で仕切られてるだけで鍵はないっす。こういう旅館になれてないとビックリするかもしれませんが、私はもう馴れました(笑)
あと、部屋にはテレビが二台ありましてですね、使わなかった片方のテレビは、めっちゃ古いタイプのラジオの上に乗っかってました!!
このラジオはいつ頃の物なんスかね~~?
んで、私がブログを書きながら見ていたのはこっちのテレビなんですが、こっちはこっちで囲碁盤の上にテレビが乗っかってますわww
という感じで、とりあえず玄関から私が宿泊した部屋をざっと紹介させていただきました~~!!
早速風呂に入って、夕食に。夕食会場はこちらで、玄関を上がって左側にあった部屋になります。
今日の宿泊客は私だけということもあって、テレビもなくちょっと寂しい夕食会場となりましたが、スマホでYouTube見ながら、ひとり気ままに過ごさせていただきましたよ~(*´▽`*)
そして夕飯後、ご主人と女将さんから町田屋旅館の歴史について伺ってきました。なんかやたら話が弾んで、二時間半くらいずっと談笑してましたよ(笑)
ということで、町田屋旅館の歴史について、聞いた話を以下にまとめますね~~!
旅館とバス会社の二毛作でスタート
町田屋旅館が創業したのは明治43年のこと。とはいえ、昔は旅館業だけではなくバス会社も営んでおり、旅館とバス会社(西平自動車商会)を同時に経営していたみたいです。
こちらの他にも、そのバスの様子が写っている写真がいくらかありまして、こちらは昭和8年購入と書いてますね。
こちらは昭和10年頃と書いてます。日本が日中戦争に突入する前の時代なんですね!
という感じで、館内には何枚かの写真が残されているわけですが、バス会社の名残りはそれだけではなく、、
玄関に入って右手には、こんな看板が掲げられているんですが、これは昔の停留所の看板。
経路としては町田屋旅館から尾久、東松山方面へ向かうバス会社を運営していたようで、「西平自動車商会」という社名だったみたいです。
ところが、バス会社は戦争が始まった頃からガソリンが手に入らなくなってしまい、それにより事業を手放さざるを得ない状況となってしまったようです。。最終的には、東武鉄道に権利とバスを売っぱらった形になり、バス事業は終了。。
だいぶ昔にバス事業は終了したものの、今では写真や看板だけでなく、当時の乗車切符など遺品はわりと残っているとご主人さんはおっしゃってました。
社交場として芸者を挙げて賑わった
そんな町田屋旅館は、いわゆる宿泊施設としてだけではなく、昔は結婚式などの祝い事、あとは社交場としての機能も兼ねていました。
埼玉県の北西部は、秩父や飯能は木材で栄えていたし、小川町は和紙で栄えていたなど、そうした商売で財を成したお金持ちの商人が多かったそうです。んで、町田屋旅館はそんなお金持ちの方々の遊び場、社交場として利用されていたみたいです。
その際には、芸者をも呼んでいたようで、それはそれは賑やかだったとのこと。ご主人さんは「昔はとっても賑やかだったようでですね、いつも二階からは三味線の音が聞こえていたって聞いてますよ。」と、おっしゃってました。
今は二階へ上がる階段は一つしかないですが、35年ほど前まではもう一つ裏に階段があったそうです。いろんな事情があって、広間に表から外に出たくない方用の階段だったそうですけどもww
そんな町田屋旅館は、今でこそ「若い女性が一人で泊まりに来る」「こういう古い旅館が好きで泊まりに来た」という方がちらほら見えるものの、それはここ最近のことみたいですね。
そもそも、昭和の頃は富山県の薬売りが出張で泊まりに来たり、あとは工事関係者の方が長期で泊まるという、どっちかというとビジネス客が多かったみたいです。観光で泊まりに来るのは、板東三十三観音札所巡りの第九番である慈光寺が割と近くにあるので、その御寺を目当てに来る方がたま~に来たりって程度。
昭和の頃はそうしたビジネスのお客さんでもっていたものの、バブルがはじけた頃はちょっと危なかったようです。。工事がなくなってしまい、さらにバブル崩壊の1992年頃は、「古い建物は壊して新しいものを建てていこ~~」って時代だったからか、そういう話をしに来た銀行の人がたくさんいたそうです。
でも、そういう話にはのらず、細々と今まで営業を続けてきたことで今があるようです。
しばらくはご主人さんはサラリーマンをしていて、奥さんとそのお母さんが旅館を切り盛りしていたようですが、今はご主人さんは定年退職して、好きなセカンドライフを満喫しているようです。
そのご主人さんのライフワークとなっているのが、旅館から近くにある慈光寺というお寺の歴史を伝えるべく、案内をするツアーなどを行っているそうです。
この慈光寺は、板東三十三観音札所巡り第九番のお寺であり、奈良時代に開山したというめっちゃ古いお寺みたいなんですわ。
中国からお茶が伝わった話とか、鎌倉ともつながりがあるとか慈光寺には歴史好きなら大変興味深い話がある様なので、今度ご主人さんに慈光寺を案内してもらいたいものですわ(*´▽`*)
あとはですね、町田屋旅館はカフェや写真展など、宿泊以外にも色んな事やってるみたいです。
というのも、町田屋旅館は旅館ということで近所の方が泊まりに来ることはないわけです。とはいえ、近所の方もこの旅館のことは結構気になってるみたいなんですよね。
そこで、雛人形がたくさんあるからということで、館内に雛人形を飾りつつ、3月はカフェもやって近所の方も館内に入れるようにしているみたいです。
そのカフェは6年ほど前からやっているようで、その他には写真展をやったりしたこともあったとのこと。旅館って、場所がありますからね。いくらでもやりようはある気がしますな~~。
『注文の多い料理店』と関係が!?
まずはこちらなんですが、これがまさかの福沢諭吉直筆の書!
町田屋旅館創業者の叔父が慶応大学時代、ボート遊びをしていた際に強風にあおられ沖へ流され、しまいには東京湾の遠洋に押し流されたことがあったようです。
そのとき、運良く遠洋航海中の外国船に救助され横浜港に運ばれて無事助かったのですが、この書は、叔父の父が福沢諭吉塾長にお詫びのあいさつに伺った際に、そのお詫びに対して書かれたものとのこと。
右から「大幸似無事」と書いてあり、「遠洋に流され一命危うい処を助けられ、無事に帰って来たことは大きな幸せである。」という意味らしい。
続いては二階にあるこの本棚。
これは、あの三菱財閥を創業した岩崎彌太郎の弟の長男で、三菱財閥の4代目総帥でもあった岩崎小彌太の猟銃ケース!
ここに三丁の猟銃を保管していたそうです。
岩崎小彌太は好きだった狩猟に出る際、町田屋旅館では上の写真にも写ってる子犬を預かっていたそうなんです。なので、猟に出る際にここへ立ち寄って犬を預け、狩猟が終わると犬を迎えに来てたって感じですね。
そしてそして、これはあくまで推測なのですが、「上に写っている写真が、あの宮沢賢治の名作『注文の多い料理店』の話のきっかけになった一枚なのでは?」という話があるみたいなんですよ!!
・宮沢賢治は地層が好きであり、寄居、長瀞方面にも足を運んでいる。
・岩崎家は小岩井農場にも関わっていた牧場王だったことから、岩崎家と宮沢賢治につながりがあったのではないか
とはいえ、これは旅館にやって来たお客さんのあくまで推測話ではあるので、真実かどうかはわかりません。でも、こうやっていろんな可能性を考えるのは実に面白いっすね!
ということで、以上に様に建物が大変古くレトロな雰囲気を味わえる旅館であり、女将さんもご主人さんも入編フレンドリーな町田屋旅館の紹介でした~!
おわりに
はい、以上になります!
とにかくここは建物が素晴らしいだけでなく、ご夫婦の方々もフレンドリーなのでとても快適に過ごせる宿っすよ。
埼玉県ときがわ町は近くに観光地があるって感じではないものの、こういう老舗旅館というか古い建物が好きの方であれば満足できる宿だと思うので、ぜひ泊りに行ってみて下さいね~~!
ではでは、また次の記事でお会いしましょ~~。
参考文献
詳細・地図
住所 | 埼玉県比企郡ときがわ町大字玉川1482-1 |
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駐車場 | 無料 |
電話番号 | 0493-65-0271 |
アクセス | JR明覚駅から徒歩で15分くらい |
リンク | http://machikun-mm.la.coocan.jp/ |