米軍の魚雷で疎開船が沈没。悲しき史実を伝える「対馬丸記念館」へ!

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今回は知の冒険初の沖縄県に関する記事になります。

今まで700記事近く更新し続けてきましたが、沖縄県は人生で二回しか行ってないこともあって今回が初って感じですね。前回は知の冒険を始める前だったので。。

んで、今回取り上げるのは「対馬丸記念館」というこじんまりとした博物館。太平洋戦争が勃発している最中、沖縄といえば熾烈を極めた沖縄戦に焦点が当たりがちですが、その影で疎開船が米軍の魚雷によって沈没し、1,500名近い方が亡くなるという悲しい史実があったんですね。。

その歴史を語り継ぐのが、対馬丸記念館。

では、どんな博物館なのか、以下で紹介していきますね〜〜!

本記事のポイント

・対馬丸をイメージして建物は作られている
・疎開船が魚雷によって沈没し、1,500名近い方が亡くなった
・吉永小百合さんも関心を持っている博物館

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あえて二階が入り口になっている!

沖縄といえば、「ひめゆりの塔」とか「沖縄美ら海水族館」が有名ですし、あとは国際通りも観光客目当ての店が連なる観光地となっていますよね。

今回紹介する対馬丸記念館は、そんな国際通りから歩いて30分ほどの場所にひっそりと佇んでいます。少し観光地からは外れた海岸沿いにあるって感じですね。ということもあって、沖縄に観光しに行っても気付きにくいかもしれません。。

2004年開館の対馬丸記念館

記念館は旭ヶ丘公園という園内に建っています。

これ、最初は気づかなくて記念館のスタッフの方に言われてわかったんですが、建物は対馬丸の船をイメージして作られているんですって。入り口は階段を上った二階にあるんですけど、「なんで一階じゃなくてわざわざ階段を上がった二階にあるの?」って思いません??

これは、実際の対馬丸の入り口に高さを合わせているんですって。見た目も、言われてみると船っぽいっしょ!

ではでは、早速館内に入ってみることにしましょう!

対馬丸事件の概要とは!?

事件の概要は二階にまとめられている

館内に入るとこんな光景が現れるんですが、二階では事件の概要がパネルにまとめられています。展示物はわずかで文字ばかりを読むのは大変ではありますが、ここを見れば対馬丸事件の概要がわかるかと思います。

ということで、この記事でも、まずはそもそもの「対馬丸事件」とはどのような事件だったのかをまとめてみることにします。事件の概要を紹介しないと、この記念館のことを語ることはできないっすからね。

ではでは、事件の背景を学んでみることにしましょう!

国を挙げての疎開奨励

1941年12月8日に勃発した太平洋戦争。最初は奇襲した日本が優勢だったものの、後のミッドウェー海戦から形勢は逆転。連合軍は徐々に日本本土へと迫ってきて、日本はどんどん追い込まれることになりました。

そこで1944年(昭和19)年7月7日の夜、「敵は必ず沖縄に上陸する」と見た参謀本部の要請で、政府は緊急閣議を持ち奄美大島以南に琉球列島を対象に、戦力にならない老人、子ども、女性たちの疎開を決定することになりました。

疎開奨励に関する展示パネル

そこで、国を挙げて疎開が奨励されることになります。疎開とは、「災害や敵襲に備えて、住民、施設などを分散させる」こと。これ、神奈川とかで別の取材をしている時でも、年配の方と話しをするなかで、都会に住んでいる方は地方へ疎開したとか、あとは縁故疎開(親類や知人を頼ってする疎開)の話とかもよく出て来るんですね。

古い旅館とかだと、戦時中は疎開した児童を受け入れてたなんて話も出て来るんですよ。

最近の取材では、熱海にある竜宮館という旅館がそうでしたね。東京の大森にいた児童たちを受け入れてたと、ご主人さんが話してましたわ!

そんな感じで、全国で疎開の話があったわけですが、沖縄もそうでした。

予定人数は、日本本土へ8万、台湾に2万の合計10万人。経費は輸送費一切を含めすべて国庫負担でした。

国を挙げて奨励することになったため、国から学校まで話が下り、先生が生徒や親御さんに向けて疎開を促すわけです。とはいえ、「疎開が必要だから本土に行ってくれ!」っていきなり言われても、皆は「見知らぬ場所でどうやって生活しろって言うねん」「家族が離れ離れになるから嫌だ」と思い、なかなかうなずいてくれないんですね。

そのため、県庁や警察の職員とその家族に率先して疎開させ、一般住民を啓蒙していく作戦がとられたのです。那覇市では、各地で疎開奨励のための集会が行われ、より多くの人を集めるために大型スクリーンを設置してアニメやニュース映画を上映する手の込み様。とにかくあらゆる手段を使って疎開を促したんです。

貨物船だった対馬丸

もともとは貨物船だった

そこで、疎開をさせるためにいろんな船が疎開船として使われていきました。疎開が急務だったため、貨物船として作られた対馬丸も疎開船として使われることになります。

船倉ベッドの再現

とはいえ、対馬丸は貨物船という人を運ぶ船だったわけではないため、甲板から下には窓もなく二段に仕切られた板の上で寝ていたようです。人数も多く、換気機能もなくて中は蒸し暑い。なかなか厳しい環境だったんじゃないですかね。

生存者の方が描いた船内の様子

館内には、生存者の方が船内の様子を描いた絵画がありました。

ただ、疎開と聞かれてもまだ小さい子供にはその状況はよく理解できていません。なので、「九州に行けば、沖縄では見れない汽車や雪が見れる!」というまるで修学旅行のような気分だったとのこと。

これは、証言ビデオを見ると生存者の方がこうした話をしています。

対馬丸が通った経路

そして1944(昭和19)年8月21日の夕方、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員など1,788名を乗せ、護衛艦を含め五隻の船団を組んで長崎を出航しました。

しかし、この対馬丸には大きな欠点があってたんですね。。

というのも、この船は建造から30年も経った老朽貨物船であり、動きがノロかったんです。そのため、五隻の船団を組んだものの対馬丸は他の船に遅れる始末。。

アメリカはいつから対馬丸を狙っていたかはわかりませんが、それだけトロイ船であれば標的にしやすかったため、出航からはずっと後をつけていたのです。

魚雷により沈没、そして地獄の漂流、、

対馬丸の沈没を描いた絵画

そして、出航してから20時間くらい経った1944年8月22日の夜10時過ぎ、鹿児島県の悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて対馬丸は沈没することになります。

発射された10発の魚雷のうち4発が命中。

乗っていた方々は真っ暗な海に投げ出され、漂流することになります。とはいえ、この時期は台風が接近していたことで波は荒く、さらにはサメまでいたという証言もありました。

夜が明けたとしても、真夏だったこともあり夏は暑く夜は寒い。日差しに照らされ続け皮膚は赤く焼けただれるし、夜は寒さを補うために体を寄せ合っていたそうです。海上ということで、水も食料もない状態。

まさに地獄の漂流生活。。

漂流時の様子を語った記録

とはいえ、乗っていた1,788名のうち300名弱の方が生き延びました。1,500名近い方が亡くなったのは本当に悲劇だったものの、これだけの方々が生き残ったのは本当に奇跡だったと思います。

中には、一週間近く飲まず食わずで漂流した方もいて、マジでよくぞ生き抜いたと思います。事件が起こったのは76年前ということもあり、この記事を書いている現在でも、生存者の中でまだご存命の方がいるとのこと。

現在の館長さんも、当時4歳だったようでこの事件の生き残りの方だそうです。

事実を話すことは禁止されていた

しかし、生き残った方々にはその後も大変な苦労がありました。彼らには箝口令が敷かれたのです。

というのも、この事件が表沙汰になれば国を挙げて奨励している疎開のイメージが悪くなる。そうなれば、疎開が進まない。

今の時代であればSNSなどで一瞬で広まってしまいますが、この時代はこんな悲惨な事件があっても世の中には全然知られなかったんですね。。

家族を失い自分だけが助かったり、長い間他人に話すことを禁じられる苦しみは相当だったようで、生存した方々は「なぜ自分は生き残ってしまったのか」という思いに苛(さいなま)まれるようになります。あと、記念館のスタッフから聞いた話では、疎開を奨励した先生もひどく後悔したとのこと。。

前のページで疎開奨励の話をしましたが、この疎開は国を挙げた政策だったため、子どもたちを疎開させるために促した先生たちは、上から降りてきた命令に従っていただけでした。本気で思っていた人もいたと思いますけど。なので、「俺たちが疎開を促したせいでこんな事件が起きてしまった」と思うわけです。

事件が起こった後も、そうしたことで多くの方が悩み苦しむことになったんですね。。

でも、その後は高度経済成長期になり急成長を遂げた日本では、戦争のことも忘れ去られていきます。でも、箝口令(かんこうれい)を敷かれていた方々は、「今話しておかないと、事件のことが忘れ去られてしまう」と思うようになり、徐々に口を開くことになります。

そうしたなか、1982(昭和55)年には『対馬丸-さよなら沖縄-』というアニメが出来たことなどで徐々に事件のことが知られるようになってきたんですね。

対馬丸の船体を海底で確認

あとは、沈没した対馬丸の船体について!

太平洋戦争が終戦して少し時間が経った1950年10月、犠牲者の家族たちは「對馬丸遭難学童遺族大会」を開催し、遺族会の活動をスタートさせることになります。

船体に「對馬丸」と書かれている

そして、1997(平成9)年に遺族会からの要請に基づいて、悪石島沖海底探索を行った結果、12月12日に船体が発見されました。記念館にはその映像が流れていて、上の写真はその一瞬を写真で撮ったって感じです!!

とはいえ、その場所は悪石島沖の海底871mの場所。遺族は引き上げを要求したものの、50年以上も海底の奥深くに眠っていたということで船体はもうボッロボロ。。そのため、政府は引き上げを断念せざるを得ない状態になってしまったわけです。。

そこでです、この対馬丸事件の出来事を後世に伝えるために、引き上げられなかった代案として、この記念館は誕生したんですって。2001年6月には金額国庫補助で建設が決まり、「財団法人対馬丸記念会」という組織を作って独自運営することとなったわけです。

ということで、事件から記念館誕生までをババッと書いてみましたが、概要をまとめると以下になりますでしょうか。

対馬丸事件の概要
1944年7月7日
政府の緊急閣議により、奄美大島以南の琉球列島の疎開を決定
1944年8月21日 夕方
1,788名を乗せて長崎を目指して出航。
1944年8月22日 夜10時過ぎ
米潜水艦ボーフィン号が10発の魚雷を発射したうち4発が命中し、悪石島沖で沈没。
1950年10月
犠牲者の家族らによる遺族会の活動がスタート
1997年12月12日
対馬丸の船体を、悪石島沖の海底で確認
2004年8月22日
対馬丸記念館が開館

ということで、事件の概要を一通り説明したところで、一旦ページを区切ることにしましょう!

次のページではもうちょい館内の様子を紹介するのと、あとは吉永小百合さんもこの事件に関心を持っていることについて!

続きはこちら!吉永小百合さんからメッセージが!
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