選抜試験で村民を決定!大潟村干拓博物館で学ぶ八郎潟の歴史!

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こんちわっす!

今回は、秋田県にある博物館に関する記事になります。

秋田県にも興味深い面白い博物館ってたくさんあるんですけど、今回紹介したいのは「大潟村干拓博物館」という日本で唯一の干拓に関する博物館っす。

何の博物館かというと、秋田県にある八郎潟を干拓したことに関して学べるんですね。八郎潟って干拓して湖の内部に陸地があるじゃないっすか。その背景ってことっすね!

なぜ干拓することになったのか?さらには、干拓によって誕生した村には、どのように人々が暮らしていったのか?

そんなかなりユニークな干拓史にまつわるお話を、以下で紹介したいと思います!

本記事のポイント

・大潟村は、八郎潟を干拓したことにより誕生した
・村の土地は海抜よりも低く、毎秒80トンもの水が排出されている
・新しくできた土地であるため、全国に募集をかけて村民が集まった

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坂一つない、真っ平らな大潟村

はい、ということで今回のテーマは、こちらの大潟村になります。

皆さんも学校の地理の授業で習ったと思うんですよね、ココ。元々、八郎潟は日本では琵琶湖に次ぐ第二位の面積をもつ湖でしたが、全体の4分の3を陸地にしたという大変珍しい場所。

北海道のような広大な大地が広がる

そんな大潟村は、村全体が真っ平ら。村には坂が一つもなく、田畑が広がるまさに北海道のような広大な光景が広がっています。東京や神奈川などのコンクリートジャングルに住んでる私からすると、なんと開放感溢れる光景だと大興奮ですが、地元民からすると、見慣れていてなんとも感じないそうです(;・∀・)

そんな大潟村ですが、キニナルのは「なんで、湖にこんな陸地を作ったんだ?」という点っすよね。

道の駅にある大潟村干拓博物館

もちろん、これには大きな理由があるわけで、その歴史を学ぶことが出来るのが、道の駅「おおがた」にある大潟村干拓博物館なんすね!

屋根がやたらデカイこの建物こそが、大潟村の歴史を語り継ぐ博物館なんすよ。

結構広大な展示室

館内の、こちらがメイン展示室っす!

今回は、取材という形で、大潟村の役場で働く職員の方に館内を案内していただき、大潟村にまつわす様々な歴史を説明していただくことが出来ました!

ということで、以下で館内の様子を写した写真を交えつつ、大潟村に関するあれこれを紹介していきますね~~(*´▽`*)

干拓したのは政治的な理由だった!?

湾の変遷を写した写真

では、まずは「なぜ、八郎潟を干拓したのか?」という点からいきますか。

まずは、こちらのパネルを見ながら!

元々の八郎潟

干拓される前、八郎潟はこんな感じでした。周辺地域からは河川が注いでおり、日本海と通じているのは南部の船越水道のみ。その船越水道は幅が狭いということもあり、八郎潟沿岸では水があふれることでしばしば水害に見舞われていました。

そんな八郎潟では、ずっと昔から干拓構想があったようです。明治時代に八郎潟干拓が立案されるも、政府から賛同が得られず、その後は関東大震災が発生したり、よくある漁民の反対などで大規模な干拓はずっと実現されないままが続きました。。

そもそも、なんで干拓したかったのかというと、山がちな日本ということもあり、農作地として広大な平地が必要だったんじゃないかと思ってますが、この時点での理由に関して明確に書かれてるものはありませんでした。。

ところがです、1941年に太平洋戦争が勃発!

そう、この八郎潟が干拓される要因となったのは太平洋戦争だったのです。

んで、干拓には大きな理由が二つあったんですが、一つは食料の確保でした。

終戦後、日本ではとにかく食っていくことに精一杯な状態でした。そのため、米を植える田んぼをより多く確保する必要があったために、干拓したかったというのがありました。

もう一つは政治的背景です。

終戦後、日本は敗戦国となり、アメリカは出来るだけ多くの戦勝国を講和条約に参加させようとしていました。ところが、「日本に賠償を求めない」とうアメリカの方針に対し、インドネシアにあった植民地を日本に占領されたオランダがそれに反発したのです。

戦後に首相を務めた吉田茂

そこで、当時の首相である吉田茂は、「オランダの技術協力を得て行うプロジェクトはないか」と打診。つまり、賠償金を支払う代わりに、オランダに技術協力費を払うことでオランダを納得させようという狙いだったのです。

そのため、それを実現するために、日本のどこかを干拓しなくてはいけなくなりました。

その候補として挙がったのが、琵琶湖、東京湾、八郎潟だったようです。この三つが候補に挙がったという事実は、吉田茂のインタビューを記録した資料がアメリカのペンシルベニア大学で見つかっているようで、間違いないとのこと。

とはいえ、琵琶湖も東京湾も水深が低いため干拓には適さないというか、技術的にムズイ・・。

そこで発案されたのが、八郎潟の干拓だったのです。

八郎潟は、日本で二番目にデカイ湖の面積を誇っていたものの、実は水深が平均四メートルしかない、かな~り浅い湖だったわけです。そのため、干拓するには最適な場所だったんですね!

埋め立てではなく干拓が行われた

ちなみに、八郎潟で行われたのは、”埋め立て”ではなく”干拓”っす!

つまり、土を盛って陸地を作ったのではなく、周囲に堤防を作って八郎潟を囲い、水を抜いて湖底にあった陸地を出現させたってことっす。

ピーター・フィリップス・ヤンセン氏

八郎潟と場所が決まり、国営による八郎潟干拓事業の計画が、オランダ人のピーター・フィリップス・ヤンセン氏の案をもとに策定され、57年に着工、64年に干拓地に大潟村が発足することになります。

以上のように、単に農地を作って食料自給率を上げたかったからということだけでなく、そうした政治的な背景も関係していたんですね!

これは知らんかったな~~。

ということで、まとめですが八郎潟が干拓された理由は以下の二つになります。

八郎潟が干拓された理由
1. 戦後の食糧不足解消のため、農地を確保する必要があった
2. サンフランシスコ講和条約の署名を渋ったオランダに対する懐柔案として、オランダの協力の下での干拓事業を行うことにしたため。

毎秒80トンもの水を排水し続けている

以上のような背景で干拓することになったわけですが、この事業は二つの事業によって成り立っていました!

大潟村干拓の概要
国営干拓事業(昭和32~43)と事業団事業(昭和40~51)があり、国営干拓事業は干拓工事を行い、事業団事業は住宅や農業に関する入植者向けの対応を行いました。

国営干拓事業:中央干拓地と八郎潟沿岸の周辺干拓地の干拓工事を行った。
事業団事業:八郎潟新農村建設事業団が農地の整備や入植者の住宅、集落用地、公共用地などを整備するとともに、各種の農業施設や農業機械の購入、入植者の訓練指導を行った。

ということで、干拓に関しては秋田県ではなく国の事業だったんですね!

堤防を作り、水をポンプで外へ排水

先ほども説明したように、大潟村では水を排水するという干拓が行われていました。そのため、上の写真のような感じで水をひたすら排水していったわけです。

とはいえ、今ある水を抜けばいいというわけではなく、大潟村には周辺の河川から水が流入していました。そのため、今ある水を抜いてもまた水が流れ込んで土地が水の底に沈んでしまう。。

そのため、干拓で出現した土地を維持を維持していくためには、随時、一定量の水を排水機場によって排水し続けなくてはいけないのです。

これだけの水量を毎秒排出している

それに関するものとして、館内にはこんなオブジェがあります。

これは、子どもたちにわかりやすいようにと作られたオブジェ。八郎潟には、今でも20近い川が周囲にあり、それらの流れてきた水が流入しています。海水面より低い大潟村は、何もしないと水没してしまうため、排水機場により、毎秒80トンもの水を海へ排出しているのです。

その80トンの水の量が、このオブジェの大きさってこと。一秒にこれだけの水を排出しているとは、凄い規模ってことがわかりますね!

とはいえ、水を抜くだけでなく土地を乾かすだけでかなりの年月がかかったようですが、1952(昭和27)年に干拓事業が始まり、1964(昭和39)年には大潟村が誕生。

その後、1968(昭和43)年から、その場所に入植者の方々がやって来ることになるのです。

全国から村民が集まった

干拓したことにより、新しい平地が爆誕した大潟村。

ということで、ここで新たに暮らす村民を全国から募集することになりました。

全国からの入植者数
第一次募集:昭和42年 56名(倍率11倍)
第二次募集:昭和43年 86名
第三次募集:昭和44年 175名
第四次募集:昭和45年 143名
第五次募集:昭和49年 120名
※ 一次~五次までの平均倍率は7.2倍

そして募集をかけたところ、全国から新しい大地で新しい生活を夢見た方々が応募し、第一次募集は競争倍率が11倍というかな~り狭き門となったのです。入植者は、秋田県出身者が半数以上を占めましたが、北海道から沖縄までの方が大潟村に集まったんですって!

みんなどんな背景があって大潟村へとやって来たかは、本当に人それぞれ。私に説明してくれた職員の方も移住者の三世であり、おじいちゃんが青森県から移住してきたそうです。

それは、豚肉を買った時の包み紙に書かれていた募集をたまたま見たことがキッカケだったようで、当時は日雇い労働という条件が良い働き方ではなかったことから、捨て身でやってきたとのこと。

今でも地方移住とか、早期リタイアしていなかでのんびり暮らすとかいろいろありますけど、どんな環境であれ特に移住して暮らすってなかなか勇気いりますよね。。私なら、よほどのヤバい状況じゃない限り無理だな。。(;’∀’)

秋田に近い県の人々が多かったみたいだ

北は北海道から南は沖縄まで、全国の方々が大潟村へとやって来たみたいですが、館内にあったこちらの地図を見ると、山梨県、神奈川県、京都府、大阪府など、ピンクで塗られた都道府県は0人だったようです。

また、北海道や東北の方々が多いように秋田県に比較的近い地方の方々が多かったようです。なんだかんだ、四国や九州に住んでいる方が一念発起して東北に暮らすってのも確かにハードル高すぎるもんな・・。

そして、上で書いたようにこの応募は募集が多く倍率も高かったことから、この村は選抜試験によって村民を選んだんですね。選抜試験とは、面接や論文という、今の公務員試験のようなものだったみたいっすよ!

この選抜試験によって村民を決めたというのが、メッチャユニークっすよね!

入植者の方々の割り当て

そんで、選ばれた方々が実際に入植することになったわけですが、各々が大潟村のどこに住むか、あるいはお墓の場所をどこにするかは、なんとくじ引きで決めたとのことww

ん~確かに公平な決め方ですが、めっちゃオモロイっすね。

そんな感じで入植者が集まるわけですが、全国から集まるということで、方言もそうだし生活様式だって地方によってバラバラなわけです。なかには、移住者同士で結婚したときなどは、結婚式の様式が各々の過程で全く違ったことから、両家が納得する形にするのに苦労するなど、そうした文化の違いというのが浮き彫りになったとのこと。

そんで移住してきた方々は、大潟村で農業をすることになります。

大潟村の農業は、広い農地で機械を使った生産性の高い農業を目指し日本のモデル農村とする背景があったことから、それまでにはない技術が試され、トラクターやコンバインなどの大型農業機械の技術、ヘリコプターによる籾(もみ)の直播き栽培。またグループによる営農も新たな試みでした。

入植者訓練では、それらの新しい技術や農業経営が教えられ、訓練生は一年間の訓練期間を経て新たな農地へと巣立っていく。

1968年の営農開始以降、直播きは田植機による移植に変わり、農業機械はより高性能な小型機械が導入されていきました。さらにはグループ農業は見直され、各々の農家が個別に経営効率の高い農業を営むようになったんですね。

モダンな三角屋根の住宅

あと、移住してきた方々が暮らしていた家はこんな家でした。三角屋根のモダンなもの。

住居がつくられた当時は、道路や家の周りに緑がありませんでしたが、30年以上経った現在では、街路樹も大きくなり豊かな緑に包まれています。また、入植者の家族も増え、住宅も改修や建て増しなどが行われたことで、入植当時の面影は消えつつあります。

こんな間取りだったみたいっす
入植者の方々を現わした人形

館内には、そんな入植者たちの様子を現わした人形がありました。

米を見てとても嬉しそうにしている

まさに昭和の食卓って雰囲気を再現してますね。収穫したお米を見て、とても嬉しそうにしてますな。

ちなみに、現在も大潟村に暮らす八割近くの方々が今も農業をしているそうです。農家で暮らす分には生きていくには十分なようで、入植した方々はいわゆる「ここに移って失敗だったわ・・」ということはほぼなく、移住の一つの成功例でもあったようです。

土地がグニャグニャでもう大変!

とはいえ、最初に入植してきた方々は、グニャグニャだった土地に大変苦労したみたいです。干拓って、水を抜くだけでなく、その土地を乾かすのにもかなりの年月がかかるみたいなんですよね。

そのため、大きな重機を使うとこんな感じで重機が埋まってしまうようなことがたびたびあったようです。。

メッチャ怒っとるがな・・

さらに、こちらのコーナーには野鳥のはく製が展示されております。

というのも、秋田県内のうち七割近くの野鳥が大潟村で見られるという、バードウォッチングには最適の場所みたいですよ。

広大で平らな土地ということもあり、鳥たちによっては外敵をも見つけやすい格好の場所なんですかね~~。

平成12年に建てられた博物館。国営事業によって誕生した歴史を保存していくこと周知、普及を目的としている。案内ボランティアもいて、

おわりに

以上になります!

皆さんは、この大潟村の背景についてどのくらいご存じだったでしょうか?

恥ずかしながら、私はこの辺の背景を全く知らなくて、職員の方に説明していただいたほとんどの内容が初耳でした。しかし、本当にユニークな背景がたくさんある村で、とても面白く感慨深い博物館だと思いましたよ!

とはいえ、大潟村ってそうそう行ける場所じゃないっすからね、関東や関西に住んでいる方だったら行ったこともない方も多いかもしれないですが、こんな場所にも面白い話があるものです。

世の中って本当に面白い、改めてそう思った、大潟村干拓博物館への訪問でした!

参考文献

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詳細・地図

住所 秋田県南秋田郡大潟村字西5-2
入館料 一般・大学生:300円
小中学生・高校生:100円
開館時間 09:00~16:30(入館は16:00まで)
休館日 4月~9月:毎月第2・第4火曜日
10月~3月:毎週火曜日
年末年始(12月31日~1月3日)
(火曜日が祝日の場合は翌日が休館日です)
駐車場 無料
電話番号 0185-22-4113
リンク http://www.oga-ogata-geo.jp/support_education/polder_museum

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