うっす~!
今回は、山梨県の山奥にあるこじんまりとした資料館を紹介したいと思います。
山梨県は、私が住む神奈川県のお隣ということで結構いろんな場所を紹介してはきたものの、キニナル場所はまだまだたくさんあるんですよね。
んで、今回紹介するのは、あの有名作家・太宰治が二か月の間滞在していた山梨県の天下茶屋という場所であり、そこには今でも彼に関するこじんまりとした資料館がひっそりと開館しているんですよ!
ということで、その資料館について、あとはそもそもなぜ太宰治がこの山奥に滞在することとなったのか。
太宰治の生涯にも絡めて、以下で紹介しますね~
見出し
峠に位置する昭和九年創業の天下茶屋
今回のターゲットは、山梨県の御坂峠に位置する天下茶屋という食堂っす。そう、ここは今食堂となっているんですが、その二階に「太宰治文学記念室」があるんです!
その天下茶屋がこちら!
山梨県の中でも、甲府盆地と富士五湖周辺の間の峠道に位置しており、旧道沿いの山道ということで、なかなか行くだけでも大変。
でも、逆に人里離れた場所ということもあって、閑静でとてもリラックスできるところでもあります。都会にばっかりいたらね、メンタルやられちゃいますよ。。本当に。。
そして山梨県の峠に位置するということで、日本の象徴ともいえる富士山の眺めも最高。とはいえ、今日は微妙に雲がかかってしまいましたけどね( ;∀;)
きっと太宰も、ここに滞在していた間、起きた直後は今日の富士山の景色がどんなもんか、毎日観察してたんじゃないっすか!!
ということで、天下茶屋に早速入ろうと思ったら、、
あら、かわいいワンちゃん!
「小梅」という名前がつけられているようですが、これは反則すぎる可愛さですね( ̄▽ ̄)
きっと天下茶屋にやってくる人々に愛されてきたことでしょう。私が近づいても、一切動じることなく、モフらせていただきました!
ということで、今度こそ中に入りまっせ!
ほうとう鍋が名物っす!
まぁ山道にある建物ですからね、山小屋のような癒される雰囲気となっている館内。しかしやっぱり木造の建物はいいですね、本当に落ち着くというか、心が癒されますよ!
奥には御座敷もあり、サイン色紙もたくさんありました。登山客とか、あとはサイクリングやツーリング客などには大変重宝されそうなお店。
私もまだ高校生の頃は、友達とママチャリで箱根の峠を越えたりしたことがありましてですね、そういう峠にこんなお店あったら最高っすよね〜〜。でも車運転できるともう自転車は厳しいっす。。
そしてこの天下茶屋の名物はほうとう鍋っす!
山梨県と言ったら、信玄餅、鳥もつ煮、そしてほうとうっすよね!
今回は私もここできのこほうとう鍋をいただきましたが、やっぱりほうとうはうまいっす。特に、ここは雰囲気も自然満載の場所ということで、その辺も加味されてなおさら。
そんな天下茶屋は、一階が食堂となっているものの、二階に上がると、、、
こうして、ひっそりと太宰治の記念室があるわけです。
ほうとうが出来上がるまでには15分くらいかかるということなので、その待ち時間に記念館をつぶすにもいいですよね。まぁ、私の場合は博物館に行くとかなりじっくり時間をかけたい人間なので、正直一時間くらい時間欲しいところではありますけどね(笑)
ではでは、ちょっと記念室がどんなもんか、見てみることにしましょ~~
太宰の愛用品や初版本が並ぶ
ちなみにですが、現在の天下茶屋は三代目の建物。そのため、この太宰治文学記念室もあくまで彼が滞在していた部屋を復元したのであって、部屋自体は当時のままではないんですね。
でも、こうして彼が実際に使用していたものも展示しているんですよ。火鉢は本当に欠かせないものだったようで、ココは冬が近づくと結構な寒さになるため、暖房器具はこの火鉢だけだったみたいっす。
展示室は二部屋に分かれており、こうした太宰の愛用品や初版本などがガラス越しに展示してあるスペースと、彼の書斎を再現した部屋があるという感じ。
こうして数々の初版本が並べられているわけですが、実は私は太宰治の作品を一つも読んだことないんですよね。。代表作である『人間失格』『走れメロス』だけでなく、ここでの出来事が題材となっている『富嶽百景』とかも読んでは見たいんですけどね。
今読んでない本が死ぬほど溜まっているので、それを片付けてからにしたいところではありますが、いつになるのやら。。
徳利(とっくり)と杯(さかずき)もありました。とにかく酒好きだったという太宰。多くの文学仲間と酒を飲み明かしたそうです。
さらには「太宰が買い求めた」という「つぼ」に、、、
こうした直筆の色紙もありました!
という感じで太宰治文学記念館を紹介しているわけですが、ちょっとここでこの天下茶屋と太宰治に関する背景について説明することにしますね。
というのも、そもそもなぜ太宰治はこの天下茶屋に二ヶ月近く滞在することになったのかというのが疑問になってくると思いますし。
まぁ色々わからん点はあると思うのですが、「そもそも御坂峠ってどこやねん?」って話だと思うのでその場所から説明しようと思います!
交通の要所だった御坂峠
天下茶屋がある御坂峠は、古くから甲府盆地から富士五湖周辺地域を結ぶ要所でした。山に囲まれた甲府盆地は、東京の八王子方面へ抜ける最短ルートとして笹子峠が難所だったし、富士五湖方面では御坂峠が難所だったんすね。
今ではどちらも長~~いトンネルが掘られ交通が容易となっていますが、それまではクネクネした不便な旧道を通る必要があったわけです。
んで、天下茶屋があるのが御坂峠のクネクネした旧道になります。
そんな場所に天下茶屋が建設されたのは、1934(昭和9)年の秋のこと。木造二階建ての建物は、一階が売店や家族の居間、寝室などで二階が宿泊施設として八畳間が三室ありました。
んで、なんでこんな不便な場所に建物を建てたのかというと、、、
それは、ここの初代オーナーだった外川政雄さんが国道改修の業務に関わったことから、御坂峠付近にあった工事現場の家を提供してくれる機会に恵まれ、それから二年、山梨県を通じて土地を借り受けたことで、天下茶屋建設に至ったわけです。
最初は富士見茶屋、天下一茶屋などと呼ばれ、道路工事に従事する工事関係者の宿舎として利用されていました。いわゆるビジネス旅館っすね。
ところが、その後に徳富蘇峰などにより紹介されたことから天下茶屋と呼ばれるようになりました。
天下茶屋の場所、あとはこの旧道の峠道に建てられた背景を簡単に説明するとこんな感じですかね!
では、続いてはなぜこの場所に太宰治がやってきたのかという点ですね。
再婚するために天下茶屋へ!
そもそも、太宰治は明治42年6月19日に青森県北津金郡に生まれました。本名は津島修治。父は多額納税者にも選ばれており、後に貴族院議員をも務めたということもあり、裕福な家庭に生まれています。彼の生家は、今も「斜陽館」という太宰の記念館になっています。
そんな太宰は、自殺の常習犯とも言われているほど波乱に満ちた人生を送った人間でした。とはいえ、その全てが本当の自殺ではなく誤って今に伝わっているものもあるそうですが、1930(昭和5)年に鎌倉の腰越で銀座の女給とカルチモンによって心中が企てられたなどは本当のようですし、実際に最後は玉川上水に飛び込んで亡くなっています。
そんな波乱万丈というか、荒れた人生を送っていたようです。
青森に生まれた太宰は、高校卒業後、東京帝国大学(現:東京大学)に入学するため上京。その後は、ホステスと自殺しようとしたり、社会主義運動に関与したりするも、それと同時に小説を書き始めます。
一方、大学は卒業見込みがなくなり新聞社の入社試験を受けるも失敗。その後もまた自殺未遂をしたり病気で入院したりと、わけわからん人生を送るも、様々な作品を世に出していく太宰。
そんな中、作家仲間である井伏鱒二の勧めで彼が滞在していた天下茶屋に行くこととなったのです。その理由は以下の二つがあったようです。
・思いを新たにするため
そもそも、太宰は生活者としてはかなり無茶苦茶な人間だった為、井伏鱒二は「こいつは独り身だとマジで何するかわからん・・」と大変心配に。そこで、奥さんをもらったほうがいいとなったわけです。
そこで井伏が結婚(再婚)相手を探したところ、山梨県に住む石原美知子が挙がり、井伏が「見合いの話があるから天下茶屋に来ないか?」という話になったというわけです。
そんな背景があり、太宰は昭和13年9月13日から11月15日までの二か月ほどをこの場所で過ごしています。
太宰が天下茶屋でどのような生活を送っていたのかというと、それは小説『富嶽百景』でも描かれているように、毎日富士山と対峙しながら創作活動を続けて、ここでは『火の鳥』を執筆していたようです。
そう、『富嶽百景』は天下茶屋で滞在した様子を綴った作品ではありますが、この作品自体を執筆したのは、その後の甲府で暮らしていた時期なので要注意っす!
天下茶屋では夜遅くまで仕事をして、朝は遅く起きるという生活。昼間は来客の相手をしたり、郵便局へ行くなどの雑用を行っていました。食事は、お客さんのいない間に一階に下りてきて天下茶屋の方と一緒にとっていたそうです。
ちなみに、天下茶屋で太宰は何を食っていたのかというと、それは山梨県の名物でもあるほうとう、あとは麦ごはんだったそうです。
太宰がこの天下茶屋に滞在する日数は特に決まっていませんでした。とはいえ、冬が近づくと寒さは厳しく、暖房は火鉢だけ。
これ以上の天下茶屋滞在は厳しく、ましてや石原美知子がここを訪ねて太宰との結婚の話が進行しているということで、茶屋にとどまり続ける必要も特になくなりました。
わずか二か月ほどの滞在でしたが、富士山を眺め続け、天下茶屋の人たちと触れ合った日々は、波乱万丈な太宰の人生においても束の間のひとときだったんじゃないですかね。
甲府へ下りて新婚生活を
その後、甲府に下りた太宰は、年が明けた1939(昭和14)年1月8日に、井伏鱒二の仲人により、石原美知子と結婚。新婚生活を甲府駅の北口で過ごすこととなりました。
まだ新婚生活ということもあり、安く狭い建物に住んでいたこの時代、彼は執筆活動を続けながら、毎日、近所にあるこちらの銭湯「喜久乃湯温泉」に通っていました。
当時住んでいた住居や、太宰が通っていた酒屋などはもうなくなっているようですが、喜久乃湯温泉はまだ健在。ここ、ご主人さんも凄く親切な方で、昔の歴史とかも聞くと色々話してくれると思うので、興味ある方は足を運んでみて下さいね!
おわりに
人里離れた場所にひっそりと佇む「太宰治文学記念室」。
旧道の峠に位置しているということもあって、アクセス面では良いとは言えない場所ではありますが、太宰治ファンはもちろんのこと、この人里離れた場所に佇む木造の建物の雰囲気が本当に癒される、そんな場所でした。
そして天下茶屋のすぐそばにある文学碑では、今でも6月19日に太宰を偲ぶ桜桃忌が行われています。2020年からの二年間は、新型コロナウイルスの影響で関係者だけでひっそりと行われたそうです。
今でも多いという太宰治。私も、こういう博物館や資料館をキッカケに彼の人生を知ることが出来て良かったと思てはいますが、とりあえず一つくらい彼の作品を早く読まなくては。。(笑)
参考文献
詳細・地図
住所 | 山梨県南都留郡富士河口湖町河口2739 |
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営業時間 | 10:00~17:00 |
定休日 | 年中無休 ※冬期は天候により休業することがあります。 |
駐車場 | 無料 |
電話番号 | 0555-76-6659 |
アクセス | 中央自動車道「河口湖IC」より国道137号線、河口湖大橋を経由 して一宮御坂方面へ約15分、「峠の茶屋」を通過後、 新御坂トンネル手前を右折し、旧137号線をさらに約15分。 |
リンク | http://www.tenkachaya.jp/ |