今回は、ものすごい暗く重いテーマを扱った博物館に関する記事になります。それは、群馬県の草津温泉街のそばにある「重監房資料館」。
もう”重監房”というだけでかなり強烈なインパクトだと思いますが、マジでここは名前負けしない、すんごい内容を扱っている博物館です。 生きる意味というか、人生を考えさせられます。
なので、ここに行った方の多くは「あの超有名観光地である草津温泉に、こんな歴史があったのか!」という感想を持つと思うんですよ!
ではでは、その重監房資料館とはどんな博物館なのか??
以下で、紹介したいと思います。
草津温泉とハンセン病の関わりとは!?
そもそも、今回のテーマである「重監房資料館」には草津温泉とハンセン病の関わりを知ることでより理解が深まるので、先にその話題をサラッと書いてみようと思います!
と言っても、その辺の詳細は以前の記事にまとめたのでこちらを読んでいただければわかると思います!
簡単に言えば、草津温泉には、明治時代に「草津の湯がハンセン病に効果あり」と宣伝されたことでハンセン病の患者が住み着いたものの、ハンセン病の隔離政策が行われたことで、温泉街から少し離れた場所に療養所である「栗生楽泉園」が誕生した歴史がありました。
その後、全国のハンセン病療養所の中で、特に反抗的な入所者を閉じ込めるための施設を作る話が持ち上がり、極寒の草津に重監房が設置されたという感じ。
簡単に言えばこんな流れっす!
その重監房の史実を後世に伝えるための資料館があるということで、寒い寒い二月に訪問したという次第です。二月ということで、まだバリバリ雪も残っているというか、時折雪が降っているという時期っすね。
私の車はノーマルタイヤのため、高崎でスタッドレスタイヤを装着したレンタカーに乗り換えての訪問でした!
そんで、こちらが2014(平成26)年4月30日に開館した重監房資料館。
まだ開館してから7年くらいの新し目な博物館ですね。さっそく中にはいてみましょう!!
館内に入っていきなりデーーーンと現れるのが、こちらの異様な壁!!
ただ灰色をしただけで、まるで刑務所にある外の世界と断絶させるための壁のように見えるわけですが、これは重監房を再現したものなのです。
実はこの重監房、資料館を創る話になったときには当時の資料はほぼ残っていなく、建物もすでに壊れて跡地だけが残る状態だったんですね。なので、元々どういう建物だったかがわかんなかったわけです。
そのため、跡地を発掘した際に見つかったいくらかの建物の残骸だったり、あとはこの重監房に配給をしていた栗生楽泉園で暮らしていた方々の証言、あとは沢田五郎というかたの書籍『とがなくてしす 草津重監房の記録』などをもとに再現したとのこと。なので、当時の建物ソックリまで出来ていない可能性もあることから、ここでは”復元”ではなく”再現”という言葉を用いているとのこと。
身の毛がよだつ恐ろしい造り
では、再現された重監房の中に入ってみることにしましょう。
ちなみに、この建物の正式名称は「特別病棟」なんですね。名目は”病室”なんですが、実態はただの監房というね。。
じゃあ「重監房」って名称はどっから出て来たのかというと、栗生楽泉園の入所者の方々が「実態は、重い罰を与えるための監房」という意味で重監房という言葉を用いていたことからきているんですって!
ちなみに、文字は今のように左からではなく右から左に書かれていますね。戦前に造られたので。
なので、入るとすぐに医務室という部屋が現れるのですが、実際にここで治療は行われなかったと思われます。
入り口に扉があって、医務室の奥に扉があって、さらにその奥にもう一つの扉がある。
そして、監房の部屋に扉があるということで、入り口に一つ、通路に二つ、監房の部屋に一つと、扉は全部で四つもあるというわけ。
監房の中はこんな感じだったようです。マジで草木が生えているだけ。。扉は四重だし、もはや逃亡する気にもならなかったでしょうな。。
再現された重監房には八部屋ではなく二部屋だけがあり、こうして雪が積もった冬の様子も再現されています。
周囲や天井にどっさりと積もっており、部屋の中は外とほとんど気温が変わらなかったこともあり、マジで冬は地獄だったと思う。実際、多くの方が冬に亡くなったとのことだ。
一応重監房の造りを図で示すとこんな感じっす。入り口から入ると、医務室と宿直室(警備をする人が寝泊まりする部屋)があり、奥に問題児が入れられていた部屋が八つあるという感じ。
とはいえ、ちょっと先ほどでも触れましたが、医務室も宿直室も部屋があるだけで本来の役目は果たしていなかったようです。
模型もあったので載せておきます。
ココに人が閉じ込められていたと考えると、本当に小さくとも異様な世界がかつての日本にあったんですね。。
→ 割って凶器に使われる可能性があるため
・部屋の中に何がある?
→ 四畳半ほどの広さに、薄い布団と簡易トイレがあるのみ。マジ地獄。。
・窓はある?
→ 監房に入るための扉と、食事を届ける小さい穴、換気のため?の小さい穴があるくらい。中は、昼か夜かもわからない。
・電気は通っていた?
→ 通ってなかったと思われている
・寒さについて
→ 中は、ほとんど外と変わらなかったそうだ。草津は、冬は氷点下20℃にもなるため、恐ろしい寒さだったと思われる。
あまりにも過酷すぎた重監房の世界
では、収容されていた部屋の中を覗いてみることにしましょう。。
中はこんな感じ。広さは四畳半ほどで、部屋の中にあるのは布団と簡単なトイレのみ。この何もない場所で、いつ出られるかもわかんなかったわけです。
娯楽物は何もなく、誰とも話すこともできず、日々何かを考えることしかできない世界。
食事は配給されていたものの、一日に必要な栄養には程遠い量でした。朝と昼だけで夜は無し。一食は、梅干しかたくあんとおにぎり一つ分ほどのお米、あとは具の無い味噌汁というメニュー。
その食事はこの穴から渡されていました。食事を配給していたのは栗生楽泉園に入所していた方々だったのですが、ここでも仕事は皆が嫌がったため、新入りがやらされていたそうです。。食事の配給だけでなく、亡くなった遺体を運ぶ作業とかね。。
配給をしていた方の証言では、この配給する窓から腕だけが出ていてひたすら腕を光景も見られたそうです。。
マジで、その辺のホラー映画よりもはるかに怖いと思うわ・・。
この布団だって、冬の草津にはあまりにも薄すぎるわけです。マジで、寒さは地獄だったと思います。。
そしてここでは23名の方が亡くなったわけですが、その遺体を引き取る際には、体液が凍ったからか布団が床にへばりつき、それを剥がすこともしなくてはいけなかったそうです。。
そして、部屋の奥をよ~~く見ると、壁にこんな落書きが書かれています。これ、実際に重監房の跡地を発掘した際に、落書きが書かれた壁の一部が発見されたんだそうです。
部屋には時計が無かったとのことなので、毎日こうして記録していたんですかね。一日一日を生きた証を残し、生きる希望をこうしてつないでいたのだろうか・・。
まだまだえげつない話は存在する。
資料館のスタッフによると、記録を見るとここには30名の方が同時に入っていたようなんです。ところが、部屋は八部屋。つまり、わずか四畳半ほどの部屋に、見知らぬもの同士が入っていたこともあったようだ。
もっというと、それが全て男性だったとは限らない。もし女性も一緒に入ってたとなると、ちょっと考えるのも怖い。。
二人が入っていた場合、片方が死んでも、それを隠しておけば二人分の食事を頂けるということで、ずっと遺体を放置していたなんて話もあるとのこと。とはいえ、放置しすぎて臭くなってきたら、仕方なく「一人死んだ」と伝えたとかね。。本当かわかりませんが、そんな話も残っているとのこと。。
ということで、重監房のシステムをまとめると以下になりますかね。
1938~1947年までの九年間
2. どんな方が閉じ込められていた?
全国のハンセン病療養施設にいた入所者の中で、特に反抗的だった、いわゆる問題児的な方が、基本的に入っていたとのこと。
3. 何名がココで亡くなったのか
のべ93名の方が入っていて23名が亡くなった。”のべ”というのは、二度、ここに入った方がいたため、そう言っています。
4. 食事について
配給は朝と昼だけで夜は無し。おにぎりほどの飯に梅干し or たくあんがつき、あとは具の無い味噌汁だけ。一日分に必要な栄養には満たない。地獄である。
5. 一人一部屋だった?
基本は一部屋なのだが、記録を見ると同時に30人が入ってたこともあったようだ。そのため、一部屋に2,3人が入っていた可能性も考えられる。。
6. 何日間閉じ込められていた?
短いと二日というケースも見られるが、最長は549日。二年近くここで暮らしていたということだが、マジで考えられん。。
改めてですが、こんなシステムの中で500日以上も生きるとかマジで気が狂うわけです。私がここにいたら、数日で発狂すると思います。
配給はあるものの、それだけでは栄養が足りないことから何日も生き抜くのは普通に考えると不可能。なので、資料が無く推測でしかないですが、資料館の方がおっしゃるには、協力者の方がいて、配給を持ってくる際に差し入れがあったのではないかなどの可能性も考えられるとのことです。
こんな世界が、つい70年ほど前に、しかも日本の草津にあったとは本当に考えられない。。
という感じで、重監房のシステムなどをここでは紹介しましたが、一旦ここでページを区切ることにしますか。
次のページでは、この博物館誕生の背景だったり、あとはここが最後どのような終わりを迎えたのかについて紹介しようと思います!