熊本最奥地の牛深遊廓跡で探り当てた、貸座敷とマッチ箱!

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こんちわっす。

今回は久々に遊廓に関する記事になります。最近は博物館の本の取材で博物館関係の記事が多めでしたけども。そして今回の舞台は、熊本県天草市にある牛深(うしぶか)という場所にあった遊廓です。

この牛深という場所、公共交通機関ではアクセスは厳しく、熊本市からでも車で二時間以上かかるというかなりの僻地。。ではあるものの、ココには僅かながら遊廓の名残りが見られ、貸座敷だった建物も一軒だけではあるが現存しているんですね。

その遊廓について、今回は調べられる限り調べてきたので、以下で紹介していきたいと思います!!

本記事のポイント

・牛深には、明治七年に遊廓が設置された
・赤線廃止時には、三浦屋、紅裙亭、湖月、開明楼などの店があった
・現在は、電柱と三浦屋の遺構に遊廓の名残りが見られる

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熊本県に遊廓は六か所あった

改めて、今回調査するのは熊本県天草市にあった遊廓に焦点を当てるわけですが、そもそも熊本にはどのくらい遊廓があったのか??

引用元:『熊本県警察史 第一巻』

まず確認したのが、熊本県警察史。この資料を見ると、明治時代には古村町(現:熊本市二本木町)、三角浦村、八代町、牛深町、富岡町、崎津町の六箇所が遊廓(貸座敷の指定地)だったようです。

牛深町、富岡町、崎津町の三箇所は、どれも天草市であり、富岡町は島原の乱に登場する富岡城址がある場所、崎津町は潜伏キリシタンの関連遺産でもある崎津集落がある場所ですね。詳しくは調べられていませんが、この辺は港町ということで漁師がいたか風待ち港だったとかそういう背景で遊郭があったのではないでしょうか?

そもそも、熊本の遊廓の発祥は明治7年と『くまもとの女性史』『熊本県警察史』に記載されている内容を見ると、熊本県では明治7年1月に「貸座敷、芸娼妓取締規則」を制定し、熊本京町、八代、牛深に遊郭が設置され、三角には明治21年に設置されたようです。

ということで、牛深の遊廓は明治7年から歴史が始まったとのことですが、元々そういう遊女屋だった場所をそうしたのか、点在していた遊女屋を一角に集めたのか、多分以前から何かしらそういう商売をしていた店はあったと思うので、そのどっちかではないかと思いますけど、どうなんでしょうね。

引用元:内務省の全国貸座敷指定地調

そんな六箇所あった遊廓ですが、大正、昭和になると少し変化が見られます。私が所有している、内務省の『全国貸座敷指定地調』によると、1929(昭和4)年の時点では貸座敷指定地(遊廓)は四か所だったようです。

熊本市の二本木町には、73軒もの貸座敷があり大変規模が大きかったようですが、あとは八代市、三角町、そして牛深の四か所。富岡町と崎津町はもう無くなったみたいですね。。

二本木遊廓の地図

この四か所、私は全部訪問してるんですがその名残りはあんまり残ってなくてですね。。一番大きかった二本木遊廓は結構歩いたもののもう名残りは無く、近くのお店にこうした地図が残っているのみ。。

さらには三角も、歩いたものの何もなかったっすね。。

紺屋町遊廓に残る遺構「黄金」

ただ、八代市にあった紺屋町遊廓には、「黄金」という建物の遺構が残っています。ここは、ご主人さんに取材を懇願して見せていただけるだけ内部を見せていただけたので、ここについても後日記事にしていきたいと思います。

そして、今回の主役である牛深遊廓。場所はこの地図で示したところなんですが、まぁ見てもすげぇ場所にあるな〜と思うでしょww

神奈川県に住んでる私からしたら、もう今回の取材以降は二度と行くことはないんじゃないかと思ってしまうほどの距離。。ここ、家から車で行ったんですから、本当にすげぇ距離を走ったな〜と思いますよ!

そんな牛深の遊廓跡にはどんな名残りが見られたのか、次はここを探ってみることにしましょう!

わずかに遊廓の名残りがあった!

改めてですが、とにかく遠かった牛深。

海沿いを歩いてみると、今でもこうして漁船がプカプカと浮いてました。昔はイワシ漁で大変潤ったようですが、今の漁業はどんな感じなんでしょうね。

そんな海沿いにあった「牛深ハイヤ節」の銅像。

牛深といえば、このハイヤ節を欠かすことはできない伝統芸能ですが、これは有名どころでいえば徳島県の阿波踊り、あとは新潟県の佐渡おけさの起源ともいわれています。

その起源などについては公式HPに書かれていたので、一応抜粋しておきます。

「ハイヤ」は、牛深を出港して北上する帆船に欠かせない「南風」が語源。
九州地方では南風のことを「ハエの風」と言いますが、ハエがハエヤになり、ハエヤがハイヤとなっていったと考えられています。
「牛深ハイヤ節」が誕生したのは江戸時代後期。この時期の牛深は海上交通の要衝として、海産物などを運搬する帆船が多く出入りしていました。
この船乗りたちと牛深の女性たちが歌い踊っていたものが牛深ハイヤ節の始まりと言われています。

引用元:http://ushibuka-haiya.com/history/

YouTubeにも牛深ハイヤの動画はたくさん投稿されていたので、どんな踊りか見たい方はぜひ見てみて下さい!!

牛深ハイヤは、大阪までの船によって大阪に伝わったあとは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した廻船である北前船によって、様々な場所に持ち込まれ多くの場所で独自の踊りが生まれて行きました。北前船は海産物などの食糧を運ぶだけでなく、各地の文化も伝えていましたからね。

この辺も調べると面白そうではありますが、そろそろ話を本題に戻しますかww

お好み焼き屋だった「あかね」

海側から内陸部に入っていくと、ちらほら飲み屋の建物が見られ、時にはこんな時代を感じる建物も見つかったりするんですね。お好み焼き屋だったこのお店、今も営業しているのかわかんなかったですが、入り口をよく見てみると・・

「料理店」の鑑札があった

料理店の鑑札が見られました!

熊本県のこの四角くて黄色配色の奴は、佐賀県とか鹿児島県と同じデザインですね。風俗営業の鑑札、牛深では四箇所確認できたほか、八代、山鹿、日奈久温泉など結構残っていました。

飲み屋っぽい建物が連なる

あとは飲み屋だったと思われる建物も多いっすね。営業してそうなお店もありましたが、看板が外れているお店もそれなりに。

そんな飲み屋街をひたすら突き進んでいくと、遊廓だった場所に到達する訳です。

この辺が遊廓跡らしい・・

あ〜ここかな。

ここが遊廓跡になります。と言っても、今は閑静な住宅地となっていて全くそんな感じはしないですけどね。。

とはいえ、周辺をよく見てみると、、

「遊廓」と書かれた電柱

おっと、これはビックリ!!

そうそう、遊廓とか街の歴史を調べる際には、電柱が一つのヒントになるんですよ。「新地」「新天地」「楽天地」「遊園地」、こういった表記があると、その場所が歓楽街だったのではというヒントになる訳ですが、この場合はなんとストレートなことでしょう!!

「遊廓」とダイレクトに表記されているものは、今までかなりの遊廓跡を回っていますが初めてかもしれません!

でも、この電柱は一本だけ。他の電柱は「岡東」と書かれていたんですよね〜。何でこいつだけ遊郭って書いてたんだろ??

貸座敷だった三浦屋の遺構

そしてもう一つが、こちらの貸座敷だった建物。まだ遺構が丸々残っているんですよね。こちらの屋号は「三浦屋」。入り口に自転車が停まっていたので家主がいると思ったんですが、結論は空き家でした。。

かなり大きな建物だ

横から見ても、かなり大きな建物だとわかる三浦屋。二階建てで奥に長く、上の写真に写っている二階の部分は大広間かな〜とか思いながら、とりあえずグルっと三浦屋を一周してみました。

という感じで、名残りとしては電柱と三浦屋の遺構の二つですかね。その他に貸座敷があった場所は、もう新しい家が建っているか空き地になっているというだけ。

昔は料亭や飲み屋があって賑わってたんでしょうが、今はもう本当に静かな住宅地という感じですよ。

という感じで、現地での調査はこれで終了かと思ったんですが、、ここからミラクルが起きます。どんなミラクルが起こったかは説明を端折りますが(説明すると長くなるので省くだけです)、、この三浦屋のご主人、さらには周辺に暮らす二名の方に話を伺うことが出来たんですよね( ̄▽ ̄)

ということで、以下ではその証言も交えて牛深遊廓の歴史を掘り下げたいと思います。

現地の方から貴重な証言が!

三浦屋のご主人を呼んでくれた

現地の方のお宅に招いていただき、三浦屋のご主人も呼んでくれるということで電話してくれました。

三浦屋の遺構、現在は空き家となっており管理しているご主人さんは数km離れた場所に住んでいるとのことで、呼んでくれることになりました。マジでありがたいっす!!

熊本市立図書館でコピーした資料

私も熊本市立図書館でコピーした資料をスタンバイ(笑)

本当は県立図書館でコピーしたかったんですが、書棚の整理とか休刊日が重なって訪問することが出来なかったため、市立図書館でありったけのものをコピーしまくったて感じっす!

とはいえ、牛深の遊廓に関しての詳しい詳細、いわゆる遊廓の時代だったことに関する歴史に関しては三浦屋のご主人もわかんないとのこと。

ただ、資料やネットを検索すると牛深の遊廓に関して書かれたものが多少見つかるので、ちょっとまとめますか。

天草の中でも重要な寄港地だった牛深

まず、何で牛深に遊廓が設置されたかについてですが、これはネットにある論文『牛深と遊廓―歴史、地理、経済を中心に―』にも記載があるように、牛深は漁業だけでなく、明治時代の交通手段は鉄道でも車でもなく船だったため、海上交通の中継地点、あとは風待ち港という側面もあったかもしれませんが、こうした人の流れがあったことも大きかったと思います。

いわゆる今の鉄道の駅と一緒です。港は今の鉄道の駅みたいな感じだったため、船の寄港地にはいろんなお店だった理が集まるわけです。

この辺はね、あんま詳しく調べる時間がなくて自分の中でも整理できてないんですよ。。なので、論文に書かれている内容を抜粋してみます。

牛深は天草七ヶ浦のうち最大の港町であったと記されている。明治以降も天草は九州の西海域の海の重要地点として競争が激しいところであったが、その中でも牛深は複 数の会社の船が寄港する場所であった。同時に無数にあった天草の港の中で、富岡、本渡、そして牛深の3 つ以外は漁港化してしまった。ここから分かるように、牛深は天草の中でも重要な寄港地であり、 経済的にも自然環境的にも貿易港として生き残る条件の整った恵まれた場所であったのである。

牛深と遊廓―歴史、地理、経済を中心に―

あとは、近くに烏帽子坑とかの炭鉱もあったんですよね。こうした炭鉱夫たちが、宵越しの金を持たずに遊廓に金を落としまくったとかもあったりとかね。。ま、この辺は何か確証できる資料とかがあれば追記しますね。

あとは検査病院についてもちょっと触れておきますか!

検査病院に関しては『くまもとの女性史』に記述があったのでまとめてみます。

二本木駆梅院の正門
引用元『くまもとの女性史』
駆梅院長の講演
引用元『くまもとの女性史』

遊廓では、梅毒の蔓延を防ぐために検査病院を設けていました。それは、始めに横浜・長崎・神戸など外国人を対象にする遊廓街で次々に設けられ、後に地方において取り締まるように法律を整備させ方向転換を図っていきます。そして「娼妓検黴規則」が設けられることになるのです。

熊本県では、最大の遊廓街だった二本木に「二本木病院」があり、明治22年三月には「熊本県楳毒病院」と名称を改め、八代・牛深・三角の各地域にそれぞれ支院が置かれました。

あとは、その時代によって貸座敷の数が増えたり減った李みたいなことがあったようですが、資料で分かったのはそのくらいですかね。

そんな遊廓で何か知っていることがないかと地元の方々に聞くと、「この辺にはね、数年前まで紅裙亭があって、その隣には湖月、その隣には一室・・・」と話してくれたんで、

「ちょっと待ってください!!」と慌ててノートを取り出す私。そうそう、熊本市立図書館に行ったとき、牛深の昔の住宅地図が無いかと探したんですが、牛深の地図はマジでなくてですね、、その他も地図的なものは何も出てこなかったため、どんな屋号があったのかが不明だったわけです。。

ただ、三浦屋のご主人さんが小さい頃に覚えている限りの情報を教えてくれたってわけです。

赤線廃止後の牛深遊廓跡

その地図がこちら。ご主人さんの記憶があることはすでに赤線廃止後なので、料亭とかに転業したものの生き残りっすね。三浦屋を含め六軒は間違いないとのことですが、この他にも「生駒」「しょうかく(漢字は不明・・)」という屋号の店もあったようですが、厳密な場所は不明。。

この中で、今では三浦屋の建物しか残っていませんが、数年前までは紅桾亭の建物も残っていたようです。マジか〜せめて外観だけでも拝みたかったですけど、遅かったか。。

ただ、「紅桾亭」が話題に出た時、三浦屋のご主人とは別の古老の方が「そういえば俺ね、紅桾亭のマッチを持ってるよ!いる?」と、まさかの言葉が( ̄▽ ̄)

「はい、是非お願いします!!」と懇願すると、古老は家に帰ってマッチを持ってきてくれました。

元貸座敷だった紅裙亭のマッチ

しかも、二個も(笑)

今では旅館でも料亭でも飲み屋でも、お店には名刺が置かれているのが当たり前の光景となっていますが、昔はマッチがその役割を果たしていたんですね。タバコを吸う人も多かった時代だったので。

このマッチは、紅桾亭を取り壊しする前に訪問してご主人さんからいただいたとのこと。「もう壊すからいろんなものをばら撒いてた」ってことなんですかね。

丸窓に移される芸者さんの影。本当に粋なマッチ箱やわ。牛深の遊廓に関する、本当に貴重な品だと思いますよ。

そんな感じで、この場所に、どこに何の屋号のお店があったのかとか、マッチ箱をゲッツしたりといろんな収穫があり、とても満足!!

1958年3月1日に赤線は姿を消した

あとは赤線廃止について。

熊本県では、1946(昭和21)年に公娼制度が廃止されたあと、1946年12月2日に熊本県令(今の県知事)により赤線区域と青線区域が決められることになりました。

牛深の遊廓跡も赤線区域となり、引き続き色街として歴史を刻むことになります。とはいえ、赤線の時の状況を知る資料とかは何も見つかってないので、12年間どんな感じだったかはブラックボックスですけどね。。

引用元:『昭和33年3月12日の熊本日日新聞』

そして、売春防止法により1958(昭和33)年に赤線は廃止になる訳ですが、そのあたりの記述が3月12日の熊本日日新聞に、載っかっていました。

その中で、牛深の赤線地帯に関して細かく書かれているので、ちょっと抜粋してみます!

岡東の業者十二軒はさる一日いっせいに廃業した。現在まで一軒が旅館と寿司屋の認可をとり、天草島内の転業のトップを切っただけで残り十一軒はほとんどが休業状態。転業希望は料亭が五軒、下宿一軒、食堂三軒、旅館二軒、煙草アクセサリー店一軒、完全廃業一軒で料亭への転業が圧倒的に多い。しかし、近年の不漁続きでは業者のなかには不景気から倒産を予想して映画館の許可申請中や木材仲買を希望してるものもいる。

従業婦は、昨年九月六十九人だったのが、結婚や帰郷で二月末まで二十六人減り、ひきつづき廃業と同時に十九人が実家に帰り、残る七人も結婚の日取りや

病気静養のため滞在しているだけで、完全に姿を消した。

熊本日日新聞 昭和33年3月12日

熊本県下では、全体としては1958年3月15日に一斉廃業したとのこと(九州一帯が対象だったみたいです)ですが、牛深では3月1日に廃業したようです。

赤線廃止時には特殊飲食店が十二軒あったようですね。「転業希望は料亭が五軒」と書かれていますが、この中の一つが三浦屋なんですかね。あ、あと紅裙亭もか。

その後、三浦屋のご主人の話ですと、遊廓跡はどちらかというと飲みに来るための歓楽街のような一画だったとのことですが、徐々にそのお店が廃業して一戸建てが建つようになったという感じですかね。

おわりに

赤線廃止後の牛深遊廓跡に関しても、三浦屋のご主人さんはどこに℃の屋号の店があったかくらいしかご存じではないようでした。なので、そこで話は終了かと思いきや、ここで奇跡の言葉が!!

ご主人:「中、見たい??」

私:「ハイ(*´▽`*)」

何と三浦屋の内部を見せてくれることに!

三浦屋の内部へ、いざ出陣

いや〜まさかここまで収穫があるとは思っても見なかったですが、建物の中に入ってほぼ全部の箇所を見せていただけることになりました。

話を聞くと、この建物は映画の撮影にも使われていたようで、その際は誰もが知る大物女優さんもやってきたとのこと。

ということで、今回の記事はこのくらいにして、次回の記事で三浦屋の内部の写真とか、あとはご主人さんが知っている範囲の三浦屋のことを書いていきたいと思います!

↓こちらが続編ですので、ぜひ見ていただければと思います!!

参考文献

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詳細・地図

住所 熊本県天草市牛深町
アクセス とにかく遠いですww

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